あの夏の日、私は君になりたかった。



【プロローグ】



出会う前の私を思い出してみる。

あれからそんなに時間は経っていないのに、ぼやけた記憶(きおく)のピントが合わない。

 
ああ、そうだ。


少し薄い酸素と、常にだるさがつきまとう重力を覚えている。
世界は、鉛筆だけで絵を描いているように(にぶ)い色だった。

意思と関係なく流れていく毎日をただ眺めているだけ。
果てしなく退屈で、学校にいても家にいても逃げ出したい気持ちが、ヘドロみたいにしがみついていた。

どこにいたとしても、ここは自分の場所じゃない。

そう思っていたんだ。
今思えば、心が迷子になっていたんだと思う。

そんなある日。
なんでもない春の夜に、君に出会った。

雨あがりの夜、オレンジの照明が心細い街角。

私たちの出会いは、ドラマのように予感を感じさせたり、のように引き寄せられるものじゃなかったよね。
 
たとえるなら、黒一色で塗られたキャンバスに色の絵の具が一滴(いってき)、ぽつんと落とされた感じ。

最初は違和感(いわかん)しかなかったし反発もした。
けれど、気づけば(あざ)やかに染まりゆく世界が心地よくなっていった。


あの夏、私たちは太陽の下で肌をこがし、月の光でいやされた。

 
君にあこがれ、君に恋をし、君と過ごした時間たち。
  


今日も世界は、たくさんの色を咲かせているよ。







【第一章】

梅雨(つゆ)の訪問者






 毎日はたくさんの音であふれている。

 車のエンジン音や自転車のブレーキ音、鳥のさえずり、コンビニの扉が開く電子音。
 学校へ向かって歩いているだけでも、無数の音が生まれては途切れ、消えていく。

 またなにか聞こえる。
 これは上空を急ぐ飛行機の音だ。

 子供のころは意識しなかったのに、この数年は音に敏感(びんかん)になっている。
 理由はわかっている。
 ずっと下を見ているせいで、耳の情報にばかり集中してしまうから。

 人の顔を見られない、とか、潔癖症(けっぺきしょう)だと言われたこともある。そんな簡単な言葉で片づけられたくないし、的外(まとはず)れだと思っている。


 ただ、めんどくさいだけ。それに尽きる。


 もちろん必要があれば誰かと話をしたり、周りを見たりすることもあるけれど、基本はうつむいているのが、私の通常の姿勢。
 たとえば今立っている交差点でも、信号とにらめっこなんてしない。初夏の風が揺らす制服のスカートの先をぼんやりと見ているだけ。

 六月になってもまだ制服に慣れないなんて、私くらいだろうな……。

『かごめかごめ』のメロディがスピーカーから割れ気味(ぎみ)で響く。
 信号が青になった合図に歩き出す。
 今日は(くも)っているのか、昼だというのに横断歩道の白線はいつもより暗く見えた。
 目立ちたなくないけれど、こんな時間に登校している生徒はほかに見当たらない。

 交差点を越えると、かすかにチャイムの音が聞こえた。四時間目が終わったらしい。ここから学校までの距離はあまりにも短い。 
 チャイムのを耳にしながら、校門へ進む。

 このまま、いつまでもたどり着かなければいいのに。

 めんどくさい。だるい。つまらない。

 ため息の音は、いつだってどの音よりも大きい。



 教室に足を踏み入れたとたん、巻いていたざわめきがかき消えた。
 テレビの電源を切るようにぷつんと途切れた音。何人かのクラスメイトが私を見て、すぐに視線をらした。

 それは私も同じこと。うつむいたまま、自分の席へ向かう。

 無音だったのは一瞬で、波のようにさわさわと声はまた生まれる。さっきよりも小さなささやき声が私を責めているよう。

 クラスメイトにしてみれば当然のこと。昼休みになり、ようやく登校した私に良い印象なんてゼロだろう。

 こういうことにも、もう慣れた。

 このクラスでの立ち位置は、日々不安定になっている。誰もが私をうとましく思っている。
 たぶん半分は本当で、半分は被害妄想(もうそう)みたいなもの。

 窓側のいちばんうしろの席に座れば、生ぬるい風が髪をらせた。右ひじをつき、机に刻まれた落書きを見るともなしに見る。
 季節は確実に進み、今月から夏服に変わった。気温も、春と初夏の間を行ったり来たりしている。

 この高校に入学して、二カ月が過ぎたことになる。
 もう二カ月、とは思えない。まだたった二カ月。あまりにも時間は遅く過ぎていく。
 校庭では制服姿でサッカーをしている男子たちの声が宙にあがり、空に溶けていく。

 お昼、食べてないな……。

 ぼんやり考えていると、前の席の椅子がガタンと鳴った。明日香(あすか)が腰をおろすのが視界のはしに映る。
 明日香は、体を椅子ごとこちらに向け、下から顔をのぞきこんでくる。

「夏が来るね」

 ショートカットで小柄な明日香は、まだ中学生に見える。
 童顔であることを本人は気にしているので、最近では口に出さないようにしているけど。

「夏?」

 ようやく顔をあげると、明日香は横顔で空を見ていた。

「ニュースでやってたの。今日から梅雨(つゆ)入りだってさ。それが終われば本格的に夏が来るよ」
 明日香の視線につられて私も目線だけ上に向けてみる。
 まだ青く、とても梅雨入りしているとは思えないほどの天気。寝不足の目には、厳しいほどのまぶしさで光っている。

 嫌な顔をして前を向くと、明日香は大きな目を細めてうれしそうに笑っている。カモメみたいで私の好きな笑み。

「あたし、夏が好きだから楽しみなんだ」

 瞳をキラキラさせている明日香は昔からかわいい。モテるはずなのに、私なんかに(かま)ってばかりのせいで浮いた話のひとつもない。

「夏なんてだるいだけじゃん」
「出た。亜弥(あや)の『だるい』って口癖(くちぐせ)

 おかしそうに笑う明日香は、遅刻してくる私を責めたりはしない。
 代わりに、こんなふうに季節や天気の話をはじめにしてくる。それがありがたくもあり、罪悪感を育てることにもなる。

 きっと贅沢(ぜいたく)な悩みだろうな。

 なにか答えるべきなのはわかっていても、いつだって言葉はため息に変わってしまう。
 そんな私に明日香はクスクスと笑った。

「また寝不足なの? 昨日も〝夜の街見学〟に行ってたんでしょー」
「まあ、ね」
「亜弥は夜の街が本当に好きなんだね」

 声を(ひそ)める明日香に、ため息を追加する。

「別に好きなわけじゃないよ。ただ、ヒマだから」
 
 なにげなく教室を見渡す。楽しそうにはしゃぐ顔たち。なにがそんなにおもしろいのだろうか。

 そうしてまた、机の落書きを見る。
 今から五年前の日付が記されている。ボールペンで書いたのだろう、インクは消えてしまっているけれど、その部分だけへこんでいてはっきりと日付が読める。指先で触ると、デコボコした感触。

 突然、教室の(すみ)にいる集団が笑い声をあげた。高い声で笑い転げていて、まるで私に聞かせるかのように感じる。
 反射的に視線を手元に戻した。

 学校にいる時間は苦痛そのもの。早く下校の時間になればいいのに。誰よりも遅く登校しておきながらそんなことを願ってしまう。

 この数日、連続して遅刻をしている私。
 クラス委員になった青山(あおやま)さんや担任の先生は注意をしてくるし、自宅にも電話がかかってきている。
 そのたびにくり返す『頭痛(ずつう)』の言い訳。
 受話器を手に説明していると、本当に頭が痛くなるような気がするから不思議だ。

 四月はまだマシだった。入学したてで緊張を身にまとったクラスメイトから声をかけられることも多かった。そのたびにそっけない態度を取ってしまっていたのは事実だし。
 集団に属さない私を誰もが少しずつ見放していった。『愛想(あいそ)がない』と聞こえるように悪口を言われても平気だった。

 もともとひとりでいることが好きだったし、勉強をする意味も友達を作るというのルールもわからないまま生きてきたから。

 あれは中学二年生のころ。ある日、急に学校に行くのが嫌になった。

 そのときの感覚はまだ覚えている。を使う私を、お父さんは最初こそ心配してくれていたけれど、そのうちなにも言わなくなった。

 なんだ、休んでもいいんだ。

 急に気持ちが軽くなり、それからは遅刻や欠席をくり返し、それでもなんとか卒業をした。
 この高校に入ってからしばらくは、ちゃんと登校できていた。幼なじみの明日香はホッとしていたっけ。

 でも結局、無理は続かない。だんだん起きる時間が遅くなり、今は遅刻の記録を更新中。情けないとは思うけれど、それが私だとも思ってしまう。

 お父さんがこの高校の理事であることが知られてからは、誰もが()れ物に触るように、いや、実際には見ないフリをするようになった。理事といっても名ばかりらしいけれど、放っておいてほしい私には好都合だった。

 だから、このクラスで私は透明な存在。
 いてもいなくても関係がない。

 そう思わせたのは私自身だから。



あの夏の日、私は君になりたかった。

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