どうして、君のことばかり。

 痛くて切ないことも、たくさんあるけど。

 というか、わたしの初めての恋には、痛くて切ないことしかなくて、なにもできないまま、あっという間に散ってしまったけど。

 後悔は、していない。
 絵里の背中を押せたことは、自分の中で誇れることのひとつだ。

「由奈。その……」

 颯ちゃんが、遠慮がちにわたしに声をかけた。

「ん?」

「平気なのか?」

「え? 何が?」

「いや。……何でもない」

 颯ちゃんは、森下くんたちが歩いて行った道の先に、視線をやっている。

「なに、ぼーっとしてるの? 早く帰ろうよ」

 明るく声をかけて、はずむ足取りで、歩を進めようとした……ら。

 いきなり、颯ちゃんがわたしの腕をとって、ぐいっと引っ張った。

「あぶねーって。水たまり踏むとこだったぞ? ほら」

 言われて足もとを見ると、アスファルトのくぼみに水がたまっている……。

「あ、ありがと」
 もごもごと答えた。

 恥ずかしい。
 わたし、まるで、小さい子どもみたい。

 それに……。颯ちゃんが近い。

 思いがけず引き寄せられるかたちになって、からだがぶつかりそうになってしまった。

 どうして? 颯ちゃんに触れそうだった、からだの右側が、熱を持っている。
 どきどきと……、心臓が鳴っている。

 颯ちゃんと子どもの頃に遊んでいた川に差し掛かった。
 大きな橋を渡っている途中で、ふいに、頬にぽつりと冷たいものが当たった。

「あー……。降ってきたな」

 ぽつん、ぽつん。雨のしずくは落ちてくる。

 颯ちゃんは自分の傘を開いて、わたしに差し掛けた。

「ほら」
「……ん。ありがとう」

 ほんとに、あいあい傘することになってしまった。

 傘をたたく雨の音。
 歩道を歩くわたしたちのすぐそばを、たくさんの車が通りすぎていく。路面の雨水を跳ねとばしながら。
 颯ちゃんは車道側を歩いて、わたしに泥はねがかからないようにしてくれている。
 それだけじゃない、傘も思いっきりわたしの方に傾けて、濡れないように気遣ってくれている。
 だから、颯ちゃんの右肩は、雨に濡れている。

「ね。颯ちゃん風邪ひいちゃうよ。わたしはいいから、ちゃんと颯ちゃんも傘に入って?」

「いいよおれは。これぐらいで風邪ひくほどヤワじゃねーって」

「ダメだよ」

 強めに言うと、颯ちゃんは「しょうがねーな」とでも言いたげな顔をして。
 そして、少しだけ、わたしのほうにからだを寄せた。

 どきん、と。鼓動が大きくなる。

 そうだよね、ふたりとも濡れないようにするには、身を寄せ合うしかない。
 だけどこんなに近いなんて。こんなにどきどきしているなんて。

 わたし、変だ。

 颯ちゃんは、たんなる幼なじみなのに。

 兄妹みたいな存在なのに。

 今のわたし、まるで――。

「……っ、くしゅっ」
 いきなり、くしゃみが飛び出て、わたしは反射的に口を押えた。

「大丈夫? 寒い?」

 颯ちゃんが気遣ってくれるけど、どきどきしすぎて、わたしはまともに言葉を返せない。

「早く帰らないとな」

 うん、と答えたつもりだったけど、わたしの声はかすれて、ちゃんと颯ちゃんに届いたかどうかわからない。

 颯ちゃんはそれきり何も言わなかった。

 わたしも、何も言えなかった。

 雨は激しさを増していく。

 家に着くまで、わたしたちはひたすら、無言で歩いていた。ひとつの傘の中、ぎこちなく身を寄せ合って。
 頭の芯がぼんやりしている。

 颯ちゃんがあんなに気遣ってくれたのに、雨の勢いが強すぎて、わたしは結局濡れてしまった。

 帰宅してすぐにバスタブにお湯を張って浸かり、からだを温める。

 ずっと、どきどきが続いている。

 乳白色の入浴剤を入れたお湯を、両手ですくう。
 なんだかからだがふわふわしていた。頭がぼうっとしてうまく回転してくれない。

「……くしゅっ」

 また、くしゃみ。
 と、同時に、ぶるっと、全身を寒気が這いあがった。
 熱いお湯につかっているのに、寒い。

 お風呂を出てパジャマを着て、急いで髪を乾かす。
 寒くてたまらないのに頭の芯は熱い。

 今日は両親とも仕事で帰りは遅い。妹の香奈もまだ帰ってきていない。

 わたしはふらふらと階段を上り、二階にある自分の部屋へ。
 押し入れにしまい込んでいた毛布を引っ張り出して、ベッドでくるまった。

 ……寒い。だけど、熱い。

 窓を激しくたたく雨の音。

 同じ傘の下、手を伸ばせばすぐに触れられそうなほど近くにあった、颯ちゃんの横顔。広い肩。

 思い出してしまって、ぎゅっと、目を閉じる。

 隣の家には、颯ちゃんがいる。しかも、颯ちゃんの部屋も二階にある。
 だけど、わたしの部屋と面しているわけじゃないから、窓からおたがいの姿が見えることもないし、窓を開けてやりとりできるわけでもない。

 颯ちゃんは今、何をしているんだろう。

 どうしてわたしは今、颯ちゃんのことばかり考えているんだろう。

 吐く息が熱い。
 妙に心細くて、わたしは、毛布の端っこをぎゅっと握りしめた。

 降りしきる雨の音を聞きながら、わたしは、すうっと、眠りの世界に落ちて行った……。
 

――祭り囃子が、聞こえる。


 赤い提灯がゆらゆら揺れて、あたりには、浴衣姿の人がたくさん。

 わたしも、お気に入りの金魚柄の浴衣を着ている。
 妹の香奈はまだ小さいから、ベビーカーに乗っている。
 颯ちゃんは甚平を着て、おじさんと手をつないでいた。

「由奈、いい加減にしなさい」

 お母さんが怒っている。
 だけど、どうしてもあきらめられなくて、わたしは、

「お願い! もう一回だけ!」
 と、わがままを言った。

 どうしても、欲しいんだもん。

 くじ引きの屋台の、真ん中に飾られた、きれいな指輪。
 銀色の台座に、赤くて丸い大きな石が乗っている。

 お父さんとお母さんにせがんで、何度もくじを引かせてもらったけど、当たらない。

「わかった。じゃあ、これでほんとにさいごだからな?」
「うん」
 お父さんと指切りをする。
 きゅっと目を閉じて、「指輪が当たりますように」と念じて、くじをひく。……けど。
「はい。あめ玉ね」
 屋台のおじさんがにいっと笑った。
 また、はずれ。

 なんで指輪が当たらないの?

「うう……っ」

 涙があふれる。

「しょうがないでしょ。くじなんだから」
 お母さんがわたしの頭を撫でた。
 颯ちゃんちのおじさんとおばさんも、なぐさめてくれた。
 お父さんは指輪のかわりに、かわいいお面を買ってくれた。
 だけどわたしは泣き止まなくて、お祭りも、きれいな花火も、ぜんぜん楽しめなかった。

 つぎの日。
 幼稚園から帰ってきたあと。颯ちゃんが、うちにやってきた。

「颯ちゃん?」

 颯ちゃんは赤い顔をしていた。
 玄関先で、

「手、出して」
 って、いきなり言うから。

 言われた通りにしたら、わたしの手のひらに、なにかをぎゅっとにぎらせた。

 そっと開くと、赤い石のついた、指輪。

「それ、やるから。おかしのおまけ」

 びっくりして、目をぱちくりさせた。

 お菓子のおまけの、おもちゃの指輪。
 お祭りの屋台にあった指輪のほうがきらきらしていたけど。
 それでも。わたしはうれしくて、さっそく自分の指にはめたの。

「ありがとう。きれい!」

「……ん」

 颯ちゃんは小さくうなずくと、くるっときびすを返して、走っていってしまった。

 なんですぐ帰っちゃうの? 
 いつもみたいに、一緒に遊ばないのかな。

 ふしぎに思ったけど、指輪がきれいで、心がうきうきして。ごきげんで、お母さんに見せびらかした。

「あら? どうしたの? その指輪」
「颯ちゃんがくれたの! お菓子のおまけだって!」
「まあ。よかったね。きのう、指輪ほしいって大泣きしたもんね」

 あらためてそんなふうに言われたら、だだをこねていた自分のことが、すごくはずかしくなった。

 お母さんはくすっと笑った。

「由奈ってば。左手の薬指にはめてる」
「どうして? だめなの?」

 首をかしげると、お母さんは教えてくれた。

「左手の薬指にはめるのはね、結婚指輪よ。お母さんとお父さんもしてるでしょ」

 そして、自分の左手の指輪を見せてくれたんだ。
 きらりと光る、銀のプラチナリング。

 結婚、指輪……。

 颯ちゃんにもらった。

 ふわあっと体温があがって、顔が熱くなった。


「……由奈。由奈、だいじょうぶ?」

 声が聞こえて、目を開けた。

 お母さんが、心配そうにわたしの顔をのぞきこんでいる。

「すごい熱よ。明日、病院に行こうね」

「……あ」

 からだを起こそうとしけど、頭がくらっとして、ふたたび倒れこんでしまった。
 お母さんがわたしの額にアイスノンをのっけた。

「おかゆ、食べれる?」

 わたしは首を横に振った。食欲、ない。

「ゆっくり休みなさい」
 お母さんはそう告げると、部屋の明かりを消した。

 今、何時なんだろう。もう夜なのは間違いないけど、確かめるのもしんどい。

 颯ちゃんの傘に入れてもらって帰ったあと、わたしは熱を出して今まで眠り続けていたらしい。

 もう雨音は聞こえない。止んだみたいだ。

 小さい頃の、夢を見ていた。
 5歳ぐらいの頃だったかな。

 たしかに、颯ちゃん一家とうちで、一緒にお祭りに出かけて……。わたしがごねて泣きじゃくって台無しにしちゃった記憶がある。

 颯ちゃんが、わたしのためにおもちゃの指輪をくれたことも。

 結婚、指輪。……か。

 お母さんにそんなふうに言われた時、すごく恥ずかしかった。

 だけど、うちのお父さんとお母さんみたいに、颯ちゃんと一緒にずっと仲良くしていけたら楽しいだろうなって、そんなことも思ったなあ。

 あの指輪、どこに行ってしまったのかなあ。お気に入りで、すごく大事にしていたのに。大事だったはずなのに、どうしてなくしてしまったんだろう。

 颯ちゃんは、あの頃から、優しかった。

 なんだか胸が苦しくなって、風邪のせいかもしれないと、わたしは毛布を鼻まで上げた。

 ゆっくり、眠ろう。