『…おかけになった電話は現在使われておりません』
真子は空を見上げて大きく息を吸う。
冷たい、冬の空気だった。
乾燥した空気が身体に染み込んでゆく。
真子は冬を好んだ。
しかし、同時に彼女を苦しめるのも冬であった。
『ツーツーツー……』
早く、歩かなくてはならない。
会社に遅れてしまう。
歩く速度は上がる。
私は、今日も生きている。
春ちゃん、あなたはどこにいますか?
2017年、夏。
荻原真子は大学2年生の夏休みを迎えていた。
大学では、単位を落とさないギリギリの出席数に加え、授業も比較的楽に取得できるらしいと噂の授業ばかり履修していた。
真子は大学で文学部に所属していた。
高校3年生の部活を引退した後、1日13時間図書館に引きこもり死に物狂いで勉強し、偏差値60程の大学に合格した。
決して勉強が嫌いな訳では無い。むしろ学ぶことは好きであった。
しかし勉強を疎かにしてしまうほど魅力的なものを彼女は見つけてしまったのである。
それはアルバイトだった。
真子はちょうど1年前にドラッグストアでのアルバイトを始めていた。
高校が進学校だったこともあり、人生で初めてのバイトだった。
「橋本店長、すみません…」
「ん?」
「この商品についてお聞きしたいことがあって…」
店長には店長の仕事があり、質問するのが時間を奪ってしまっているようで申し訳なく感じ、真子はすごく控えめにコミュニケーションをとっていた。
しかし、それだけではなかった。
この店長には性格に難があった。
アメとムチと上手く使い分ける。
しかし割合的に、真子に対してはムチの方が圧倒的に多かった。
客観的に見れば「悪い男」である。
当時の彼女は自分が出来ないからきつく当たられると解釈していた。
さらに、たまに見せてくれる笑顔や優しさにときめくようになった。
それが原因で真子は店長に依存していった。