僕からの溺愛特等席




それを広げて渡されたものは、なんと婚姻届だった。既に糸くんはサインを済ませていて、後は私がサインするだけとなっていた。


「これって……」


 糸くんは優しく笑って、


「僕と結婚してください。必ず幸せにします、ずっと僕のそばに居てくれませんか?」


と真っ直ぐ私を見据えて言った。



「……っはい!」私は大きく頷く。



 嬉しそうに目を細めた糸くんは「これでずっと一緒だ」と喜んでくれた。




 窓の外からの月光が私たちの影を浮かび上がらせ、夜に溶かす。


糸くんが過保護すぎるという悩みもあったが彼自身が好きでしてくれていること、


それに、その悩みすら結婚という手段で解決してしまうのだ。



今もこれからも私は彼の好意に甘えてしまうだろう。



 甘えてもいい人、無条件に頼れる人、そんな人が自分のそばに居てくれる。



これは生まれて死ぬまでの短い時間の中で必ずしも出会えるとは限らない。



私はとてもついていた。


いつも彼の店に行くと、カウンターの一番端の席、つまり私のお気に入りの席が空いているのとおなじでラッキーなのだと思った。




 






**



わたしがここに通い始めたのは、おそらく20年前ほどか。


その頃から近所に住んでいたわたしは足しげく通い、代が変わり、息子さんが継いだ現在も週に3回のペースで訪れている。



老後の唯一の楽しみといったところだ。



 2代目のマスターはまだ若いのに落ち着いていて、受け答えもかなり大人びている、


そこには少し冷たい印象も受ける人もいるだろう。


しかし彼が成り行きで継いで仕方なく店を回しているのではない。

そのことは常連ならば分かる事だ、彼のこの店への熱量と矜恃は本物だと思っている。






ヴァン・ダインではコーヒーとサンドイッチが昔からの人気メニューであったが、

彼の代になってからもしっかり味を受け継ぎながらも、試作を重ねているようであった。



時々わたしも試作をいただくことがあるので彼が研究熱心な青年であることはよく知っている。



 落ち着いた雰囲気も店の料理もわたし好みだ。そういう所を評価して通っている常連も多いと思う。


わたしを含めた、常連たちはそれ以外にも興味をそそられていること、


それはヴァン・ダインに度々訪れる女性にマスターがほの字だということが、気になるところであった。



 カウンターの一番端の席にはいつも予約の札が置いてあった。


よっぽど込み合っている時以外はその席には誰も座らない。


そこに座るのはたった一人、あの女性だけだ。





 マスターの想いの女性がドアの付近に来るとシルエットで分かるのだろうか、マスターは用事をしている手を止め、予約席の札をさっと隠す。



そして、「いつもの席、空いてますよ」と言うのだ。


女性は「ラッキーね」と嬉しそうにその席へ座り、

マスターのその女性を見る優しげな眼差しがなんともいじらしく応援したくなるのだった。



そんなやり取りを見ては微笑ましく、マスターの健気な姿にわたしは近くの席に座る常連ふたりと目配せする。



「今日はなにか進展あるかな」という合図だ。




 その女性と話している時のマスターは、喫茶店のマスターの仮面が剥がれてしまうのか、まるで少年のような笑顔を見せる。



相当惚れているようで、こっそり見ている私まで少し照れてしまう。



 2人には上手くいって欲しいなあといつもながら思う。


奥手で不器用そうな二人を見守るのも常連の務めだと勝手に解釈して、新聞を読みながら、わたしは内心ワクワクしていた。





 今日もわたしは店へ訪れた。


ドアを開け、いつも通り中へはいるとマスターの隣にあの女性が並んでいた。


マスターとお揃いの黒いエプロンをつけた女性が駆け寄ってくる。




「いらっしゃいませ。いつもの席でよろしいでしょうか?」


幸せそうな笑みでわたしを席へ案内してくれた。

どうやらわたしが常連であることを知っていたようだ。



 メニュー表を差し出してくれた女性の薬指には銀色のリングがはめられていた。



わたしは持ってきていた新聞を広げ、次にマスターの手元をこっそりと観察した。


そこにはやはり女性と同じリングが薬指にあった。



そうか、そうか。


やっと実ったのか。


良かったじゃないかマスター、おめでとう。



わたしはいつも通りコーヒーを頼んだ、



こぼれる祝福の笑みは新聞で覆いながら。


 





───ああ、それは見ちゃダメだ!









「三春さーん」


糸くんがリビングから私のいる書斎スペースに声をかける。


「ねえ、お花見、早く行きましょうよー。僕はもう準備満たんですよ? 早くしないと桜散っちゃう」



「お掃除が終わってからね」


机の下にせっせと掃除機をかけながら返事をする。



 驚いたことに糸くんはミステリー作家になっていた。


最近売り出し中の新人作家だ。

まあ、それだけでは食べていけないので、喫茶店のマスターと執筆活動をおおよそ7対3の割合でつづけていた。



ここは彼が執筆しているスペースで、籠りっきりで全く掃除していなかったこの部屋の空気を入れ替えているところだった。



「あれ? これなんだろう」


 引き出しからなにやら白い本がはみ出ていた。


本なら本棚に戻しておこうか、そう思って引き抜くと、

どうやら単なる小説ではなく、出版社も記載されていない、自費で製本にしたようなものだった。





「なんだろうこれ。糸くんが出版した本にこんなのはなかったと思うんだけど……」


表紙には黒字でタイトルが書かれていた。




──僕からの溺愛特等席



 表紙をめくると目次がある。


第1章は『あなばスポットヴァン・ダイン』



そして2章、3章と続き、7章まであった。


 そしてパラパラとめくり、物語の始まりに目をとめた。






 ────彼女の心がほかの誰かへ向いてしまうならば、僕は繋ぎ止めるまでだ。


僕の世界に色を注いでくれた野間 三春に捧ぐ。





「……私に捧ぐ?」


 また次のページへ進もうとした時、


「三春さん?」糸くんが顔を出した。


そして私の見ている本に気づくと



「ああ!!」

ものすごい形相で糸くんは書斎に入ってきた。

「……それ、みた?」

「う、うん」

「は、恥ずかしいから返してもらっていいですか」


糸くんは顔を手で覆い隠しながら言う。


「それは、その……僕の手記というか、僕達の馴れ初めというか……ああ、もうダメだ失態もいいところだ……」



 1ページ目には確かに私に捧ぐと書いてあった。

とても内容が気になる。糸くん私のことをどんな風に書いたのだろう。



「見ちゃダメ?」

私は糸くんの顔を覗き込んで、声をかけたが、ぶんぶんと首を振って


「絶対だめです!」と言われた。



 何度も頼んでみたけれどやっぱり恥ずかしいらしく、読ませてはくれなかった。