その夜9時過ぎ。母は、沙織に父の帰宅を知らせた。

電気メーカーで部長をしている父は、いつも9時過ぎに帰る。
 
茶の間で、簡単な食事をしている父に、
 

「お父さん、私、結婚したい人がいるの。お父さんに紹介したいんだけど、会ってもらえる?」

沙織は、思い切って言う。
 
「どういう人なんだ。」

軽く目を上げて、沙織の顔を見た父。
 


「廣澤紀之さん。年は私より一つ上。お父様が廣澤工業の社長なの。彼も今は廣澤工業で働いているわ。」

沙織の言葉に、父は一瞬、卑屈な笑顔を見せた。そして
 
「お前、廣澤工業の社長の息子と結婚するっていうのか。」と言う。

沙織は、真っ直ぐ父を見て
 
「そうよ。」と大きく頷く。
 
「話しにならないな。」と沙織から目を逸らす父に、
 


「私、もう大人だから。お父さんの許しがなくても、結婚できるし。ただ、祝福されてお嫁に行きたいと思ったから。でも、会いもしないで、そんな風に言うならもういいわ。」

沙織は激しく言い返す。

今まで、一度も逆らったことがなかった父に。
 

「そんな家に嫁に行って、幸せになれると思うのか。全く違う環境で、苦労することが目に見えているのに、喜んで嫁に出す親が、どこにいる。」

沙織の言葉に刺激されて、父も強く言う。
 
「どんな人と結婚しても、苦労なんてあるわ。それが結婚でしょう。どうせ苦労するなら、紀之さんと苦労したいの。」

沙織は、父を睨むように見て言う。
 

「それが甘いって言っているんだ。」

父と沙織の口論を、母は悲しそうに見ている。
 


「私、人並に、家族に祝福されて、温かく見送られて、お嫁に行きたいって思ったけれど。無理だわ。」

沙織の目から涙が溢れる。

父に絶望して。何も言ってくれない母に失望して。
 


「お父さん、とにかく一度、相手の人に会いましょう。お父さんだって、会社でたくさんの若い人、見ているんだから。その人を見れば、さおちゃんを大事にしてくれるかどうか、わかるでしょう。」

母が口をはさむ。初めて、沙織に助け舟を出してくれる。

沙織は、泣きじゃくって母を見る。
 

「さおちゃんが、こんなに言うことって初めてよ、お父さん。」

沙織は、顔を覆って、自分の部屋に駆け上がった。