頭のてっぺんから血の気が引くのが、自分でもわかった。
身体がピシリと石みたいに固まって……そう、肉食の猛獣に目をつけられた動物って、こんな心境かもしれない。
怒られる。無言で怒られる。
だってあんなにこっちを睨んで………睨ん………?
あれ?と私は2、3度目を瞬いた。
睨んで、ない?
てっきり怒っているとばかり思っていたその目は、僅かに見開かれ、普段滅多にひらかない唇まで薄く開いたりしてる。私をみて驚いているような表情。
無表情と不機嫌以外の表情なんて、初めてみた…。
ついさっき有須さんと話している時でさえ、不機嫌顔から1ミリも変化することなんてなかったのに。眉間のシワの溝だけが毎秒に深くなっていっただけだったのに。
驚いていること自体は別に不自然なことじゃない。けれど、いつもどこか冷めた目をして、何を見てもつまらなさそうだった来栖くんが今、びっくりした顔をしてる。
新鮮。
不意打ちだったあまりに、怖さもその一瞬は忘れ、私はつい彼のその顔に見入ってしまう。
だけどそれもほん数秒だ。
すぐに変な汗がだらだらと出てくる。
き、気まずい……!!
こちらに向けられた視線に耐え切れなくなり、そろり…と不自然な動きで目を右へ逸らしてしまった。
「なんだ、来栖まで残ってたのか? 珍しいな。お前もひょっとして勉強か?」
「…チッ…」
あ、今舌打ち聞こえた…。
彼に視線を戻してみると、もう驚いた表情はそこにはない。いつもの顰め面が、鮫島先生を睨んでいる。
…なんだか、猫みたいだ。全身の毛が逆立って、相手を威嚇する凶暴な野生の猫。
あんなに強烈なガンを飛ばされても、慣れっこなのか鮫島先生は全く気にした様子がない。疲れ半分諦め半分で肩をすくめた。
「ま、そうじゃないのは百も承知だけどな。そうだ、ちょうど2人残っているなら都合がいい。ちょっとお前ら、雑務を頼んでいいか」
「ええっ!?」
私はぎょっとして先生を仰ぎ見る。
先生は教室に入り、脇に持っていたプリントの束を教卓の上にどんっと置いて言った。
「明日生徒に配るプリントなんだが、先生ちょっと落としてバラバラにしちゃってな。2種類あったのがごちゃごちゃになっちゃったんだよ。2人で手分けして分けなおしてくれると助かる」
「ふ、2人でって、来栖くんとですか?」
「ああ。あいつ以外いないだろ?」
「そんな、ちょっと待ってください…!」
この状況で来栖くんと二人きりの作業は私刑と同じだ!
気まずいを通り越して息が詰まって窒息死する!
「そそその、来栖くんの手を煩わすのは申し訳ないですし、できれば私1人でやるほうが…」
「なに言ってるんだ、こんな量だぞ? 2人のほうが効率いいじゃないか」
すみません、効率の問題じゃないです。私の精神の問題です。
「来栖、頼んだぞ。水樹と手分けして」
「……めんどくさ」
ぼそっと呟かれた声は相変わらずぶっきらぼうで、味もそっけもない。
でも、さっき有須さんに向けて発した声よりは、幾分もトゲは取れた声色だったことに私はなんとなく気づいた。
絶対了承などするわけがない、と思っていたのに、彼がしばしの沈黙の後、椅子を引いて立ち上がったことに私は驚いた。
静かに上履きの音が近づいて、教卓の前で止まり、私の隣にたつ。
こんなに近くで来栖くんを見たことがなくて、私はついまじまじと彼を見上げてしまう。
背、こんなに私と差があったんだ……。
頭一つ半くらいは来栖くんのほうが高い。
それに近くで見ると、本当に綺麗な顔。
金髪の隙間から見える伏目。睫毛は影を落としそうなほど長くて、閉じられた薄い唇が表情の冷たさを際立たせる。
中性的な印象さえうけるほど、大人っぽくて雰囲気に圧倒される。同い年じゃないみたい…。
じっと見つめていると、ふいに、伏せられていた彼の目がこちらを見た。
「…なに見てんだよ」
「!! い、いえ!」
私はあわてて顔を逸らした。
び、びっくりした! さすがに見すぎだったか…。
逃げるように鮫島先生の方を見ると、なぜか先生は目を丸くして私と来栖くんを見比べている。
「…珍しいな、来栖がそんな反応するなんて」
「え?」
鮫島先生は体育の先生らしくカラリと笑った。
「こいつ、誰が何話しても返事もしないくせに、今水樹が見てたからって自分から話しかけただろ? 珍しいこともあるもんだなってな」
「そ、そんなに珍しいことでしょうか…」
今のは私が見すぎてたから、怒っただけのような…。
言いつつ私は目線だけ横を向かせて、来栖くんの様子を探る。
彼は心底不愉快そうに眉を寄せている。
確かに、全く話さないことで有名な来栖くんが、自分から言葉を発するなんて珍しいかも。
「じゃ、悪いけどそれよろしくな。先生これから会議あるから、出来たらそっちの机の上に置いといてくれればいいよ。頼んだぞ」
「あっ先生……!」
やっぱりそれは決定なの!?
いま話逸れてたからどうにか逃げられるかと思ってたのに!
私の呼び止めも空しく、鮫島先生は慌ただしく教室を出ていってしまった。