コミュニケーション能力が低くたって、きっと誰かの役に立っていることもあるはず。
みんな一人一人違って当たり前なのだ。
それも個性と呼ばれるものであって。
自分を変えてくれる人もいれば、自分が誰かを変えることだってある。
完璧な人間なんて果たして本当にいるのだろうか・・・
自分の短所を理解し、変わろう!と思えた時、人は成長していくものだ。
「あぁ・・・、ごめんね」
新入社員の彼から資料を受け取った私は、彼の目を見ずに小声でそう告げた。
ざっと目を通すと、まだまだ粗は見受けられるが、要点もしっかりと書いてある
し、特に目立ったミスは無さそうだから大丈夫だろう。
そう思い私は何も言わず、側に立って待機している彼から机へと向き直す。
彼は所在無さ気に背中で手を組み、けれど離れることはなかった。
「・・・?」
どうしたのかな・・・と視線だけを向けるが特に反応は無くて。
数分経った時、私の隣に座る同期の阿部が呆れたような溜息を吐きながら、椅子ごと私に近付いてきた。
「なぁ、真中・・・今の資料OKだったのか?」
「・・・え、うん」
「はぁ、お前は・・・」
何をそんなに呆れているのか分からないが、何故か阿部は小さく溜息を吐いた。
大体、私の行動を見ていれば分かるはずだ。
受け取って目を通してミスなど指摘していないし、自分の仕事に戻ったのだから当たり前だろう。
というより、彼は隣で仕事をしていたのではなかったのか。
「だとさ、良かったな」
お疲れさん、と立ち上がった阿部は、新入社員の肩を叩いて連れ添って行った。
またタバコか。一時間前にも行ってきたはずなのだが。
私は小さく溜息を吐いた。
彼は仕事においては物凄く優秀だ。
彼の企画が通らなかった事の方が少ないし、先輩後輩からの人望も厚い。
さらに有名大学の出身であるし、顔もまぁ優れている。
テレビに出る俳優のような完成されたものではないが、少なくともウチの会社で彼の事を好きな人は、片手では数え切れないだろう。
これでもう少しだけ真面目だったら、と内心で彼を評価してしまう自分があまり好きではなかった。
確かに今のように、タバコ休憩だったり居眠りだったりが多すぎるが、それでも誰よりも結果を出しているから厄介なのだ。
きっと自分とは違いすぎる事に絶望しないように、勝手に彼の悪いところを探してしまっているのだろう。
そんな自分が大嫌いだった。
私は自他共に認めるほどの人見知りで、働き始めて四年が経つ未だにこの会社で打ち解けているとは思えない。
タバコも吸わないし、お酒も大の苦手。
だから喫煙所や居酒屋でのコミュニケーションなんて機会がない。
あったとしても人見知りが重たすぎて、まともに会話にならないと思うが。
要するに、人見知りで口も下手な私と、人当たりが良く仕事もできて容姿端麗な彼とでは、同じ二六年間という時間を過ごしてきたのにも関わらず、全くもって何もかもが違いすぎるのだ。
同じゲームの制作会社に入って、同い年で、席も隣。
さらに言えば、シナリオライター枠で入ったのは私たち二人だけだからそれも同じ。
なのにこの差は一体なんなのだろうか。
まぁ、それでもいい。
人は人、自分は自分なのだから。
社内で表面化して何か嫌がらせを受けている訳ではないし、こういった気分の時の方が筆が走ったりするものだ。
そう、今日も自分に言い聞かせる。
八月のある日、新入社員も仕事に慣れてきた頃、新しいプロジェクトが始まった。
今回の作品は家族でも楽しめるスマホゲームだった。
ゲームというよりは、教養的であったり絵本であったりの要素も含めたものである。
親子共に楽しみながら成長できるもの、というテーマを持っているらしく、大人向けと子供向けのクイズパート。
そしてそこで集めたアイテムを使ってのゲームモードという流れらしい。
私に関係があるのはそのゲームモードでのシナリオ。
最初は何もない親子が周りを助け、周りから助けられて成長していくのを描くストーリー部分だ。
とは言っても、どうせ私は阿部の補佐だろう。
周りからの評価も実績も違うのだ。
いつも通り彼の校閲や案出しのサポートといった所だろう。
そう思って部長の朝礼を聞き逃していたのがいけなかった。
「・・・どうゆ事?」
「えっ、何?」
新入社員は初めて携わるプロジェクトで意気揚々。
慣れた人間たちは残業の心配で少し辟易。
そんなフレーズの中で、私は阿部の隣に立って彼を見下ろしていた。
「ねぇ・・・どうして私がシナリオ担当なの」
そのある意味では当たり前とも言える疑問だからだろうか、阿部は苦笑いを浮かべながら困ったように腕を何度も組み替えていた。
「どうしてって・・・真中はシナリオライターだろう?」
「そんなこと聞いてるんじゃない」
私の手に握り締められて数分で、既にくしゃくしゃになってしまった企画書。
そこにははっきりと、“シナリオ 真中梨花”の文字が書かれていた。
ディレクターやデザインなどには順当ないつも通りの名前が書かれていた。
だが、この自分の名前が書かれていた項目を見つけた瞬間に、私は彼の席へと近付いていた。
「今回のは、新たな試みだから大事な企画だって言ってたでしょ」
「そうだな。責任重大だけど・・・真中なら大丈夫だろう。頑張って」
事もなげに笑顔を浮かべる阿部の顔に、くしゃくしゃの企画書を投げつけてやりたかったが、それをやる勇気は無い。
けれど、実力も実績も比べ物にならない私が担当という事実だけは譲れなかった。
もっとも、なぜ阿部じゃなくて私なのかという残念な理由ではあるのだが。
どうせこの男が先に声を掛けられたに決まっている。
私へ花を持たせる為か、それとも単純に面倒臭かったのか。
彼に限って、自信がないだとかそんな理由じゃないことくらいは馬鹿な私でも分かっていた。
「俺は今回真中のサポートだから、何でも頼ってくれな?」
座ったままで軽く私の背中を叩いた彼は、話はそれで終わりだといわんばかりにデスクに向き直って自身の仕事に戻る。
彼はそれで終わりかもしれないが私は納得などいっていない。
けれど、部長の所に行って「彼の方が確実です」という情けない行動をとる事もできない。
だから、これは私の八つ当たりなのだろう。
そんなことは分かっているけれど、彼に苛ついてしまうのも仕方のない事だと思う。
「・・・分かった」
本当は何も分かっていなかったし、何が分かっているのかも分かっていなかった。
それでもこれ以上ここで生産性のない言い争いをしていたところで納期は待ってはくれない。
それだったら諦めて作業した方が後々苦しくならないだろう。
溜息を一つだけ残して、私は自分のデスクに戻った。
何か言いたげな彼の視線は背中に感じていたけれど、言葉にしなかったのだから必要な事ではなかったのだろう。
こうして私は、入社して初めて一つの作品のシナリオライターとして活動することが決まってしまった。
次の日、私はいつもより一時間ほど早く出社した。
早起きは苦手だったけれど、何ができるかも分からない不安のままで家にいる事が耐えられなかった。
そして普段に比べると空いた電車に乗り会社に着いた。
まだ誰もいないオフィスはきっといつもと違う空気だろう。
それがいい刺激になればいいのだが。
そう思って自身のデスクに向かうと、なぜか阿部は既に出社してるようであった。
ようであったというのは、彼のパソコンが何かの作業中で開きっぱなしである事と、彼の姿がそこには無いことからの推測である。
「・・・画面ロックくらいしなさいよね」
そんな事は新入社員のオリエンテーションの一日目に言われることだ。
情報漏洩や個人情報保護に厳しい今の時代で、席を立つときはパソコンをロックする。
そんな当たり前で基本の行動ができないのに優秀な阿部に溜息をつきながら、私は代わりに画面をロックした。
大した労働でもないのに疲れたような溜息を吐いた私も、とりあえずパソコンの電源を入れる。
沢山のデータのせいで起動が重たいパソコンを待ちながら、新しく買ったノートを広げた。
デスクに置きっぱなしのインクの少ないボールペンで一ページ目に、今回の企画のタイトルを書き込む。
続いてシナリオのテーマを。
そして、そこでボールペンは止まってしまった。
自分がシナリオ担当になった昨日から家に帰ってもずっとこの企画のことを考えていた。
どんなストーリーにするのかは朧げながらも既に浮かんではいる。
だが、何から書き込んでいけばいいのかも分からず、グルグルと何重もの円を書き込んだだけにとどまってしまった。
こういう時自分は何から決めていたのだろう。
名前か、あらすじか、それとも入れたい台詞か。
自分で自分が分からなくなって、思考の海に溺れかけた時、扉の開く音が聞こえた。
近付いてくる足音と、消臭剤の無駄にフローラルな香りが届き、視界の端で椅子に座った阿部が目に入った。
「おはよ。真中今日は早いね」
「・・・おはよう」
ノートから目を離さずそれだけを返した私は、ついにボールペンを置いてしまった。
「早速書き始めるの?偉いね」
椅子をガラガラと響かせながら近付いて来た彼は、私のパソコンとノートを見ながらのんびりとそう告げた。
「・・・阿部がいつも書き始めるのが遅すぎるだけ」
「ははっ、まあなー。気分乗らないと書けなくないか?」
彼のそののんびりした様子も、明るいところもいつもと変わらなかった。
だけど、それを見る私はいつもより少し苛ついていたと思う。
「私は仕事だから書く、それだけ」
「・・・ふーん」
当たり前のことに何を感心したのか、阿部は何度か頷いただけであった。
でも私のデスクのそばを離れようとはせず、膝に手を置いてノートを睨め付けているだけの私を横から覗き込んでいた。
「・・・何?」
「なにもないよ?ただどんな感じにやるのかなって興味あるだけ」
邪魔?と先に聞かれてしまい、とてもその通りだというような空気では無くなってしまった。
ペンすら持たず何から始めて良いのか分からない私の邪魔になるのかと言われれば、甚だ疑問ではあるからだ。
彼はいつもこういう企画の時に結果を残してきている。
そんな彼がどのようにシナリオを書き始めるのか気にはなったが、わざわざ聞くような勇気も出なかった。
シナリオライターがシナリオの書き方を同僚に聞くなど失礼かもしれないし、笑われるかもしれない。
そう思うと、私の喉は何かに締め付けられたように聞くことができなくなっていた。
「ってか真中もだけどみんな早いよなー、始業一時間も前にこんな人来てると思わなかった」
「みんな頑張ってるんだから。普通じゃない?」
そう言った私の言葉に、阿部はぽかんと口を開いていた。
「真中、それマジで言ってる?」
「・・・なに。そうじゃないの?」
「えー・・・?はぁ・・・真中だなぁ」
そりゃ私は真中なのだから当たり前だろう。
何をいまさら変な言い方をするのかと睨み付けると、阿部は苦笑いを浮かべながらオフィス内を見回した。
こんな早い時間に来た事は私も数えるくらいしかなくて、ちらほら見える人数が多いのか少ないのかは自分でもよく分からない。
「前回さ、シリーズ物のアクションゲームだったろ?」
急な話の展開に怪訝に思いながらも、私は一度頷いた。
「大筋のストーリーは俺がやったけど・・・真中は何やったか覚えてる?」
「・・・サイドストーリーとか」
前回はメインが阿部。
物語とは関係のない寄り道のようなクエストのお話は私が担当した。
もっとも、寄り道のようなクエストとはよく言った物で、そこには大したストーリーもなく、街で困っている人を書いて何かアイテムを持ってこさせ、感謝して終わる。
それだけのストーリーだ。
伏線も山場も何もない。
「とかって。・・・え、なに本当にそんな認識な訳?」
困ったような呆れたような顔をしながら何故か声を潜めた阿部に、私はまた怪訝な視線を向ける。
「・・・あ、いや、いい。分かった」
はぁ、とわざとらしい溜息を聞かせてから、阿部は人差し指をピンと立てて教師のように口を開いた。
「あのな、そのサイドストーリーだって同じものは出せないから全部変える必要あっただろう?真中が何個書いたか覚えてないのか?」
そう言われるとはっきりとした数字は思い出せない。
全体を通して寄り道が多いゲームだったからやけに数が多くて大変だったことを思い出す。
「百超えてるんだよ?しかも、サイドストーリー担当だからってそれに関するキャラクターの設定から何から纏めてさ」
そう言われればそんな数もあったかも知れない。
でも特にそのサイドストーリーに面白さは邪魔な物だから、できるだけ変に感情が入らないような物を書いたのだ。
一つ数分でできたものが殆どなのだから言うほど時間は掛からなかった。
「・・・それを言ったらそれを纏めたのは阿部」
「俺は真中の吸い出したデータファイルにまとめただけだって。・・・で、前々回は覚えてるか?」
覚えているかというのは私の担当のことだろうか?
前々回は確かアドベンチャーゲームだった。
ノベル形式のもので、変わらずメインは阿部。
私は校閲を兼ねた見直しが主な仕事であった。
「その時もさ、誤字直したり表現変えながら、文字が上手く収まるようにしてただろ?変に一文字で改行されたりしないようにさ」
それはそうだろう。
そこも含めてのサポートであると思っていたのだが。
「そんなことを当然としてやってた真中が、メインストーリーになったんだぞ?・・・みんな焦ってるんだよ」
「・・・焦ってる?」
「当然のように他の部署に気配りしながら作業してた奴がサポートじゃなくなってさ、手を回してもらう余裕が無いんだろうなって考えると、自分たちがいつもより大変だって思ってんのさ」
それは・・・
確かにメインストーリーになれば阿部の言う通り他の部署の作業をついでに済ませるような事も減るだろう。
「だからみんな早く来て、今まで真中がやってた自分たちの仕事を見直してるの。真中ってめちゃくちゃ頼りにされてたんだぞ」
「・・・そんなわけないでしょ」
人と話すのが苦手だから自分で完結させる範囲を広げただけだ。
そこに何も気遣いなんてなかった。
「いや、そうなんだって」
そんな事を言われても自覚がないのだからなんとも言えない。
頼られていたと言われてもよく分からず、私は言葉を詰まらせてしまった。
「まぁいいや。頼られてたのは覚えときな。・・・で?今回のストーリーなんとなく見えてるの?」
「・・・今のところは、まだあんまり」
あんまりと言うのは少しだけ見栄を張っている。
本当はノートに何も書き込めていないとは言えず、それで言葉を切った。
「今回みたいな親子で旅ってさ、昔そんなゲームあったよね」
阿部は私の都合や思考などお構いなしにのんびりと話し掛け続けてくる。
「ほら、有名なRPGでさ、主人公とその奥さんとその子供と、みたいになってくゲーム。知らない?」
「ゲーム会社にいて知らなかったらダメでしょ」
あまりにも冷たい言い方であっただろうか。
でも、昨日から彼の言動が全て何か気になってしまう。
仕方のないことかもしれないが、軽く自分のコミュニケーション能力の低さに後悔していると、彼は何も気にしていないかのように笑っていた。
「はは、確かに。・・・あれってさ、どんな気分なんだろうね」
「・・・?」
彼の言っている質問の意図が分からず、私は初めてそこでノートから顔を上げて阿部を見やった。
彼は何が可笑しいのかニコニコと人当たりの良い笑顔を浮かべている。
「強いとは言えさ、俺だったら奥さんと子供を魔物が出る中、一緒に連れて行きたくないんだよなー。でも離れて自分がいつ死ぬか分からないのに一緒にいられないのも辛い。・・・真中だったらどうする?」
「・・・」
「あ、女の子の立場からでもいいよ?旦那がめちゃくちゃ強いけどいつ死ぬか分からない魔物の中の冒険に行くって言ったらついて行きたい?それとも集中できるようにって離れて待ってる?」
彼の会話のテンポは些か私には早過ぎた。
質問の意味を考えて言語化する前に、彼は急に質問を変えてしまう。
私がもたもたしている間、何が楽しいのか分からないが彼は笑顔のままで、考えている私の顔を真っ直ぐ見つめていた。
それは私が視線を外しても続けられ、そのせいで思考が鈍ってしまうのも自覚していた。
「私、は・・・」
私だったらどうだろう。
自分の書いてきたお話の中での恋愛の感情を思い出す。
そばにいたい。でも足を引っ張りたくない。
その相反する気持ちはどちらとも正解な気がした。
この会話はただの言葉遊びだとまで思ってしまい、答えを出しかねていると、
また扉の開く音が聞こえて部長が入ってきた。
それを皮切りに続々とメンバーが集まっていき、気が付けば始業のチャイムが鳴る。
私の答えが言語化される前に、私は朝礼のためにデスクを立ち上がった。
「みんなおはよう。今日の十七時で今回の企画用のデスク配置に変わるから、各自座席表を見ておいてくれ」
まだ眠たそうな部長の声が響き、同じようなスイッチの入り切っていない返事があちこちから聞こえてくる。
かく言う私もいつもであればそうなのだが。
今日は早い時間から活動していたし、さっきまで阿部と話していたせいだろうか。
いつもより頭が冴えているような感覚であった。
会話と言っても私の言葉はそんなに多くはなかったので会話と呼べるのかは不安だが。
それに、入社して何年も一緒に居るが、阿部と一対一でちゃんと話したのは初めてだったかもしれない。
「・・・って訳だ。今日も一日頑張ろう」
今まで自分がいかに周りとコミュニケーションが取れていなかったのかが浮き彫りになった気がして、少し落ち込んだ。
そしていつのまか部長の話が終わってしまっており、周りは座り直していた。
周りを軽く確認してから私も座り直すと、部長が近付いてくる。
「真中さん、阿部くん。二人ともちょっといいか?」
私と阿部が振り返ると、部長はスーツをかっちり着こなした若い男の子を連れ立っていた。
「彼はシナリオライター枠で採用したんだがずっと研修していてね。今日から合流させる。高村くんだ」
「はじめまして!高村大輝と言います。よろしくお願いします」
勢いよく頭を下げた彼は短髪をアップにしていて、見るからに元気いっぱいであった。
体育会系とも言うだろうか。
シナリオライター、ひいてはゲーム制作会社の中には珍しいタイプだな。
とぼんやり感想を抱きながら立ち上がって自己紹介を返す。
次いで自己紹介をした阿部は何処か嬉しそうだ。
彼は気が合う人間だと判断でもしたのだろうか。
「今パソコンやらの引っ越しをさせるから、準備ができたら軽く説明してやってくれ。・・・あぁ、あと阿部くんちょっといいかな」
「・・・はーい」
立ち上がった阿部は、おおよそ上司へするような返事ではない言葉を出してから高村くんの肩を叩いて部長と共に離れて行ってしまった。
初対面の彼を人見知りの私と二人きりにさせられても困るのだが。
「・・・あの、真中先輩。僕シナリオライターが夢だったんです。これから頑張ります」
「・・・えっ、あ・・・うん」
では、と彼はデスク移動の準備に戻ってしまう。
もっと先輩らしく何か声を掛けたほうが良かったのだろうか。
いや、それは阿部の方が得意で彼がやるべきか、と悶々と考えてしまい、結局新人の彼が準備を終えて声を掛けてくるまで、私のペンは一センチも動くことはなかった。
「改めて、阿部だよ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
昼休みで皆がデスクからいなくなって閑散としているブースで、私たち三人は膝を突き合わせていた。
自己紹介をした阿部がハリウッド映画のようにフランクに握手をしているところを見届けてから、私も小さく息を吸い込んだ。
「・・・真中です」
「あ、はい・・・高村です。お願いします」
早速阿部に毒されてしまったのか手を差し出してくる高村くん。
その両手の中に少しだけ右手を差し出すと、彼は全力で握りしめてきた。
嫌いではない。嫌いではないが苦手なタイプだ。
と既に栓をひいてしまいながら手を引くと、阿部はいつも通りの笑顔を浮かべていた。
「高村ってさ、昼飯どうしてるの?」
デスクの上に放り出されていた黒い長財布を手の中で弄びながら阿部が声を掛ける。
「僕は研修中みんなであちこち食べに行ってました」
「そうなんだ。じゃ、今日も外食?だったらどっか一緒に食べに行こうぜ」
「えっ、いいんですか?是非」
心から嬉しそうに笑いながら、高村くんは立ち上がった。
そんな彼と一緒に立ち上がった阿部は、私を笑顔のままで見下ろした。
「真中もコンビニとか外食だろう?三人で飯行こうぜ」
「・・・私はシナリオ進めたいからご飯食べない」
「最初からそんな根詰める事無いって。はい、行くよー」
「ちょ、ちょっと・・・」
勝手に私のパソコンをロックした阿部は、急かすように私の椅子の背もたれを揺らした。
どうせついていっても碌に話すことなどないと内心で嘆息しながら、私は観念して財布を持って立ち上がった。
「定食屋でいい?あそこタバコ吸えるからお気に入りなんだよね」
私と高村くんの前を歩きながら勝手に決めた彼に、高村くんは笑顔で駆け寄った。
「阿部先輩もタバコ吸われるんですね」
「お、“も”って事は高村も?」
「はい、やめようと思ってたんですけど結局電子タバコに落ち着いてます」
「俺は紙から電子タバコにして今また紙にしちゃったなぁ」
「僕もお酒とか飲んじゃうと物足りなくなる時やっぱりありますよ・・・」
「だよなー。ってか、高村酒とかめっちゃ飲みそうだね」
私の二メートルほど前。
高村くんはすっかり阿部に懐いた様子であった。
二人の会話のテンポが素早く流れるのを見ながら、どうも私にはなじめそうに無い空間だ。と諦めた。
街に出るとむわっと一気に暑くなったのは夏のせいか、それとも前の二人のせいなのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながらただついていくと、古ぼけた定食屋へと入っていく。
ランチ難民という言葉が生まれるほどにこのオフィス街ではあちこちが混むのだが、この定食屋は一見するとただの民家であり、看板も暖簾も出していないせいなのだろうか、店内には私たち以外の姿はなかった。
「ここお店だったんですね・・・」
小さなテレビの音に隠れるように高村くんが小声で話し掛けてくれたが、私は曖昧に笑って頷くしか返すことができなかった。
阿部と話していた方が楽しそうなのに申し訳ない。
と内心で謝りながらメニューを掲げ、私は彼らとの間に薄っぺらい壁を建てた。
「おばあちゃん、俺カツとじの大盛り。後灰皿貰える?」
対外では一応の丁寧さを保つ阿部がため口で話すという事は常連なのだろう。
定員もまた阿部の顔を見ると笑顔で何気ない会話を交わしているから間違いなさそうだ。
相も変らずコミュニケーションの化け物だと思う。
「あ、じゃ俺は生姜焼き大盛りで」
「あいよっ!二人とも大盛りね」
その威勢の良い定員さんの声に、私の「野菜炒め定食をお願いします」という声は被ってしまったようだ。
厨房に野菜炒め定食を伝える声は響かなかった。
甲斐甲斐しくセルフサービスのお冷を高村くんから受け取りながら、私は少しだけ椅子を引いた。
だが、私が立ち上がるよりも早く、阿部が灰皿を受け取りに立ち上がってしまい、なんとなくタイミングを逃してしまった。
まぁ、お昼はもともと基本食べないタイプだ。
阿部に半ば強制で連れて来られたのだから、むしろ好都合だ。
定員さんが「女性だから食べないのだろう」と判断してくれるならそれで良いし、わざわざ今更注文するのも億劫だ。
そう考えながらお冷を口に付けると、阿部と高村くんはそれぞれのタバコを咥えながら話し始めていた。
「あの、阿部先輩。シナリオって僕たち三人しか居ないんですか?」
「そうなんだよー。部長にはずっと人員募集してくれって言ってんだけどね」
それはその通りだ。
だが、補充されない原因は他ならぬ阿部だとも思う。
人手が足りず回らなくなりそうなギリギリで、いつも彼は大体一人で何とかしてしまうのだ。
一人で、と言っても全て書ききる訳ではなく、なぜかうまい具合に私に仕事を振ってくるのだが。
それがまた私の得意とするところであったり、私が頑張れば終わらせられる量だったりで悔しくもある。
優秀というのはまさに彼の為にあるような言葉であった。
「だから高村が来てくれて嬉しいよ。きつい事とかあったらすぐ俺たちに言えよ?」
だからといってこういう時に私を巻き込むのは、やめて欲しいのだが。
「はい!先輩たち優しいんですね」
「はは、まあなー。ところで高村はなんでシナリオライター選んだんだ?」
手元にある灰皿にタバコを捨てた阿部がインタビューの真似事のように握り拳を高村くんに向けると、彼は少しだけ恥ずかしそうに頭を掻いた。
「僕、本当は漫画を描きたいなって思ってたんですけど・・・絵は本当全然上手くなくて・・・」
「なるほどね。でもそれだったら原作って感じで漫画に携われるんじゃないの?」
「あ、えーっと・・・ゲームも好きだったので」
少し驚いたような表情の高村くんは取り繕うように早口でそう続け、それに阿部が頷いているのが、グラスを見つめている私の視界に入った。
確かに阿部の言う通り漫画関係の仕事はあったはずだ。
でもその言葉は、高村くんには少し残酷なようにも思えた。
私がこのゲーム会社に入ったのも似たような理由だと思う。
もともと小説家にはなりたかったけれど、就職するまでに結果なんて出せるわけも無くて。
取り敢えず物語を書ける仕事を、と片っ端から受けていた所拾ってくれたのがこの会社だった。
今でこそゲームのシナリオライターという事は楽しんでいるし誇りにも思っているが、入社のきっかけなんてただ受かったから、というものだ。
最初から目指していた夢を叶えている阿部と、私たちでは根本的に何かが違うのだ。
私たちが分かり合える事は、きっと無い。
「はい、お待たせー」
定員さんが器用にトレーを二つ持ってきたのはそんな考えがさらに後ろ向きになってしまう前だった。
気分が変わって良かった。マイナス思考は自分の悪いところだと自分を戒めて頭を振ると、目の前に置かれたトレーを見つめ直した。
「・・・あれ」
そう、目の前のトレーである。
私の前に置かれたトレーにはご飯とお味噌汁、漬物に野菜炒めが温かそうな湯気を放っていた。
「あれ、注文違ったかい?」
トレーと定員さんの顔を交互に見てしまうと、定員さんは申し訳なさそうな表情を浮かべてしまった。
慌てて首を横に振った私は、既に自分のカツとじを食べ始めている阿部を見つめた。
自分が注文して届かなかった時から定員さんのところに行ったのは彼だけだ。
彼がわざわざ伝えに言ってくれたのだろうか。
それとも自分の注文が定員さんに届いていたのか、と希望的な観測をしながらも箸を動かし始めた。
そんな私を、なぜだかニヤニヤと見つめていた定員さんの顔がやけに印象に残った昼休みだった。
企画が動き始めて二週間が経った。
大まかなストーリーは決まり、各部署に伝達されたのが一週間前。
ここ一週間は実際にゲーム内に表示される文章を打ち込み、大まかでしかなかったストーリーをしっかりと文章化していく作業で忙しかった。
久しぶりに残業を増やしながら疲れも溜まってきたある週末。
私は会社の中を走っていた。
遡る事数分前。
朝礼で各担当の会議があると言っていたのにも関わらず、自席で高村くんと話していた阿部をジト目で見つめていると、返ってきたのは阿部の楽しそうな笑顔だった。
「ねぇ、なんで真中ここにいるの?会議でしょ?シナリオ担当さん」
からかうように笑われ、一瞬なんの事を言っているのか分からなかったが、すぐに私は勢いよく席を立ち上がることになってしまう。
今まで担当は阿部で、会議の時間という概念すらなかった私は、自覚が足りなかったと猛省しながら会議室に向かっているのである。
会議室の前にたどり着いた私はちらっと腕時計を確認した。
時間はギリギリ。
怒られはしないだろうけどもう少し早くたどり着いてるべきだ、と自分で自分を戒めて息を整えてから入室する。
既に揃っていた人間からの視線に晒されるが、それも俯いて避けながら空いている席を探した。
「んんっ、これで全員だね。少し早いけど始めようか」
これ見よがしに進行であるディレクターが私を見てから話し始める。
「まず進捗確認から・・・各部署ごと簡潔に報告をお願いします」
はい、とまずはキャラクターのデザイン部門が話し始め、次にその隣の音楽部門が話し始めた。
しまった、と自分の席までの順番を数えていく。
会議が阿部の仕事だと思っていたから何をすれば良いのかも分からない。
さらに言えば、自分までの残り三人の中で纏められる程話すことは得意じゃない。
上手く周りの言ったことをシナリオ部門に置き換えようとも思うが、そもそもそんな柔軟な対応が得意でもない。
つくづく自分の能力の無さが嫌になる。
そんな後悔という無駄な時間に頭を回していたせいで私の順番が回ってきてしまう。
焦れば焦るほど上手く思考が回らなくなっていき、私の順番で立ち上がった時、頭の中は真っ白であった。
焦って詰まりながら早口で捲し立てていき、座り直してからも自分が何を言ったのかは全く覚えていなかった。
阿部ならもっと上手くできたはず。
そう考えて自分が更に嫌になっていった私は、会議が終わってそれぞれが会議室から出ていくのをまるで絵画を見ているかのようにぼんやりと別世界を見つめていた。
私のノートは会議のメモが取られていたが、特に重要でもなさそうな情報だけが汚く書き殴られており、私はそれを見てまた溜息を深く吐いた。
全くもって嫌になる。
私はシナリオを、物語を書ければそれでいい。
サポートではなく担当になれたことは純粋に嬉しくも思っていたが、それに付随してこういった嫌な役割が増えてしまう事は、ストレスにもなっていた。
会議での失敗、そして何か大切な情報を聞き逃してしまったのかもしれないと落ち込んだ私は、とぼとぼと自分のデスクまでゆっくりと戻っていった。
だから、戻った時に阿部が高村くんと楽しそうに雑談をしているのを見てどうしようもなく苛ついてしまう。
自分でもビックリするほど乱暴な音を立ててノートを置いて座り直した私は、手に付くはずもないのにパソコンを開いて指を動かし始めた。
阿部と高村くんが私を見ながらひそひそと話しているのもなんとなく分かっている。
でもだからといってなんだというのだ。
言い訳をしたりする気もないが、話をしに行くような事もできない。
周りが思うより私は何もできないし、余裕もないのだ。
会議の最中から何度目か分からない溜息を吐いていると、私の隣に誰かが立つ気配がした。
「真中さん、少し良いですか?」
声を掛けられた方をゆっくり見上げると、そこには身長も高くスタイルもいい女性が立っていた。
さらに言えば私はその人を知っている。
知っているというより、さっきの会議室にいたような気がする。
「あの、さっき私が会議で言ったことについて確認したいんですけど」
返事もなくただ見上げていたからか彼女は話しにくそうに声を掛けてくるが、私の頭はそれどころではなかった。
さっき会議で言ったこと、というのが頭に浮かんでこないのだ。
そもそも、彼女が誰なのかも正直分かっていなかった。
「野々宮さんだ!俺の時はこっちまで来てくれないのに」
内心でどう話を合わせようかと頭を回していたところに、阿部の脳天気そうな声が聞こえてきた。
「・・・私は今真中さんとお話ししてるんですが」
「それもう贔屓じゃん・・・俺が担当してる時は「絵を描くのが忙しい」って言って社内メールで済ませる癖に」
ふざけた話は正直苛つきを増幅させるだけであったが、阿部は今いい事を言ってくれた。
どうやら野々宮さんというこの方はイラスト、デザインの担当らしい。
これならまだなんとかなる。
「うるさいですね・・・。それで、真中さん。会議の時言ってた主人公親子の服飾品なのですが」
「・・・あ、えーっと・・・はい」
「シナリオ部分で明確に表現されていなかったのでどうしたものかと相談したいんですけど…真中さんは服装だとか服飾品って既にイメージしているものがありますか?」
服装。そう言えば私は全体のストーリーやキャラクターを考えてはいたがそういったことには全く思考が回っていなかった。
「・・・あ、えーっと・・・あんまりそこはまだ固めていないというか」
「そうでしたか、こちらのデザインが先にいくつか仕上がっているので、参考までに置いて行きますね」
そう言って野々宮さんは紙の束を私のデスクに置いた。
パラパラとめくってみるとそこには一枚や二枚ではない数の候補が描かれており、それがどれだけ大変かも良く分かるほどの素晴らしい出来であった。
頭が下がる思いで私は野々宮さんを見つめ返す。
「・・・すみません」
「・・・いえ、構いませんから。こちらの進捗もあるので、できれば早めにイメージ固めていただけると助かります」
そう言い残して、彼女は頭を下げて立ち去っていった。
イメージを固めていないと誤魔化したが、本当のところを言うとそんな事を考えてもいなかった。
どんなストーリーでどんな成長をしていくのかというのが大事なのであって、そこにいちいち服装の事まで考えてもいなかったのだ。
だが、キャラクター化するという事はそこも決めないといけないのか。
というか、それはシナリオの担当でやる事なのだろうか。
「へぇ、めっちゃ分かりやすいじゃん。俺の時はこんな事しないのに」
笑いながら私のデスクから勝手に資料を持って行った阿部は、初めて見るその資料に興奮気味の高村くんと並んでパラパラと楽しそうに捲っていた。
「凄いですね・・・でもこれってシナリオライターが決める事なんですか?」
「いや?違うよ」
その高村くんの質問に対する阿部の答えは、私としても聞き流せなかった。
パソコンを見つめたままで意識は耳に集中させて彼の言葉を拾っていく。
「普通はディレクターとイラスト側で決めるんだよ。で、それが決まってから俺たちに知らされるの」
そうなんですか、とあまり理解ができていない高村くんに笑いながら阿部が説明を補足した。
「例えばさ、「主人公が腰につけた剣を引き抜いて掲げた」って一文を入れるとするじゃん。でもイラストが腰じゃなくて背中に剣を付けてる絵だったら齟齬が生じるだろう?だから共有するんだけど。こうやって候補を挙げて俺たちに決めろって言うのはかなり珍しいかなぁ」
「そうなんですか?」
「あぁ。だってこっちでシナリオやってる合間に決めようとかにして遅れたら、向こうは何に決定したか分からないから仕事の進めようがないだろう?」
なるほど。確かに言う通りだ。
だから野々宮さんは私に早めにと釘を刺したのか。
阿部が当然のことのように話した事も私は知らない。
その事実が私の心に影を落とす。
もしかしたら野々宮さん、引いてはイラストの部署全体で私に不満があるのかもしれない。
阿部に比べて他部署との連携も取れていなかったし、先ほどの会議ではあの体たらくだ。
気を遣ってくれたのかもしれないから、最優先でイラストは決定しようとノートにメモを取っていると、また私のデスクを人の影が覆った。
声を掛けられる前に顔を上げると、そこには先ほどの野々宮さんと同じように会議室で見た男性が立っていた。
「真中さん、プロローグのß版って既に確認されましたか?」
「今度はプログラマー陣か、今日は忙しいねー」
楽しそうに笑って話す阿部を互いにスルーしながら話を進めていく。
どうやらテストで作ったプロローグ部分で文字数が上手く合わず一文字だけ次のページに改行されてしまったりということがあったらしい。
見栄えが良くないので文字数を違う表現などで調整できないかという事であった。
「あ、これ・・・前回まで似たような修正点の時どう直したかっていう資料なんで。良かったら」
そう言って彼はUSBを渡してくれた。
わざわざ修正をどうしたらいいかという参考までくれるなんて本当にありがたい。
「・・・すみません」
「・・・いえ、構いません」
少しだけ目を細めた彼は奥歯に物が挟まったような態度のままで頭を下げて自分の部署へと帰っていった。
今度は入れ替わりに直ぐ人がやってくる。
どうやらまた阿部の知り合いらしい彼女はゲームのシステム担当らしい。
「あの・・・真中さん。第二章から第三章に移るときなんですけど、怪我を治すために次の街に行くんですよね。ゲームはクリアしないと次には行かないのでどうゲーム部分を終わらせるか相談したいんですけど」
「・・・あ、はい」
「来週でいいんですけどね。シナリオが根幹ですしきちんと準備してからの方がストレスが少ないと思いますし」
ありがたい言葉だ。
そういったところは考えていなかったし、その場でなんとかできるほど私の脳はうまく回ってくれないのだから。
早く決めた方が彼女らも楽なのは間違いないのに。
本当にありがたい。
「・・・すみません」
「いえ」
なぜか面白くなさそうに鼻を鳴らした彼女も足早にデスクを離れていく。
これで三人連続の来訪だ。
阿部が担当してる時こんな慌ただしそうにしていただろうか。
悲観的になりすぎなのかもしれないが、口から出る溜息を止められる事もない。
結局この日、そしてそこからの一週間、私のデスクにはひっきりなしに人が来ることになってしまった。
何度目かは分からない会議は回を増すごとにストレスは減っていたが、それでも神経を擦り減らしてしまう。
毎回のことのように会議室を出て行くときは一番最後で、顔は疲労に染まっているだろう。
初回のようなミスをすることはなかったが、阿部だったらもっと上手くできるとも強く感じられた。
しっかりと準備をしていくのは良いが、想定外の質問が来たときはうまく言葉にすることが出来ない。
そしてそれを想定しておかなかった自分にも腹が立ち嫌気がさす。
私は昔から物語を描くのが好きだった。
悩みといえば頭の中にある物語が文章化したらつまらなくなっていたり、思った通りに描写できない事であった。
就職してからは間近で自分とは違う才能の塊を見せつけられ、サポートに甘んじている事が辛かった。
けれど、ここに来て初めてシナリオ担当になれたのに、悩みは増していくばかりだ。
しかも、それはシナリオと関係のないことばかり。
私はシナリオが、物語が書ければそれでいいのに。
どうしてこんな無駄な悩みを抱えないといけないのだろうか。
日に日に落ちていく気分を変えるため、私は会議の帰りにほんの十分だけサボることを決めてしまった。
サボると言い切るわけじゃないが、会社を出てコーヒーを飲みに行く時間ではないからサボりだろう。
後ろめたさを誤魔化しながらカフェに入り、店内から隠れるように角の席に座る。
アイスコーヒーを普段ブラックで飲むことなどないのだが、今日はなんとなくガムシロップは取らなかった。
「・・・はぁ」
一口口をつけるとほのかな苦味と酸味が舌の上で踊る。
脳を刺激されて強制的に覚醒されるような不思議な感覚であったが、今の気分を変えるには悪くなかった。
今日もボロボロだった会議を思い出しながら、前よりはマシになったノートを見つめて何を進めればいいのかを書き出していく。
仕事の気分を変えるために来たのに結局仕事のことを考えてしまっている。
だったらカフェに来なくてもよかったのに。
私はそれを深く後悔することとなる。
「アンタも言われたの?」
「そうそう、なんか余計な事をって言いたいのかしらね」
少し離れた席の声が、喧騒の中やけに大きく聞こえてくる。
「ノートから少し目を上げると、そこには会社で見慣れた女性が二人膝を突き合わせていた。
「あーあ。これだったら阿部さんの方がよかった」
よく知っている名前を聞いてしまうと、嫌でも意識が会話に持っていかれてしまう。
十中八九聞きたくない話が飛び込んでくるだろうに、意識しないように意識しないようにと考える程にやけに二人の声は大きく聞こえてくる。
「すみません、すみませんばっかり。真中さんって、か弱いアピールなのかな」
「あ、分かる!感謝しないのにずっと謝ってるんだよね」
その会話は良く考えてられていないもので、あくまで笑い話として話しているのかも知れない。
けれど、今の私にそんな事考えられる程強いメンタルは残っていなかった。
「野々宮さんとかプログラマーの岸さんとかさ、いっつも真中さんに気遣ってんのに謝られて可哀想」
気遣われている事など私が一番よく分かっている。
それに感謝はちゃんとしている。
私の事をよく知りもしない癖に勝手な事を。
「同じライターの阿部さんが優秀でカッコいいからさ、女の子アピールしてるんじゃない?」
「いやー。あれはただのコミュ障でしょ。いい大人になってさ」
人見知りで上手く話せないのも自分が一番よく分かっている。
でも、それがどれだけ苦しい事なのか分からないだろう。
頭では分かっているのに、身体が人を拒絶してしまうのだ。
会社をサボって人の悪口を話すだけの頭の悪さでは理解しようともしていないのだろうが。
そう考えて、ふとそれは自分にも同じ事を言えたのだと気が付いてしまう。
そうなると思考が自分でも止められずどんどん下に深く潜っていってしまう。
嫌だ・・・。考えたくない。
そう悲鳴を上げながら、私は結局退社の時間になるまで指一本動かすことができなかった。
会社の大体の人間が居なくなった時間に荷物を取りに帰る。