沙織が紀之と付き合っていることは、銀行の人は知らない。
隠す必要はないけれど、噂好きの女子行員が多いから。
いらない詮索や中傷をされたくなかったから。
だから、さっき“廣澤工業の社長”と言われたとき、はっとした。
紀之と結ばれた日から、間もなく一年になる。
今も銀行にくる紀之。
沙織の窓口で処理する時は、思わせぶりな笑顔を、そっと投げかけてくれる。
それだけで幸せだったから。
いつか紀之が、お金持ちのお嬢様と結婚する日まで。
その日が来たら、感謝して別れようと決めていたから。
だから、誰にも話していない。
沙織が紀之と、付き合っていることは。
紀之のご両親も、付き合っている人がいることには、気付いていると言っていた。
「俺達、毎週、出かけているからね。」と照れた笑顔で言う紀之。
「ご両親に叱られない?」
心配して沙織が聞くと、紀之は声を上げて笑う。
「それは、沙織の方でしょう。俺は男だから。何も言われないよ。」と言って。
でも、紀之は、大企業の御曹司だから。
悪い女性が近付いたらと、心配なはず。
「そろそろ。」
ふっと言う紀之に、沙織は、問いかける目をした。
紀之は慌てて、
「ううん。なんでもない。」と言った。
後に続く言葉を考えて、不安になる沙織。
“そろそろ終わりにしようか”と言われたら。
でも紀之の目は、いつも以上に明るくて、温かかったから。
信じよう。もう少し一緒にいられることを。
そんな風に思っていたときに、お父様に出会った。