「俺、三春さんが好きだから。お前よりも俺にしなって言ったんだ」
「なんで……」
絶句するように震え、強く拳を握る糸くん。優美さんも考え込むみたいに口元に手をやり、俯いている。
「そんなの俺だって聞きたいよ。でも、好きなんだ」
糸くんの横顔を盗み見る。
悔しそうに唇を歪め、彼はゆっくり私の方を向いた。
嫉妬で黒く染まりドロっとした感情が流れ込んでくるみたいだった。
そっと肩に置かれた糸くんの手にぐっと力が込められる。
「……返事はしたんですか」
胸が詰まる思いで、声なんてかすれて出なかった。ただ首を振って否定した。
「……あの、すみません」
重苦しい空気のなか、小さく声をあげたのは優美さんだった。
「もう、行かなくちゃ。……新幹線に乗遅れちゃう。旭くん送ってくれる?」
「あ、ああ」
その一言で優美さんと旭さんは店を後にした。しばらくこっちにいるつもりだった彼女も、大学のある向こうに戻るらしい。
店を出る直前に旭さんがそう言っていた。それに、もう一言──。
店の前に停めてあった車に乗り込む二人を見送って私と糸くんは中へ戻った。
「考えてみれば、強引でしたよね……すみません。正直、焦ってて野間さんの気持ちを無下にしてました。僕……ちょっと頭冷やしてきます」
ふらふらとおぼつかない足取りで厨房の奥へと消えていった。
私には彼に言うべきことがある。はっきりさせておきたいことが。
思い切って厨房に声をかけた。
「私たちって、どうなりたいんだろう!」
「……え?」
厨房の奥ではなく、冷蔵庫の陰にいた糸くんが顔を出す。
なんだか泣いているようだった。
「というか、私はどうすればいいの? 先輩と後輩の関係じゃなくなってきていることは、分かってる。
告白してくれてとても嬉しかったし糸くんとデートして、年甲斐もなくはしゃいだし、ドキドキすることも沢山あった。
でも、私はまだ告白の返事をしてないよね?」
「い、いま返事するんですか……」
糸くんはまたもや冷蔵庫の陰へと腰を下ろそうとする。
「いやいや、その返事はまた今度でいいです。野間さんにもよく考えて欲しいし……僕、断られる覚悟がまだ出来てないというか……」
こちらからはもう糸くんの姿は見えない。ネガティブな声だけが聞こえてきて、私は大きなため息をついた。
店を出る直前、旭さんに耳打ちされた内容を思い出す。
「すまないね、掻き乱してしまって。君のことは好きだけれど困らすつもりは無いよ、告白のことは忘れてくれて構わない。
君が好きなのは糸なんだろ?
糸のやつ今すっごく悲惨な顔をしているから慰めてやってよ」
体育座りをして陰鬱な雰囲気をまとっている糸くんはこのまま放っておけば、いずれ床に沈みこんでしまいそうだ。
確かにそれくらいの絶望感が伝わってきた。
いつだって、私は自分の意見を避けてきたように思う。
旭さんにだって気を遣わせてしまって、不甲斐ないばかりだ。
言いたいことが無いわけじゃないし、意思だってちゃんとあるつもりだ。
でも、周りの動きが、思いの速さが私を巻き込んで濁流へと押し流す。これは言い訳に過ぎない。
分かっているのだ、しっかり立っていれば流されもしないし、流される原因が私自身にあるということも。
曖昧な態度は相手にも誠実とは言い難い、いくら日本の美徳がそうであったとしても、はっきり伝えた方がいいこともある。
こういう考えのとき、大抵は行動に移さないで尻込みし後悔するのだ。
────もう、終わりだ。
虚勢ばかりを張って、強がって。
勢いで告白までした。
けれど、僕は断られる。
こたえを言われる前に、強引にも付き合えるように仕向けた。
本当のところ、野間さんの気持ちなんてのは全く考えずに、僕から彼女が離れていくのを恐れて返事を聞かなかっただけなんだ。
閉じ込めてしまう、というのも僕の本心だ。
ずっと考えていた。繋ぎ止める方法を。怖がらせてもいい、一緒にいられれば……。
野間さんは不満に思っていることをはっきりと嫌だと言えない人だ。
それを知っていたから強引に事が進めば、なんとなくでも受け入れてくれると確信していた。
誤算だった。
僕の最大の敵は兄だ。
頭も、ルックスも、コミュニケーション能力の高さも全て僕は兄に劣っている。
兄は誰とだって仲良くなれたし、人たらしだと思う。そんな兄に野間さんは告白されていたと聞けば、正気ではいられない。
フレンドリーな兄に比べて僕は無口で感情もあまり表に出るタイプではないから、
一緒にいる相手にいい印象を持ってもらえることが少ない。
涙で目が霞んだ。
また兄に負けるのか、と虚しくなった。
嫌だった。
譲れなかった。
譲れないのにどうしたらこの気持ちに落とし前がつくのか全く見当もつかない。
頭がどうかしてしまいそうになった僕は、ついに「頭を冷やす」と言って溢れてくる涙を頑張って隠した。
洪水を起こしたように拭っても拭っても溢れてくる。
僕がまだ辛うじて正気を保っていられたのは彼女からはっきりした返事を聞いていなかったからかもしれない。
断られることを後回しにすることで辛うじて自我を保っていた。
しかし、僕に絆されてくれると数パーセントの期待を残していた野間さんは、
予想とは裏腹に白黒はっきりさせようと思い切ったみたいだった。
モノクロだった僕の世界に色を加えてくれたのは紛れもなく野間さん自身で。
しかし彼女は案外、残酷だ。
色づき始めた僕の世界を暗黒に塗りつぶすのもまた彼女なのだから。
冷蔵庫の陰にうずくまっている僕の視界に靴が写りこんだ。
ついに死刑宣告されるみたいだ。
「ねえ、糸くん」
「……」
「泣かないの、私まだ何も言ってないじゃない」
彼女の穏やかな声も僕には酷く残酷に聞こえる。
「言わないで……ください」
「言い逃げなんてずるいと思うんだけど。せっかく告白の返事をしようと思ってるのに。いっつもからかったり、私のこと振り回して。許さないんだから」
焦って告白なんかするんじゃなかった。こんなの、地獄だ。
服の擦れる音で野間さんがしゃがんだのだと分かった。
僕の頭に小さい彼女の手が乗る。
「……私だって、糸くんが好きなのに」
僕は驚きで涙がピタリと止んだ。顔をあげると困った顔の野間さんと目が合い、聞き間違いかと思った。
「今、なんて」
「私も糸くんとお付き合いしたいなと思ってるのに、無理やり付き合ってもらいます。
みたいな雰囲気で進んでいくし、もうどうしようかと思ったんだけど」
僕の事が好き?
まさか、野間さんがあの優秀で人当たりのいい兄さんよりも僕をとったっていうのか。
そんなのはお伽噺か、もしくわ夢か、自分自身で現実をねじ曲げて都合よく解釈してしまっている気がしてならない。
でもこれが現実なら。
「……本当に、僕のことを」
茫然自失、力なく呟いた僕に野間さんは、ふわっと春風のような暖かい笑みで頷いた。
彼女は僕を容易に釘付けにしてくる。
心がいっぱいで嬉しくなって思いっきり野間さんを抱きしめれば
「糸くん、なんだか可愛い……」と優しく頭をなでられ僕はうっとりと目を閉じた。