しかし、僕に絆されてくれると数パーセントの期待を残していた野間さんは、
予想とは裏腹に白黒はっきりさせようと思い切ったみたいだった。
モノクロだった僕の世界に色を加えてくれたのは紛れもなく野間さん自身で。
しかし彼女は案外、残酷だ。
色づき始めた僕の世界を暗黒に塗りつぶすのもまた彼女なのだから。
冷蔵庫の陰にうずくまっている僕の視界に靴が写りこんだ。
ついに死刑宣告されるみたいだ。
「ねえ、糸くん」
「……」
「泣かないの、私まだ何も言ってないじゃない」
彼女の穏やかな声も僕には酷く残酷に聞こえる。
「言わないで……ください」
「言い逃げなんてずるいと思うんだけど。せっかく告白の返事をしようと思ってるのに。いっつもからかったり、私のこと振り回して。許さないんだから」
焦って告白なんかするんじゃなかった。こんなの、地獄だ。
服の擦れる音で野間さんがしゃがんだのだと分かった。
僕の頭に小さい彼女の手が乗る。
「……私だって、糸くんが好きなのに」
僕は驚きで涙がピタリと止んだ。顔をあげると困った顔の野間さんと目が合い、聞き間違いかと思った。
「今、なんて」
「私も糸くんとお付き合いしたいなと思ってるのに、無理やり付き合ってもらいます。
みたいな雰囲気で進んでいくし、もうどうしようかと思ったんだけど」
僕の事が好き?
まさか、野間さんがあの優秀で人当たりのいい兄さんよりも僕をとったっていうのか。
そんなのはお伽噺か、もしくわ夢か、自分自身で現実をねじ曲げて都合よく解釈してしまっている気がしてならない。
でもこれが現実なら。
「……本当に、僕のことを」
茫然自失、力なく呟いた僕に野間さんは、ふわっと春風のような暖かい笑みで頷いた。
彼女は僕を容易に釘付けにしてくる。
心がいっぱいで嬉しくなって思いっきり野間さんを抱きしめれば
「糸くん、なんだか可愛い……」と優しく頭をなでられ僕はうっとりと目を閉じた。
───幸福の女神が突然、僕を贔屓にしてくれた
糸くんと付き合い初めて、半年。
彼の過保護っぷりに拍車がかかってきているのが最近の悩みだ。
大事にされているという嬉しさはあるものの、彼の負担になっていないか心配でならなかった。
何気ない会話の中で私が早番の日は朝起きるのが辛い、と話すと糸くんは次の日から「僕が電話でモーニングコールしていいですか」と提案してきた。
こういう時の彼は冗談でもなく、軽はずみな言動というわけでもなく、
本気で言っているというのはもう分かっているから自分もその優しさに甘えてしまうのも読めていた。
糸くんも仕事で疲れているだろうに私の事まで、誠に申し訳ない思いだ。
そもそもちょっと辛いだけで起きれないこともないからと丁重に断ったのだけれど、
一歩も譲らない糸くんの姿勢に根負けして、私は今朝も糸くんの「おはようございます」のモーニングコールで起きている。
過保護といえばもうひとつあった。
仕事帰りだ。
週に2日の定休日には必ず車で迎えに来てくれて、相変わらず私側のドアを開けてから自分も乗り込むという紳士っぷりだ。
彼のそういう作法みたいなのはどこで身につけたのやら。
「お疲れ様です、三春さん」
とにかく、全てのことを一旦忘れてしまって、この言葉で全て疲れが一気に吹っ飛んでしまうのもまた真実だ。
「いつもありがとう糸くん」
「いえ、僕が心配でたまらないので」
玄関口で待っていてくれた糸くんは相好を崩し私を迎えてくれた。
「三春ちゃん今あがり?」
後ろから声をかけてきたのは同僚の華ちゃんだった。
コンビニの袋を下げた彼女はこれから夜勤のようだ。そういえば明日は私が夜勤だ。
「あれ、もしかしてそちらの方って……喫茶店の彼氏?」
にやにやと私に目配せをして横腹をつついてくる。
「そうです」
答えたのは糸くんだった。そして私の肩に手が回されぐっと引き寄せられた。
「僕の彼女に悪い虫はついてないでしょうか」
と、いきなり華ちゃんに言うので、私はとても驚いた。
「ちょっと、なに聞いてるの糸くん!」
「いいじゃないですか」
糸くんは不安げな子犬のような顔で見てくる。その顔で見られると、もう何も言えなくなる。
華ちゃんは私たちのやり取りを見てふふふっと笑い、逞しく胸をどんと叩いた。
「任せてください。悪い虫はついていませんよ。何せ年寄りかクタクタの介護士しかいませんし、ちゃんと私が浮気しないように見張っておきます」
「何言ってんの華ちゃんまで……」
私は苦笑いを浮かべるが、糸くんは糸くんで「ぜひ頼みます」と頭を下げていた。
「華ちゃんなんか佐原さん一筋で全然私のこと見てないくせに」と独り言を零して私と糸くんは車に乗った。
「糸くん疲れてない?」
定休日なのだから本当なら家でゆっくり休んでいて欲しい。
「いやいや、疲れてるのは三春さんの方でしょ。僕は休みだったし、したくてしてる事なので全然」
「でも、休みの日なのに私のお迎えとか朝に電話してくれたりして、大変だと思うから。私、大丈夫だよ? 一人でも帰れるし起きれるよ?」
糸くんはしばらく沈黙し思案しているようだったが、前のめりにハンドルにもたれ掛かり、
次に顔を上げた時には
「……分かりました」と覚悟を決めたみたいに、キラリと瞳の奥に青白い輝きを放っていた。
今まで足踏みしていた彼がやっと一歩先に進もうとした、そんな表情だった。
車は私を乗せてヴァン・ダインへ向かっていた。着くなり、いつもの席に座るように言われ私は言われるがままに腰を下ろした。
様子の異なる糸くんにソワソワしていつもの席なのに、なんだか落ち着かない。
何を決めたのだろうか。
「ちょっと待っててください」
そう言って2階へ行った糸くんは手に紙を持って降りてきた。
それを広げて渡されたものは、なんと婚姻届だった。既に糸くんはサインを済ませていて、後は私がサインするだけとなっていた。
「これって……」
糸くんは優しく笑って、
「僕と結婚してください。必ず幸せにします、ずっと僕のそばに居てくれませんか?」
と真っ直ぐ私を見据えて言った。
「……っはい!」私は大きく頷く。
嬉しそうに目を細めた糸くんは「これでずっと一緒だ」と喜んでくれた。
窓の外からの月光が私たちの影を浮かび上がらせ、夜に溶かす。
糸くんが過保護すぎるという悩みもあったが彼自身が好きでしてくれていること、
それに、その悩みすら結婚という手段で解決してしまうのだ。
今もこれからも私は彼の好意に甘えてしまうだろう。
甘えてもいい人、無条件に頼れる人、そんな人が自分のそばに居てくれる。
これは生まれて死ぬまでの短い時間の中で必ずしも出会えるとは限らない。
私はとてもついていた。
いつも彼の店に行くと、カウンターの一番端の席、つまり私のお気に入りの席が空いているのとおなじでラッキーなのだと思った。