フィオーネは校舎を離れ、森の中を歩いていた。手にはカゴを提げ、足元にはカイザァを引き連れて。
 これからフィオーネとカイザァは、森で食事にするのだ。本当は食堂に行くつもりだったけれど、誰かに会うのが面倒になって、人のいる場所からつい遠ざかってしまった。
 さっき女子から向けられた悪意が、地味にこたえていたのだ。傷ついたというわけではなく、疲れたというほうが正確だった。
 フィオーネ自身ではどうしようもなかったことでああして悪意をぶつけられるのは、まるで地震や雷といった災難と変わらない。厄災だ。
 医務室で働くことの面倒事にああいったことが含まれるのかと思うと、気が遠くなるほど面倒くさい。
「ここに座ろうか」
 陽だまりを見つけ、フィオーネはそこにラグを敷いて腰を下ろした。カイザァもさっそく、真ん中に陣取って大きく伸びをする
「少しゆっくりしてから帰ろうね」
 茹でた鶏肉をほぐしたものを皿に乗せてカイザァに差し出し、フィオーネはサンドイッチをかじった。
 医務室のドアには“外出中”の札をかけてきたから、少しの不在なら許されるだろう。相談室のアンヌにも声をかけてきたから、緊急のときには“伝書蜂”という連絡用の魔術具が飛んでくるはずだ。
 でも、静かな森の中で美味しいものを食べてゆっくりしていると、戻りたくないという気持ちがムクムクとわいてくる。
「仕事が忙しいのは、まぁ仕方ないとしても、さっきみたいなのは嫌だよねぇ」
 フィオーネが背中を撫でながらそう声をかければ、カイザァは皿から顔も上げずに「にゃ」と鳴いた。実際のところ、あのときその場にいたかも怪しいカイザァだ。答えが適当でもしょうがない。
 でもカイザァは聞き上手な猫だから、フィオーネは気にせず話してしまう。
「誰かを好きなのは、いいと思う。ヤキモチを焼いちゃうのも、まぁわかる。でもさ、自分の好きな人が誰かと仲良くしたからって、その誰かを攻撃するのはさ、違うなぁって思うの」
 言いながら、理不尽だなとフィオーネは思った。理不尽は、ぶつけられると面倒くさいものだなとも思った。そして、ヤキモチを焼いて他人に理不尽をぶつけるのも、さぞ面倒くさいだろうと思った。なぜそんな面倒くさいことを進んでするのか、フィオーネにはまったく理解できない。
「『ダリウス先輩に近づかないで』だってさ。カイザァ、知ってる? ああいうのを親衛隊っていうんだよ。一体、何から何を守るっていうんだろう」
「まだ、そんなのいたんだ」
「わっ……びっくりした」
 カイザァ相手に愚痴を言っていたはずなのに人間の言葉で返されて、フィオーネは驚いた。気がつけば、ダリウスがすぐそばにいたのだ。
 気配を察知できなかったことにも驚いたけれど、何よりここにいると知られたことが不思議だった。
「本当、嫌になるよね。誰も頼んでないし、迷惑だって言ったのに……嫌な思いさせたみたいで、ごめん。あ、隣に座っていい?」
「……どうぞ」
 フィオーネの驚きに気づいた様子もなく、ダリウスはにこやかだ。フィオーネがあげた髪留めが気に入ったらしく、今日も前髪を一角獣の角のように結っている。
 惜しげもなくさらされた形のいいおでこと美貌に、フィオーネは何だか怖くなる。
(何で、ここにいることがわかったんだろう? 今日だけじゃない……昨日の裏山も、あんなに広いのにすぐに来てくれた……)
 昨日のことはありがたかったけれど、改めて考えるとおかしなことだった。
 裏山もこの森も、それなりの広さだ。それなのにダリウスは、まるでフィオーネの居場所を知っているかのようにぴたりとたどり着いたのだ。
「どうしたの、フィオ?」
 フィオーネの視線に気づき、ダリウスは小首を傾げた。不審な目で見られているとは微塵も思っていないその顔に、フィオーネは困惑した。
「あの……昨日もそうだし、今日もだったけど、どうして私のいるところがわかったのかなって……」
 恐る恐るフィオーネは尋ねた。本当は、尋ねるのも恐ろしかった。ダリウスが答えない可能性もあった。
 けれど、このまま聞かないのも気味が悪い。
「ああ、やっぱり気になる? これだよ。このビー玉を覗いて、フィオの居場所を探したんだよ」
「え……」
 そう言ってダリウスがポケットから取り出したのは、透明のビー玉だった。それは、初めて会ったときにも覗いていたものだ。
「……そのビー玉を覗くと、どうして私の居場所がわかるの?」
「このビー玉が特別なわけじゃなくて、俺の能力で探してるんだ。俺、未来視とか遠目《とおめ》とか、そんなふうに呼ばれる能力がちょっとあるんだよね。千里眼って呼ばれるものほど便利ではないんだけど」
「そうなんだ……」
 ダリウスの説明で、ひとまず居場所を特定された仕組みは理解できた。そういった能力を持った者が世の中にいるとは聞いたことがあったから、そこに疑問もなかった。
「まだ何か、気になることがあるの?」
 腑に落ちない表情のフィオーネに、ダリウスは優しく微笑む。
 その笑顔を見て、フィオーネは自分の胸に引っかかっているものがわかった。
「いや……ノイバート君は、どうして私をこうして探しに来るのかなって」
 初日に言われたことは、未だに信じられなくて口にできなかった。普通に考えても、ダリウスのような容姿の優れた男性に突然プロポーズされる理由など、思いつかないから。
「どうしてって、フィオが好きだからだよ。だから、危ない目に遭わせたくなくて見守ってるし、何かあれば駆けつける」
 キラキラとまぶしい笑顔で、ダリウスはそう言いきった。そこに迷いは一切ない。笑顔がきれいで、嘘をついているように見えないのも、怖い。
「だからその、“好き”が何でなのかって聞いてるの……」
 まっすぐに見つめられるのに耐えられなくなって、フィオーネは目をふせた。カイザァに助けを求めようとしたのに、満腹になったらしく丸くなって眠っている。仕方なく、フィオーネはラグの模様をジッと見ることにした。
「何で好きなのかって、それは俺のこの顔を見ても、目の色を変えて好きになったりしなかったからだよ」
 ダリウスは気取ったふうもなく言った。
「ナルシストなの?」
「自分の美貌を自覚してることと、自己愛が強いことはまったく違うと思うよ」
 フィオーネが思わず顔を上げ、呆れた目で見ても、ダリウスはめげない。平凡な容姿の者が聞けば嫌味かと思うようなその発言も、他意はないようだ。
「ああ、そうですか。でも、そんな理由で簡単に私を信用していいの? 私がただ単に、あなたの顔が好みじゃないだけかもよ?」
「それなら、一層燃える。顔が好みじゃないのにもし俺のことを好きになってくれたら、それって本当におれのことを好きになったってことでしょ?」
「……前向きだね。恐ろしいくらい」
 フィオーネはどっと疲れたように呟いた。あまりのことに、溜息すら出ない。
「まぁ、諸々の理由はわかったけど……やっぱり納得いかない」
 薄気味悪さが拭えず、フィオーネはそっと自分の体を抱いた。今そばにいる相手が自分のことを“監視”しているのだと思うと、背筋がひやりとしてくる。  
 ダリウスは何だかんだと理由を説明したけれど、していることは結局のところ“監視”なのだから。
「納得いかないって、何が?」
 身を固くしたフィオーネを、ダリウスは不思議そうに見ている。
「ノイバート君が、私を監視してること」
「監視って……」
「あなたは“見守ってる”つもりでも、私からしたら監視されてるのと変わらない。だって、私にとってはあなたは知り合ったばかりの知らない人で、知らない人が私の居場所をいちいち知ってるなんて、怖いもの」
 淡々と語るフィオーネの言葉に、ダリウスはわずかに傷ついた顔をした。でも、それも一瞬のこと。すぐにまた、穏やかな笑顔になった。
「それなら、俺のことを知って欲しい。俺のこと、好きになってもらいたいし、俺のことを知ってもらったら、見守ってもいいんだよね?」
 ダリウスは持ち前の前向きさで、フィオーネの発言をあっという間にポジティブな意味として受け止めた。その誤った解釈に、フィオーネはとてつもなく苛立つ。
「違う。そうじゃない。私のこと、そのビー玉で見ないでって言ってるの!」
 苛立った気持ちそのままに、フィオーネは爪を噛んだ。本当は頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜてしまいたかったけれど、編み込んで結い上げた髪が乱れるのが嫌でグッとこらえた。
「……もう、何でそんなに私にこだわるの?」
 あまりの言葉の通じなさに、フィオーネはダリウスと言葉を交わすのが面倒になってきた。その苛立ちを理解できないダリウスは、眉根を寄せて困った顔になる。
「何でって、それはフィオが特別だから」
「別に特別じゃない! ただあなたに興味がないだけ。そんなことで付きまとわれるなんてごめんよ!」
「そんなことって……フィオにとっては“そんなこと”でも、俺にとっては特別なんだよ。フィオは俺に興味がないのに親切にしてくれた。下心なんてない純粋な親切なんて……俺にとっては宝石と同じくらい貴重で、尊いんだよ」
「…………」
 ダリウスのまっすぐな言葉に、フィオーネの苛立ちは吹き飛んだ。言葉そのものというよりは、その声や表情ににじんだ必死さに、つい心が揺り動かされたのだ。
 それでも、戸惑う気持ちがなくなったわけではない。
「……私、そんなふうに言われるような上等な人間じゃないよ」
 揺れる心でフィオーネがやっとのこと吐き出せたのは、そんな言葉だった。ダリウスの言葉に比べれば、何の重みも勢いもない。
「そんなことない。フィオは、うんと上等だ。フィオにはわからなくても、俺にはわかるんだよ」
 自信満々でダリウスは言う。
 その自信のまま押し切られるのは嫌で、フィオーネは立ち上がった。
「もう、帰らなきゃ」
 気がつけば、陽だまりがずいぶんと移動していた。思いのほかゆっくりしてしまっていたらしい。それに気がついて、フィオーネはあわてて皿とカイザァを拾い上げ、カゴに放り込んだ。
「とにかく……もう、そのビー玉で私の居場所を探らないで。いくら好きだって言っても、しちゃいけないことだと思う」
 そう言い放ち、フィオーネは歩きだした。
「わかった。フィオみたいな子に出会えたのが嬉しくて、ちょっと焦ってた。でも、これからはもう少し考える」
 ダリウスのその返事を、フィオーネは背中で聞いた。
(あなたに興味ないっていう、ものすごい美少女が現れたら、どうすんのよ)
 歩きながら、そんなことを考える。
 それは、ダリウスの思いに対する、面倒くさい以外の感情だった。
 そんなものが芽生えたことを、フィオーネ自身はそのとき、気がついていなかった。