『ねぇ、亜弥』
「ん?」
『あたしも夜の街歩き、ついていきたいな』
最近の明日香はこういう提案をよくしてくる。
明日香の家の門限は九時。絶対に無理なことは自分でもわかっているくせに、よほど興味があるのだろう。
「前も言ったけどさ、ひとりで歩くのが好きなの。それに、もしバレたら明日香のおばさんに殺されちゃう」
『リョウさんって人、見てみたいんだもん。思うんだけど、ふたりの出会いって運命っぽくない?』
まだその話題を引っ張るか。テンションの高い声が耳に痛くてスマホを遠ざけた。
「どこが運命なのよ。ていうか、あの人、絶対に不良だと思う」
『どうして?』
「だって金髪だよ? それにすごく冷たい目をしてたし、ああいう人って心も冷たいに決まってる」
彼の顔を思い浮かべる。
普通はすぐに忘れてしまうのに、何日たってもまるでさっき会ったみたいに、顔も声も、髪も手も覚えている。
『冷たくないじゃん。だって、亜弥のこと助けてくれたんでしょ』
「うーん、そうだけどさ。うまく言えないけど、笑っているのに怒っているように見えたっていうか……」
――まるで世界中が敵みたいな。
って、なに言ってるんだろう。
ほんの数分話しただけの人の、なにがわかるというのか。こういう決めつけがいちばん嫌いなはずなのに、率先してやっている自分を軽蔑してしまう。
彼がベールのようにまとっていた雰囲気は〝怒り〟だった。
にこやかな笑顔の下に、時限爆弾のように破裂しそうな感情があった気がする。
「ま、とにかくこれから先は関わることのない人だしさ」
話をまとめていると、
――ピンポーン。
来客を知らせるチャイムが鳴った。
「ごめん、誰か来たから切るね」
『わかったー。またね』
スマホの画面を切り、廊下を歩く。
明日香に夜の街歩きの話をするのは、今後やめたほうがいいかもしれない。
「はい」
ドアを開くと、スコープ越しで見たよりもさらに丸い体型の女性がいた。
有名なネズミ型ロボットのキャラクターをとさせるかわいらしさ。
「どうも~」
漫才師のような挨拶をする女性は三十代半ばくらい?
パツンパツンの黒いスーツ姿で、前にあるふたつのボタンをなんとか留めている感じ。
ボブカットというよりも、おかっぱ頭で顔には化粧気がなく、体に反比例して顔のパーツはどれも小さかった。
耳なんて私よりも小さいくらい。
戸惑う私に女性はニッと笑う。
頬の肉がもりっと一緒にあがった。
「はじめましてぇ」
足元にはいくつものスーパーの袋。そして、真っ赤なボストンバッグがひとつ。
訪問販売の人?
ドアを閉めようとすると、つま先をドアの隙間にねじこんできた。
「出水亜弥ちゃんだよね?」
「え……」
ドアは再び開かれた。
「私は、桜井伊予。伊予ちゃんって呼んでくれればええで」
ムクムクと成長する嫌な予感は、どんどん形を作ろうとしている。
そんな私を気にもせずに、
「へぇ、広い家やな!」
ずいと玄関に入って来た伊予ちゃん、いや、伊予さん。
「え、ちょっと――」
止めようとするが、その大きな体にあっけなく押し戻されてしまった。
「これ、スーパーで買ってきてん。これが冷蔵庫に入れるぶんな。一緒に運んで」
ひょいと渡されたスーパーの袋を受け取ると、
「うわ!」
想像の何倍も重くて悲鳴をあげてしまった。
「んでな、これは冷凍庫や。あ、あかん。バッグが!」
慌てて玄関先に置きっぱなしのボストンバッグを取りにいってしまう。
「いやー。雨すごいなぁ。美女がびしょびしょやわ」
今どき、誰も言わないようなおやじギャグを言ったあと、ようやく「あ」と伊予さんは口をつぐんだ。
「自己紹介がまだやったな」
そうですとも。
伊予さんがピシッと背中を伸ばした。同時に、留めてあったスーツのボタンが漫画みたいに外れた。
「亜弥ちゃんのお父さんからのご依頼で参りました。なんでも屋の桜井伊予です」
『です』、の『す』の音を高く発音する関西弁の伊予さん。
やっぱり、悪い予感はいつだって当たってしまう。
なんでも屋を雇うことは聞いていたけれど、まさかこんなにすぐ来るなんて思っていなかった。
「そんな不安そうな顔しな。これからウチがいろいろ教えたるからな。最終目標は、亜弥ちゃんが自分を助けられるようになることや」
「……自分を?」
意味がわからずに聞き返すと、「そうや」と伊予さんは肉まんみたいな顔でうなずいた。
「ひとりでなんでもできる、ってのと、自分を助けるってのは大きく違うんやで。自分を助けられる人は、ほかの人も……って、それはまた今度な。とにかく、任せときっ!」
と伊予さんは私の背中をバシンと叩くから、廊下に倒れこみそうになった。
遠くで雨の音がひときわ大きくなった気がした。
【第二章】
はじめから、ひとりだった
お母さんが亡くなったのは、九年前の今日のこと。
私は小学一年生で、その日はひどく雨が降っていた。いつもは騒いでいるクラスメイトは、なぜか小声で給食を食べていて、教室のなかにも雨のにおいが漂っていたことを覚えている。
そのころの私は今じゃ考えられないくらいおしゃべりで、頭に浮かんだいろんな話題を飽きることなく話し続けていた。
だから、いつもと違う雰囲気には違和感があったし、それを壊すのもはばかられるほどの重い空気を感じていた。
昼休みが終わるころ、青い顔をした担任の先生が私の名前を呼んだ。名前は忘れたけれど、蛍光色のスウェットを好んで穿いている若い男性で、『蛍』というニックネームで呼ばれていた。
蛍先生はいつもの冗談もなく、荷物をまとめるように、と硬い声で言った。クラスメイトのざわめく声。
みんなの視線が注がれているのがわかり、私ははじめて意識して視線を下げた。
次の記憶はセレモニーホールで参列者に何度も頭を下げていたこと。
お母さんの写真が大きく飾られていて、周りには白いバラがたくさん置かれていた。写真のなかで笑うお母さんは、最後に会った日よりもふっくらしていた。
誰もが心配して声をかけてくれた。
『亜弥ちゃん、つらいよね』
『困ったことがあったらなんでも言ってね』
『まだこんなに小さいのに……』
どの顔も墨で塗られたように真っ黒に思えた。
それくらい誰の顔も見ていないし覚えていない。機械的に首を横に振ったりうなずいたりした。
心の中はしんとしていた。それは、私にとっての悲しい時期はもっと前に終わっていたから。
お母さんの体のどこかに病気が見つかり、入院することになった日からずっと悲しかったし、泣いたりもした。
その延長線上にある一日だと思った。
たぶんお父さんが買ってくるお寿司のせい。ともに語られるお母さんの容態に、いつしか覚悟のようなものが積み重ねられていたんだ。
入学式にお母さんが来られないと聞いたときも、自分よりもお母さんが悲しいだろうな、と思った。
だから、先生に呼び出されたときも、親戚の人や近所の人が励ましてくれたときも泣いたりはしなかった。
長い苦しみからお母さんが解放されたことに、ホッとしている自分がいた。
私の隣で泣きじゃくっているお父さんの手を握って、ただ時間をやり過ごした記憶がある。
それは今も変わらないし、こういう運命を受け入れて今日までやってきた。
最初は心配して顔を見せに来てくれた人たちも、淡々としている私にいつしか足が遠のいていった。
今思えば、かわいげがない小学生だっただろう。でも、人との距離は遠いほうがラクだと私は知ったんだ。
近づけばイヤな部分が見えるし、あいまいな距離だとうわべの対応がめんどくさくなる。
なによりも、私を見て曇った顔になる人たちが好きじゃなかった。
高校に遅刻するのも夜の街見学が好きなのも、お母さんとは関係がないこと。
これからも我が家は平穏だし、私は遅刻をしながらも高校を卒業して適当に就職をする。
人生のレールの先がぼんやりと見えはじめている。
そんな日々を爆破するような存在。それが、なんでも屋の伊予さんだ。
「はぁ、最悪……」
ボヤく私に、明日香が「ふふ」と鼻を鳴らした。
「でも、手作りのお弁当なんてうれしくない?」
私の机には半分も食べていないお弁当がある。鶏の醤油煮に玉子焼き、きんぴらゴボウと梅干し。やけに茶色の割合が多いお弁当だ。
「うれしくない。私、これの仕こみを帰ってからやらされるんだよ。朝の調理は伊予さんがやってくれるけど、弁当箱に詰めるのは私の担当。結局、半分は自作ってことじゃん」
箸できんぴらゴボウをつまんでみせる。ゴボウだってスーパーに行けば水煮になったものが売っているというのに、伊予さんは泥つきのゴボウをあえて選んでくる。
『泥つきのほうが日持ちするんや』
『歯ごたえが雲泥の差やねん』
『あかん、皮は軽く剥くだけでええんやで』
『酢水につけると色落ちせえへん』
次々に指示を出しながら、伊予さんは夜ごはんの準備を手際よく進めていく。ある程度終われば、そこからは家庭教師に変身。
宿題や復習などをさせられ、八時になると帰宅する。
『またな』
別れ際はあっさりで、そこからひとりで夕飯をとり、洗い物をしなくてはならない。
つまり、家に帰ってから八時まではスケジュールが押さえられている感じ。
「伊予さんて亜弥の家に一日いるの? 朝から晩までだと勤務時間長いよねぇ」
不思議そうな顔の明日香に「違うよ」と訂正した。
「中抜けの時間があるんだって。その間に自分の家のぶんの買い物とか料理をしてくるみたい。土日は休みだしね」
伊予さんの家庭がどんな構成なのか、どこに住んでいるのかは知らない。
ひょいときんぴらゴボウを箸でつまんで食べた明日香が、目を見開いた。
「歯ごたえがしっかりあるのに味が染みてておいしい! これは手作りじゃないと出せない味ですねー」
料理評論家みたいな言いっぷりに苦笑い。
「そりゃ手間をかければおいしくはなるよ。それより、私の大変さに同情してよ」
「でも、おかげで最近は遅刻してないじゃん」
そんなことを言ってくる明日香。
「無理矢理起こされるんだもん。すごいんだよ、布団をはいでベッドから叩き起こされるんだから。『朝やで、起きて顔洗って支度してごはんや!』って、寝起きにハイテンションだから参るよ」
「ふふ。すごいねぇ」
感心したように明日香は目を細めた。
「最近明るいし、よくしゃべるようになったのはそのせいかもね」
「私が?」
思ってもいない言葉に思わず目を見開いてしまう。
「そうだよ。いっつも机とにらめっこばかりだったのに、空を眺めたりしてるし」
「……たしかに」
「伊予さんが来てよかったじゃん。それに、亜弥と毎朝会えるの、あたしはうれしいけどな」
ニッと笑った明日香に「まあ、ね」と渋々うなずく。
「だけど、上っ面で合わせるのも限界。今日は時間つぶしてから帰ることにする」
最初に会ったときに言っていた『自分を助けられるようになる』の意味は、きっと家事も勉強も自分でできるということなのだろう。深読みしなくてもそのままの意味、ってのが関西人らしい。
「で、夜の街見学は行けてるの?」
明日香の質問に胸がトクンと跳ねた。
その言葉を聞くと、すぐにオレンジの照明が思い浮かぶようになった。同時に、リョウという男子の顔も。
「行けてない。最近は忙しかったし、雨も多かったし」
まるで言い訳みたい。
「じゃあリョウさんて人にも会えてないんだ」
「べつに会いたくないし」
プイと横を向くと、梅雨の合間の晴れた空がまぶしい。六月も下旬に入り、夏服にも慣れた。
そう、リョウになんて会いたくはない。ただ、私は夜の街歩きをしたいだけ。
最近は人生に新しい登場人物が多くて、やっかいでめんどくさい。
駅ビルをうろつき家に着くころには、夜になっていた。
時間は七時三十分。あと三十分で伊予さんは帰る時間だ。
宣言通り、街で時間をつぶしちゃったけれど、家が近づくにしたがい重い気持ちになってくる。
なんの連絡もしなくて、伊予さん怒ってないかな……。
ちょっとの罪悪感を胸にドアを開けると、
「お帰りぃ」
台所からひょいと顔を出した伊予さん。
真っ赤なエプロンが彼女のトレードマーク。
「……ただいま」
返事をしてからいったん自分の部屋へ行き、パーカーとスウェットに着替える。弁当箱を手に台所に行くと、伊予さんはペタンペタンとひき肉のかたまりを両手の間でバウンドさせている。
「今日はハンバーグやで。空気をしっかり抜くのがポイントなんや」
「あ、そう……」
弁当箱を洗っている間も、伊予さんの作業の手は止まらない。熱したフライパンに油をひき、そこにハンバーグのタネを置くとジュワッという音ともに煙があがった。すぐに香ばしいにおいが広がる。
「明日のお弁当の仕こみはしといたからな」
「うん」
「今日のレシピはメールで送るから。あ、お茶淹れといて」
「うん」
遅く帰った理由も聞かずに伊予さんは矢継ぎ早に指示してくる。
どうしてなにも聞いてこないんだろう……。
「今日は時間がないから、宿題とかは自分でやっといてな」
テーブルに手際よくサラダやコンソメスープが並んでいく。
てっきり注意されると思ってたのに、肩透かしの気分だ。
私に夕食を出すと、伊予さんは洗い物まではじめている。いつもは私の仕事なのにどうしたのだろう。
私の視線に気づいたのか、伊予さんが「ん?」と小さな目を精いっぱい大きくした。そして風船が弾けるようにくしゃっと笑った。
「なんや、怒られると思ったんか?」
勘のよさも伊予さんの特徴。
「そういうわけじゃないけど……」
「べつに遅くなってもかまへんで。高校一年生っていったらなにかと忙しいからなぁ。友達と遊んだりするのも必要なことやし」
ゴシゴシと体全部を使ってフライパンを洗う伊予さんに、時間をつぶしていたとは言えずにうなずく。
居心地の悪さを感じながらハンバーグに箸を入れると、肉汁が皿に広がった。
ほろほろと口の中で溶けるくらいにやわらかい生地。ほんのり醤油のにおいがしているのは、隠し味なのだろう。
「でも毎日続くようなら、さすがに困るけどな」
蛇口から水の音がしている。じゃぶじゃぶ、じゃー。
私が嫌々手伝う家事を、伊予さんはいつも楽しそうにしている。いや、実際に楽しんでいるのだろう。
「毎日続いたら……どうするの?」
伊予さんは「そうやなぁ」と水道のレバーを止めて宙を見た。小さい目で何度もまばたきをしてから、視線を私に移した。
「あんまり続くようやったら、学校まで迎えにいくわ」
「げ」
「友達に『今日は用事あるねん』って言って連れて帰るのはどうや?」
まるで名案のように言ってくる。
「それってパワハラじゃん」
「ちゃうって、ウチはそんなこと絶対にせーへん!」
伊予さんが前の席に座るや否や顔をぐんと近づけてきた。
「ウチ、高校生は大人やと思うねん」
「顔が近いって」
「だからな、亜弥ちゃんの自主性は尊重するで。したいことをしたいようにすればええねん」
「だったら迎えになんて来ないでよ」
そう言うと、伊予さんはようやく顔を離してくれた。
「もちろんそんなことしたくないわ。でも、ウチはお父さんから亜弥ちゃんのことを頼まれているからな。乱れた生活を軌道修正するのも仕事ってことやしなあ」
「わかったよ」
渋々うなずく。こういう会話に慣れてきている自分がいた。明日香に言われたように目線を下げることも少なくなった。
「それにな、最初に言ったやろ。亜弥ちゃんには自分を助けられるようになってもらわんとあかんねん」
久しぶりに聞いたその言葉に、首をかしげてみせた。
「家事とかができるってことでしょ?」
「ちゃうで。もっと複雑な意味や」
がはは、と笑ってから伊予さんは壁の時計を見て「ああっ」と叫んだ。
「もうこんな時間。うちの坊主が待ってるから帰るわ」
「あ、うん」
男の子がいるんだ。伊予さんが家庭について口にしたのははじめてのことだった。