「すみません。この口座から、こっちへ移動したいんですけど。用紙って、これで大丈夫ですか。」
沙織が座っている窓口で、若い男性が聞く。
いつもなら、顔も上げずに
「番号札を取って、お待ちください。」と言うのに。
ほんの気まぐれで、男性と目を合わせてしまった。
たまたま、直前の処理が終わったタイミングだったから。
男性の声が、すまなそうな困ったトーンだったから。
「申し訳ありません。こちらもご記入いただけますか。」
貼り付けたような業務用の笑顔で、別の用紙を差し出す沙織に
「ありがとうございます。」と言う。
お礼の言葉に 感謝の心を感じて 沙織は男性を見る。
20代半ば、長身で爽やかなイケメン。
見送る沙織に黙礼して、記入台に移動した。
なんでもない一幕。よくある交流。
忙しい合間の、温かい風のような時間だった。
そのまま 忘れてしまうはずの 当たり前の出来事のはずだった。
その後、番号札を取って 順番の窓口で処理をした男性は、帰り際 沙織に頭を下げた。
たまたま お客さんを見送って、顔を上げていたから。
沙織も柔らかく微笑む。
何でもない一瞬だった。