若葉のにおいがまじった、やわらかい風が吹く。
高校に入学して二週間がたったけど、新しい制服にも、眼鏡をやめてつけ始めたコンタクトレンズにも、まだ慣れずにいる。
高校まで続く、銀杏並木の、長い坂道。
行きかう生徒たちが、みんなきらきらして見えて、わたしは歩を止めた。
「やっぱり短いよね……」
切りすぎた前髪が急に恥ずかしくなって、手で押さえる。
昨日行った美容院で、「絶対に短いほうが似合う」って熱弁されて、押しに弱いわたしは、正直ちょっぴり不安だったけど、結局おまかせしてしまったんだ。
カットが終わって鏡の中に映っていたわたしは、まゆがぎりぎり隠れるぐらいの長さでぱつんと切りそろえられた前髪に、肩に届く長さの、ストレートの黒髪で……。
これってまるで、日本人形じゃない?
もっとも、お人形さんみたいにわたしはきれいじゃないけど。
思わず、ため息がこぼれ出る。
いけない。わたしはぶんぶんと首を横に振った。
マイナス思考、禁止! わたしは変わるんだから!
くっ、と、顔を上げる。ふたたび、歩きはじめる。
ずんずんと、いつもより歩幅を大きく、気合を入れて。
「由奈」
突然、後ろから呼ばれた。
振り返ると、
「おはよ。ってか、なんでそんなに勇ましく歩いてんだよ。戦いにでも行く気?」
颯ちゃんが、一生懸命笑いをかみ殺していた。
た、戦いって……。
「笑わなくてもいいじゃん……」
ぎゅっと、颯ちゃんをにらむ。
すると颯ちゃんは、「おっ」と目を見開いた。
「前髪」
「…………!」
気づかれた!
とっさに、額に手をあてて髪をかくす。
「へ、へんだよね? 日本人形みたいだよね? っていうかむしろ、か、カッパ?」
恥ずかしくて顔が熱くなる。
颯ちゃんはそんなわたしを見て、くくっと笑った。
やっぱり! やっぱりおかしいんだ。どうしよう、学校行きたくない……。
下くちびるをかんで、うつむいた瞬間。
大きな手が、わたしの頭の上に乗った。
「へんじゃねーよ。似合ってる」
ぶっきらぼうな声が降ってくる。
すっごく意外な言葉が返ってきて、きょとんと颯ちゃんと見上げると、颯ちゃんはさっとわたしから目をそらした。
「急ぐぞ。遅刻する」
「う、うん」
まさか颯ちゃんにほめられるとは思ってなかったから、調子がくるってしまう。
わたしのすぐ横に並んで歩き始めた颯ちゃんは、背が高くて、手足も長くて、まるでモデルみたい。
さらりとした黒髪。かたちのいい眉。目はぱっちりと大きいけど、目じりはすっと上がっていて、シャープな印象。
颯ちゃん――三崎颯太くんは、家が隣同士で、小さい頃から一緒に遊んでいた、幼なじみ。
小学生のころは、わたしより背が低かったのに、中2ぐらいからぐんぐん背が伸び始めて、いつの間にか追い抜かれていた。
そのころから、女子にキャーキャー騒がれるようになって……。
幼なじみのあたしは、嫉妬を受けて嫌がらせされる……かと思いきや、
「葉山さんは地味すぎて三崎くんとはつりあわない」とか、「葉山さんならぜんぜん心配ない」とか言われて、ジェラシーの対象にすらならなかった。
そのかわり、颯ちゃんあての手紙をことずけられたり、告白のために颯ちゃんを呼び出すお手伝いをさせられたり。
「協力して!」と頼まれることが多かった。
強く押されると嫌と言えないわたしが、颯ちゃんとほかの女の子の仲を取り持とうとするたびに、颯ちゃんはむすっと眉を寄せて不機嫌な顔になった。
きっと、女の子に騒がれるのが苦手なんだろう。「恋愛とか興味ない」と言って、女の子の告白を断っていたらしいし。
「恋愛に興味ない」っていうのは、わたしも同じ。
興味どころか、颯ちゃん以外の男子が苦手だった。
昔、男子に、面と向かって嫌なことを言われたり、からかわれたりしたことがあるから。
だからわたしが男の子のことを好きになるなんて、ありえないって思ってた。
ありえないはずだった。
まさかわたしが、恋をするなんて。
地味であか抜けない自分を変えて、かわいくなりたい、太陽みたいに明るくなりたい、って、思うようになるなんて。
1年6組の教室は、がやがやと騒がしい。
背の高い颯ちゃんの後ろに隠れるようにして、教室に入る。
男子も女子もみんな、入学前からすでに仲のいいグループができあがっていたみたいで、それぞれ島をつくって盛り上がっている。
ただでさえ人見知りのはげしいわたしは、どのグループの輪の中にも入っていけない。
だから、幼なじみの颯ちゃんが同じクラスで、すごく心強かったんだ。
そして、もうひとり。
「おはよーっ。由奈っ」
ひまわりみたいな明るい笑顔をわたしに向けたのは、吉井絵里。
小学校からの親友だ。
急いで自分の席に荷物を置くと、わたしは絵里のもとに駆け寄った。
「おはよう、絵里」
絵里が屈託ない笑顔でわたしの名前を呼んでくれるのがうれしくて、わたしも自然と笑顔になる。
「前髪いいじゃん」
絵里は、にいっと笑った。
「やめてよ、恥ずかしい。失敗したんだからっ」
「失敗じゃないって。ね、三崎」
絵里が颯ちゃんにあいづちを求める。
「ん、そだな」
と、颯ちゃんはもごもごと口ごもった。
颯ちゃんの席は絵里の隣だから、しょっちゅう、絵里とわたしの会話に颯ちゃんが巻き込まれるかたちになる。
「相変わらずシャイだなあ、三崎は」
絵里は手を腰にやって、はあーあ、と大げさにため息をついてみせた。
くるくる表情の変わる、チャーミングな女の子。
びっくりするほど顔は小さい。
つややかなショートボブがボーイッシュな印象だけど、目がくりっとまるくて、まつ毛も長くて、かなり可愛い。
美少女なのにちっとも気取ったところがなくて、大きな口を開けてあははと笑う、さばさばしたところが魅力。
みんなに好かれる人気者の絵里が、わたしみたいな地味な子と仲良くしていることが不思議で。一度、聞いてみたことがある。
「どうして、わたしなんかと一緒にいてくれるの?」って。
そしたら絵里は、
「わたし“なんか”なんて言わないで、自分のこと。由奈は色白でお人形さんみたいに可愛いし、優しいし、まっすぐだし、まじめだし、人の悪口言わないし、いいとこいっぱいあるんだから!」
と、ムキになって反論してくれて。
更に、ちょっと頬を赤らめて、
「何よりあたしは、由奈のことが好きだから一緒にいるの。一緒にいると、楽しいの」
と、言ってくれたんだ。
それ以来、わたしは、絵里を「親友」と呼ぶことに引け目を感じなくなった。
わたしも、もちろん絵里が好き。一緒にいると楽しい。
ほんとうに、同じクラスになれてよかった。
入学式を迎えるまで、期待と不安をてんびんにかけると「不安」のほうに大きく傾いていたのに、颯ちゃんと絵里の名前をクラス名簿に発見したとき、ほっとして涙が出てきたほど。
きっと、すごく楽しい高校生活になる、って。
でも。でもでも。まさかそれ以上に、心がふわふわ舞い上がってしまうような出会いが、わたしに訪れるなんて……。
「おっはよー、颯太っ!」
この、声。心臓がどきんと跳ねた。
「離れろ智也。重い」
「もー、颯太ってば、素直じゃないんだからー」
颯ちゃんにいきなりバックハグしているのは、森下、智也、くん。
心の中で名前を呼ぶだけで、どきどきしてしまう。
森下くんはいたずらっぽく笑うと、颯ちゃんのわきの下をくすぐりはじめた。
「おわっ。やめろって、智也」
「やめねーよっ。颯太の唯一の弱点だもんなー」
無邪気にからから笑う森下くんの、茶色がかった髪が、さらりと揺れた。
少女漫画の中から飛び出してきたみたい……。
柴犬みたいにくるっと大きな瞳に、すっと通った鼻筋。細い顎。
まるで、王子様系アイドルだよ。
「朝イチでこちょこちょ攻撃とか、ガキくさ」
絵里が鼻で笑った。
アイドル系イケメンの森下くん相手でも、絵里の態度は変わらない。
クラスの、ほかの女子たちはみんな、颯ちゃんと森下くんのツーショットにくぎ付けなのに……。
そう、このふたり。クール系の颯ちゃんと、王子系の森下くんのコンビ。セットで人気があるみたい……なんだよね。
森下くんは、わたしたちとはちがう中学出身なんだけど、颯ちゃんとは同じ部活――陸上部で、あっと言う間に仲良くなったみたい。
「ガキで結構」
森下くんがこちょこちょ攻撃をやめて、ふわっと、前髪をかきあげた。にいっと、笑っている。
直視できなくて、わたしは目をそらした。
なぜか今4人で輪になって話してるけど。
わたし以外の3人は美形、わたしだけが凡人。しかも、前髪ぱっつんの日本人形だし……。
恥ずかしくなってうつむいていると、森下くんが、
「由奈ちゃん! どーしたの、前髪!」
と、声をあげた。
わ。わ。わ。ついにつっこまれた!
しかも名前呼び。昨日まで「葉山さん」って呼んでたのに。それだけでも心臓おかしくなりそうだったのに。
名前呼びの衝撃と、前髪のことで、プチパニック。
「すげー可愛いじゃん」
え。か。可愛い……?
顔が、火が付いたみたいに一瞬で熱くなった。
そんなこと、男子に言われたこと、ない。男子どころか、家族にも親戚にも言われたことないかも。
なのに、よりにもよって森下くんに……!
「可愛いよ。な? 颯太」
森下くんは颯ちゃんの肩に腕をのっけて、意味ありげに微笑んでいる。
「吉井といい、智也といい。なんで俺に同意を求めるんだよ」
颯ちゃんは小さくため息をついて、わたしをちらっと見て。
そして、
「吉井も智也も悪くないっつってんだから、うつむかずにちゃんと顔上げてろよ?」
と、言った。
颯ちゃん。まるで、保護者みたい。
予鈴が鳴った。絵里に小さく手を振ると、わたしはあわてて自分の席に戻った。
ドアが開いて先生が入ってくる。
朝のホームルームの間中、わたしの脳内には、森下くんのはなった「可愛いじゃん」がリフレインしていた。
勘違いしちゃ、だめ。森下くんは、みんなに優しいんだから。
でも。でも……。
颯ちゃんと仲のいい森下くんは、すぐに、わたしや絵里とも話すようになって。
誰にでも好かれる絵里はともかく、わたしは今まで、颯ちゃん以外の男子に、こんなにフレンドリーに話しかけられることなんてなかったから。
どきどきして、ふわふわして、やたらと森下くんの姿を目で追ってしまう。
これってまさか。恋、なのかな。ひとめぼれ、ってやつなのかな。
いったんそう思ってしまったら、もうだめ。
坂道をころころ転がり落ちて、「恋」っていう沼にとぷんとはまって、森下くんのことばかり考えるようになってしまった。
わたし……。森下くんに釣り合うように、少しでも可愛くなりたい。
明るくなりたい。
昼休みになっても胸のあたりが苦しくて、ため息ばかりついてしまう。
あっという間にクラスの中心人物になってしまった森下くんの明るい声が、教室中に響いているから。
というか……、もしかして、わたしの耳が彼の声を勝手に拾ってしまってるのかも。
いっこうにお弁当を食べはじめる気配のないわたしを見て、絵里は眉を寄せた。
「具合悪いの? 保健室行く?」
わたしはゆっくりと首を横に振った。
絵里に相談してみようか。でも、でも……。
ずっと一緒にいるわたしたちだけど、恋バナをしたことは、ほとんどない。
わたしは男子が怖かったし、絵里も、好きなひとがいる気配がまったくなかった。
絵里と仲のいい男子はいっぱいいるけど、どの子もあくまで「お友達」。特別じゃない、さばさばした関係だった。
「あのね、じつは、ね……」
だからなんだか恥ずかしくて、もごもごと口ごもってしまう。
「悩みでもあるの?」
「う、うん」
顔が熱い。絵里は根気よくわたしが本題に入るのを待ってくれている。
「その。わたし、好きなひとができた……」
消え入りそうにかぼそい声でつぶやいたのに、絵里の耳はちゃんとわたしのせりふを拾ってくれたみたいで。
大きな瞳を、更に大きく見開いて、おはしから卵焼きを取り落としてしまった。
「え、絵里っ。卵焼き」
「まじで?」
絵里はじっとわたしを見つめている。
わたしはうなずくしかなかった。
「だ、誰?」
森下くんの名前を呼ぶのが恥ずかしくて、わたしは、窓際の席で男子たちとふざけている森下くんのほうを、そっと指さした。
「うそ。森下智也……?」
絵里が声をひそめる。
わたしは小さくうなずいた。
「はーっ。まじか」
絵里はなにか考え込むように腕組みした。
「あたしはてっきり、三崎かと……」
「え?」
「あ。ううん、なんでもない。ちょっと意外だったから」
「そうかな」
森下くんのことを好きになる女子はいっぱいいるだろうし、わたしもきっとそのひとり。でも、やっぱり身のほど知らずだよね。
「わたし、どうしていいかわかんないの。こんな気持ち初めてだし、わたしみたいな地味な子が、あんなキラキラした男子を……」
自分で言ってて泣きそう。
「よしよし。そんな、泣きそうな顔するんじゃないよ? 大丈夫、由奈は可愛いんだから」
絵里はわたしの頭を撫でた。
「でも、あたしも恋愛方面てんで疎いからなー。どうすればいいのかなー」
絵里は首をひねってむずかしい顔をしている。
ごめん。悩ませてしまってごめんなさい。
しゅんと肩をすぼませて、もそもそとお弁当を食べていると、後ろから、ぽんと肩を叩かれた。
「由奈、これ集めてたよな? 応募シール」
颯ちゃん!
「あ。う、うん。ありがとう」
菓子パンについていた、わたしの好きなゆるキャラのトートバッグプレゼントの、応募シール。わたしが集めていることを知っていて、わざわざ渡しに来てくれたんだ。
うれしいんだけど、さっきまで恋バナしてたから、なんだか恥ずかしい。
「どした? 由奈、カオ赤いけど」
「えっ。そ、そんなことは」
あるかもしれない。
声がうわずってしまう。
恋バナしてただけじゃなく、わたしの好きなひとが、よりにもよって颯ちゃんの親友の森下くんだなんて。
颯ちゃんに知られたら、わたし、わたし……。
……ん?
颯ちゃんの親友の森下くん。親友、の……。
「おーい。どうしたの由奈? いきなりフリーズしちゃって」
絵里がわたしの目の前で手のひらをひらひらと動かした。
絵里。わたし、思いついちゃったよ。
「颯ちゃんに、協力を頼めばいいんだ……」
つぶやいたわたしに、颯ちゃんと絵里が、そろって首をかしげた。
「協力……?」
お弁当を食べ終えたあと、わたしたち3人は中庭に移動した。
中庭には、みずみずしい葉を茂らせた大きなクスノキが生えていて、その木陰にベンチが置かれている。
幸い、きょうは誰もいない。
右から、颯ちゃん、わたし、絵里の順に座る。
「で、協力してほしいことって、何?」
颯ちゃんはいきなりずばっと本題に切り込んだ。
「えっと。それは、その……」
うつむいて、ひざの上に置いた両手の指先をもぞもぞさせて、口ごもってしまう。
やっぱり恥ずかしい。
いつまでたっても切り出せないわたしを見かねて、絵里が口を開いた。
「好きなんだって。森下智也のこと」
「……は? それ、マジ?」
驚く颯ちゃん。
今にも顔から湯気を出しそうなわたしを見て、颯ちゃんは、
「……マジ、か」
と、つぶやくようにひとりごちた。
「協力っていうのは、つまり、その、……智也と、由奈のことを」
そこで颯ちゃんの声は途絶えた。
さわさわと、クスノキの梢が揺れる。
むせかえるような若葉のにおいに、なんだか胸が苦しくなってしまう。
小さい時からずっと一緒にいる颯ちゃんに、こんな相談をする日が来るなんて思わなかった。
だって、小学生のころまでは、わたしにいじわるをしたり、嫌なことを言ったりしてくる、「苦手な」男子のことを相談してたから。
当時、ひとり、すごくしつこくわたしのことをからかってくる子がいたんだ。
颯ちゃんが、その子からわたしをかばってくれたことも、強く言い返してくれたこともあった。
そんな小学校生活を送ってきたせいで、わたしがずっと男子に苦手意識があったこと、颯ちゃんが一番知っていると思う。
だから、今、すごくびっくりしているよね?
無理もないよ。わたし自身も驚いているぐらいだもん……。
長い、長い沈黙のあと。
すうっと、息を吸い込む音がした。
颯ちゃんだ。
わたしと絵里、ふたりして、颯ちゃんの顔を見つめる。
「……あいつ、いい奴だよ」
と、颯ちゃんは言った。