あづは泣いていた。その涙が母親を想って流した涙なら、あいつはあまりに報われない。とても悲しすぎる。
 あいつはいい奴すぎる。あんなにひどい怪我を負わされたのに、それでも母親が好きなんて。
 いや、いい奴だからこそ、母親を好きでいるよう教育せられたというべきか。

「奈々、あづが叫んでたけど、大丈夫かー」
 潤がダイニングのドアを開けていう。
 ドア越しでもあづの叫びが聞こえたのか。まあ相当でかかったからな。
「潤、恵美」
「今度は奈々が泣いてるし。え、あづは?」
 潤の後ろにいた恵美が俺に近づいてきて、何も言わずに頭を撫でる。
「母親のとこに行った」
「は? 引き止めろよ!! 今帰ったら絶対虐待されるだろ!」
「引き止めた! でもあいつは、母親が好きだから帰るって」
 涙が流れている目に手を当てて、声を荒げる。

 潤と恵美の顔が、あからさまに歪んだ。

「え、あんなことされても母親が好きって、もうそれ母親に洗脳されてるだけだろ」

 潤の言う通りだ。
 あいつは母親に洗脳されている。そのせいで『自分に悪いとこがあるから、母親に暴力を振るわれるんだ』って、そう想ってしまっている。いやもしかしたら、そう想いたいのかもしれない。虐待をする前は優しかった母親の姿を、覚えてしまっているから。でもあづがそう想っているなら、それは先生に洗脳されて、そう想うようになってしまっただけだ。
『出来損ないのお前が悪い』などと毎日のように言われて、本当にそうなんだと思い込むようになってしまっただけだ。俺も親戚や爽月さんにそう言われて、自分はダメなんだと思い込むようになって、自殺をしようとしたし。

 子供を洗脳するのは容易い。あづみたいに素直な子なら、なおさら。

 なんで。あづはすげえいいやつなのに。怜央と一緒に素行の悪いことをやったり、髪を染めたりはしているけれど、それはきっと虐待のストレスを発散するためのものだし、それにあいつは誰よりも素直で、優しいのに。俺はあづといると、心が浄化される気がする。それなのに……。

「潤、恵美、作戦変更だ。俺が、あづの母親を説得する。あづを愛してやってくれって、あいつに言う」

「言ったところでどうにかなる問題じゃねえぞ」

「わかってる! それでも言わなきゃ、伝えなきゃダメだ。でないとあづが可哀想だ。俺はアイツを可哀想だと想う未来なんて、絶対に作りたくない。それに俺は、あづの母親の本心が知りたい」

 たとえ虐待をしていたとしても、穂稀先生は俺の先生だから。

 穂稀先生は俺が自分を大切にしていないことに腹を立ててくれたし、それに何より、俺が手術を受けないのを許してくれたし。医者は人を救う仕事だ。それなのに俺が命を捨てるのを許可してくれたなんて、良い先生にも程があるだろう。それが、あの優しさが演技だとは思いたくない。こんなことを想うなんて、もしかしたら俺も、穂稀先生に洗脳されているのかもしれない。そうだったら、絶対に嫌だけれど。