昔、テレビでやっていた。
算数の苦手な男の子が、メガネをかけて唱える呪文。
その呪文を唱えたなら、どんな難しい問題だって簡単に解けちゃう。
そんな無敵の呪文。
『マンマルメガネ』
マンションのエレベーター。
今日の私はいつもとは違う。
…マンマルメガネ。
開く扉。
2階下の通路から乗り込んでくる彼と目が合い、あいさつを交わす。
「おはよう。」
「おはよう。」
幼稚園の頃から続く朝の日課。
始めはママ同士が。
次第に私たちも。
私はずっと私立の学校。
彼はずっと公立の学校。
高校生になった今も、私たちの間にあいさつ以外の会話はない。
だけど、私は彼のことを知っている。
ママたちが仲良しだから。
潤くんという名前だということも。
中学時代は野球をがんばっていたことも。
高校生になってちょっと悪ぶっているけど、小さな弟たちのために毎日早く帰って来て、遊んであげているということも。
そんな彼をいつの間にか好きになっていて。
もっとお話ししたくて。
もっと彼を知りたくて。
今日こそは話しかけるって決めたんだ。
私よりも少し斜め前、昇降ボタンのそばに立つ潤くんの背中。
ずっと見てきた背中。
いつの間にか大きくなって、私からは数字の並ぶボタンも見えなくなっていた。
………マンマルメガネ。
握った掌にギュギュギュッといっぱい力を込めて。
今日はいつもの私じゃないから。
勇気をください。
マンマルメガネ。
ドアが開く直前、
「あっ、あの…!」
めいっぱいの勇気を出して潤くんに声をかける。
だけど、急に振り向いた潤くんは、私の髪をくしゃくしゃに撫でて、
「なんで今日はメガネなの?俺は…いつものが好きだけどな。」
って笑った。
「………へ?」
「またな。」
そう言い残してエレベーターから出て行く潤くん。
残された私。
ずれるメガネ。
「な…なに?」
大きく開いた扉の前で、ただただビックリ口を開けつつも、私は、一歩進んだその先に待つキラキラとした予感に、こっそりと胸を高鳴らせた。