夕方5時を回った頃。わたしと颯ちゃんは、森下くんを置いて、先においとました。
絵里の家族が帰ってくる前に、ちょっとでもふたりきりの時間を作ってあげようと、気をきかせた……つもり。
「あ。雨、止んでるね」
マンションの外に出ると、もう雨は降っていなくて、空にはわずかに晴れ間がのぞいている。
「あっ、虹」
思わず、叫んだ。
住宅街の家並みの向こうに、細いきれいな虹がかかっているのを見つけたんだ。
「どこ?」
「ほら、あそこ」
「ほんとだ。すげー」
颯ちゃんは笑った。
子どもの頃みたいな、無邪気な笑顔。
胸がきゅっと苦しくなった。
「写真撮ろ」
颯ちゃんはスマホのカメラを空に向けた。
「その写真、あとでわたしに送って」
「オッケー。すごくきれいに撮れた。俺、才能あるかもしれない」
大通り沿いの歩道を、ふたり並んで歩く。
「あっちから帰ったほうが、ずっと虹見えるんじゃない?」
遠回りになるけど、大通りに出ずに住宅街の中を縫うように歩いて行けば、虹は何にも遮られずに見えるはず。
「そうだな」
ふたりで、脇道に入る。
「昔、虹の根っこはどこなんだって探しに行って、ふたりで迷子になったこと、あったよね? 小1か、2ぐらいの時」
「あったあった。しかも、学校帰りだった。めちゃくちゃ怒られたよな?」
「わたし、お母さんに泣かれちゃったもん。いつまでも帰ってこないから、何かあったかと思った、って」
「懐かしー」
颯ちゃんは笑った。
行きかう家々の、庭の木々が、雨粒をまとってきらきら光っている。
道の端っこに大きな水たまりができていて、小さい子が入ろうとしてママに怒られている。
穏やかな時間が流れている。
このまま、いつまでもふたりで歩いていたい。
「それにしても」
颯ちゃんはつぶやくと、くくっと、思い出し笑いをした。
「なに?」
「いや、吉井の話。俺、びっくりして。まさか由奈が、吉井をかばって啖呵切るとか」
「啖呵切ったとは言ってないでしょ! 話を大げさにしないでよっ」
ムキになってしまう。
どうして蒸し返すかなあ、それ。
「由奈すげーじゃん。自分が色々言われたらすぐ泣いてひきこもるのに」
ひきこもるとは何よ。
わたしはむすっとむくれて、
「あの時は、絵里を守りたい一心だったから」
と、ぶっきらぼうにつぶやいた。
「誰かのためなら、強くなれるんだな。由奈は」
颯ちゃんのまなざしが優しくて、わたしはどぎまぎしてしまう。
「でも、さ。もう、これ以上強がらなくてもいいんじゃないか?」
「え?」
何の話? わたしは思わず、立ち止まった。
「今日だって、無理して来ることはなかったんじゃねーのか?」
「無理してって……どういうこと?」
「平気なふりして、吉井と智也が一緒に居るところに来て、明るく振舞わなくてもいいってことだよ」
待って。
もしかして颯ちゃん……。
「わたしが、まだ森下くんのこと引きずってるって思ってる?」
「引きずってるだろ? 智也と話して赤くなったりしてるし。そのくせ、吉井たちのこと『ラブラブだよね』とか言って、俺に心配かけないようにしてる」
「赤くなってる? そんなことは」
ない、はず。
あ、でも、颯ちゃんとのことをけしかけられて、恥ずかしくなったことはある。
あるけど。
「由奈は。俺には、強がらないでとか、何でも話してとか言ってるけど。自分のほうこそ、俺に」
「違うの!」
わたしは颯ちゃんのせりふをさえぎった。
「違う。わたしはもう、森下くんのことは、なんとも思ってない。いいお友達、それだけ」
誤解されたままじゃ、嫌だ。
「わたしが。わたしが今、強くなりたいって思ってるのは……」
颯ちゃんの目を、まっすぐに見つめた。
「颯ちゃんの、ためだよ」
時が止まったみたいだった。
颯ちゃんもわたしを、まっすぐに見つめ返してきたから。
「俺のためって。どういうことだよ」
「だ、だって。颯ちゃんがわたしに、本当の気持ちを言ってくれないのは、わたしが弱くて頼りないからでしょ?」
「そんなこと、ねーよ」
「でも。わたしは、自分のこと、そう思ってるの。このままじゃ嫌だって」
「由奈」
「わたしも颯ちゃんのことを守りたい」
言ってしまったあとで、わたしははっとして口をつぐんだ。
守りたい、だなんて。
絶対、ナマイキな、って言われる。
だけど颯ちゃんは、そんなことは言わなかった。
代わりに、
「『本当の気持ち』って、そもそも、絶対、誰かに打ち明けなきゃなんないわけ?」
と、低く、つぶやくように言った。
「それは……」
「誰にも言いたくないことだって、あるだろ。由奈にだって、あるだろ。俺には言えないことのひとつやふたつ」
颯ちゃんの口調は優しかったけど、……また、シャッターを降ろしたんだ、って思った。
わたし、ばかだ。
口出しせずにそっとしておこう、と思っていたのに、できなかった。
もっと颯ちゃんに近づきたいのに、だけど颯ちゃんはさらっとかわして、何でもない顔して笑う。
もどかしくてたまらない。
「そうだね。颯ちゃんの言う通り。わたしにも、颯ちゃんに言えないこと、あるもん」
どきどきと、心臓が波打っている。
「わたしだって、本当の気持ち、隠してる」
「本当の……気持ち?」
こくりと、うなずいた。
わたし。わたし……、もう、止められない。
堰を切ったように、気持ちがあふれ出してくる。
「わたし……」
胸が苦しい。
伝えちゃだめ、だけど、
「颯ちゃんのことが好き」
言って、しまった。
うつむいたまま、わたしは、顔を上げることができない。
「大好き」
自分の声が、かすかに、震えている。
「だから、ほうっておけなかった。ごめんね」
夕方6時のチャイムが鳴っている。
颯ちゃんはかすれた声で、
「……嘘、だろ?」
と言った。
「嘘なんか、つくわけないじゃん」
むきになって顔をあげたら、颯ちゃんは、耳たぶまで赤くなっていた。
「由奈はまだ、智也のことを想ってるって」
ぶんぶんと、首を横に振る。
「わたし、気づいたの。わたしが本当に好きだったのは、颯ちゃんなんだって。ずっとずっと、颯ちゃんのことばかり考えてる」
雲の切れ間から広がった空は、淡い桃色に染まっている。
「ずっと、颯ちゃんのことばかり……」
想っている。想い続けている。
「告げるつもり、なかったのに。わたし……」
困らせたくなかった。
家のことで辛い思いをしている颯ちゃんの負担に、なりたくなかった。
優しい颯ちゃんは、わたしの告白を断るのに、心を痛めてしまうだろうから。
「こんなこと言ってごめんなさい」
目を伏せたわたしの右手を、颯ちゃんがそっと掴んで。
そのまま、引き寄せた。
「えっ……」
わたしのおでこが、颯ちゃんの胸に、こつんとぶつかる。
「好きだ、由奈」
わたしの手を握っている颯ちゃんの手が、燃えるように熱い。
そして、わたしの手も。
顔も。
熱くて……、
耳のうしろ、指の先まで、ぜんぶがとくとくと脈打っている。
「好きだ」
「颯ちゃん……」
信じられない。
「俺も、言わないつもりだった。失恋したばかりで弱っている由奈に、つけこむような真似をしたくなかった。なのに何度も、告げてしまいそうになって」
颯ちゃんの声が、耳元で、低く、切なげに響く。
「由奈が智也を好きだって知った時、自分の気持ちは閉じ込めるって決めてた」
いつか颯ちゃん、言ってた。
わたしが、「好きなひとの好きなひとが、自分の親友だったらどうする?」って聞いたとき。
「好きなひとを応援する。自分の気持ちは伝えない、伝わらなくてもいい」って。
好きなひとが幸せになることのほうが大事だ、って。
もしかして。
あの時、颯ちゃんは。
「強がって、かっこつけてばかりだったけど。本当は、俺にしろよって言いたかった。好きだって、言いたかった」
颯ちゃん。
本当に?
もしかして、……これは、夢?
「由奈」
「……うん」
「これからも、由奈の一番近くに居たい」
「うん。……わたしも」
颯ちゃんがそっとわたしを引き離す。
手はしっかりとつながれたまま、じっと、おたがいの目を見つめ合う。
颯ちゃんとわたし、同じ気持ちだったんだ。
なのにお互い、相手のことを想って……、気持ちを告げないつもりでいたなんて。
わたしたち、笑っちゃうぐらい、似た者同士なのかもしれない。
「見て見て、ママ! ラブラブ!」
いきなり、はしゃいだ子どもの声が飛んできた。
はっとしてふり返ると、幼稚園の制服を着た男の子が、わたしたちを指さして目をキラキラ輝かせている。
「こらっ。よしなさい」
男の子のママは小声でたしなめると、わたしたちのほうに、申し訳なさそうに頭を下げた。
よく考えたら、ここ、住宅街の真ん中の、道端だった。
こちらこそすみません……!
めちゃくちゃ恥ずかしくなって、ぱっと、お互いの手を離した。
「か、帰るか」
「う、うん」
ぎこちない会話をかわす。
颯ちゃんの顔は相変わらず真っ赤だし、きっとわたしも赤くなってるんだと思う。ずっと顔もからだも熱い。
「由奈。俺のことを心配してくれて、ありがとう」
「……ん」
ふわふわと雲の上を歩いているみたいで、足もとがおぼつかない。
「俺は、由奈が好きだからこそ、言えなかった、家のこと。由奈に余計な心配かけたくなくて」
「余計、なんかじゃないから」
そこは、わかってほしかった。
「わたしには何の解決能力もないけど、話を聞くことしかできないけど。分かち合いたいって思ってる。……楽しいことも、つらいことも」
「うん」
「でも、そっとしておいてほしい時は、そんなふうに言ってね。わたし、つい踏み込みすぎちゃうから」
「わかった」
颯ちゃんの笑顔は、穏やかで、やわらかかった。