「ごめん奈々、俺、帰る」
 下を向いて、俺は言った。

 俺の母親は勝手だ。それでも九ヶ月も家に入れてなかったから、家に帰っていいって言われて、少しだけ嬉しかった。最近風呂入る時漫画喫茶のシャワーばっか利用してたから、湯船つかりたいし。ま、奈々の家の湯船には浸からせてもらったけど。それに、湯船に浸かりたいだけなら別に潤の家でもいいのだけれど、やっぱり自分の家の方がリラックスできるし。

「あづ、本当に帰るのか?」
 奈々は不安げな様子でそういった。大方さっきのラインを気にしているんだろう。
「うん。母さんに帰ってきてって言われたから」
「でもあづは、先生といるのが嫌だったから、俺と一緒に潤のとこに来たんだろ?」
 嫌なんてありきたりな言葉ではとても現せない。俺にはわからない。母さんといるのが嫌なのか、そうじゃないのかどうかすらも。
 虐待をしてくる母さんといるのは嫌だ。それはつまり、虐待をしてこなければ、一緒にいるのが嫌ではないということで。俺は別に、決して母さんと一緒にいること自体が嫌なわけじゃないんだよ。でもじゃあ母さんと一緒にいたいのかと聞かれたら、決してすぐにうんとはいえないし。

「俺は、母さんが好きだ。だから帰る」
 小学生みたいな返答をしてしまった。でもそれが、今の俺のどうしようもない本音だった。

「あづはそうだとしても、あの先生はっ!!」
 今にも泣きそうなほど顔を歪めて、奈々は叫ぶ。
『先生はあづが嫌いだ』とでも言おうとしたのだろうか。
「……わかってるよ、そんなの!!」
 投げやりにそう言って、俺は走って玄関に行った。

「あづ、本当にわかってるのか? 今行ったら、自分から地獄に落ちに行くようなもんなんだぞ!」
 後を追ってきた奈々が、俺の包帯が巻かれてない方の腕を必死で掴む。
「人のことわかったみたいにいってんじゃねえよ! たかが母さんの患者のお前に、なにがわかるんだよっ!!」
 手を振り解いて、俺は叫んだ。
 はっとして、慌てて口をおさえる。とんでもないことを言ってしまった。これじゃあまるで、母さんの患者の奈々には俺の気持ちなんてわかるわけない!と言っているようなもんだ。
 謝ろうと思うのに、全然言葉が出てこない。

「……ごめん」
 叫んで乾いてしまった喉から、どうにかして謝罪の言葉を絞り出す。

 奈々の瞳から、涙が溢れていた。

 俺は靴を履いて、奈々から逃げるように潤の家を出た。