それ以来紀之は、度々銀行を訪れた。
沙織が対応しない時も、沙織が顔を上げたタイミングに、黙礼して帰る。
沙織も紀之を見送るときは、普通の笑顔になってしまう。
紀之の親しみやすい笑顔のせいで。
「最近来る、廣澤工業の人、御曹司らしいよ。」
入行して3年目の沙織は、この春から高層ビルの中の支店に異動になった。
「御曹司って?」
一緒に昼食を食べていた先輩に、沙織は聞き返す。
「社長の息子だって。今年から経理をやっているらしいよ。」
どこでそんな話しを聞くのか。
女子行員たちは皆、恐ろしく耳が早い。
「へえ。そうなんですか。謙虚な感じの人ですよね。」
あの男性が社長の息子とは。意外に思って聞き返す。
「廣澤工業の社長も、謙虚な人だもの。最近、業績も伸びているしね。」
同じビルの中の企業だから、内情にも詳しい。
噂好きな女子行員に苦笑する沙織。
あの爽やかな男性が、社長の息子だったなんて。少しでも好感を持った自分を笑う。
何かを期待していたわけではない。
ちょっと感じの良い人だと思っただけ。
今の彼に不満があったから。
そんな風に、心で言い訳をしている自分に少し驚いて、沙織は午後の仕事に戻る。