「麻有ちゃん “伝説の握手” の話し、教えてあげるから。泣かないでね。」
お兄様は、笑いながら言った。
私は涙を止めて 顔を上げる。
「智之、すごいんだよ。この間、工場に挨拶に行って 偏屈で有名な開発課の課長と握手をしたって。伝説を作ったんだよ、もう。」
工場に挨拶に行った事や 変わり者の課長の事は 智くんから聞いていた。
でも “伝説の握手” の事は、話してくれなかった。
多分自慢になるから。
「やめてよ。大げさだな。」智くんも笑う。
「えー、聞きたいわ。ねえ、麻有ちゃん。」
お姉様が言い みんなが頷く。
「うちの開発課長って、技術は確かなんだけど コミュニケーションができなくて みんなが煙たがっているのね。悪い人じゃないんだけど、学者肌って言うのかな。マイペースだし、回りが見えなくて。」
お兄様は、お父様の方を見る。お父様も頷く。
「智之が、工場に挨拶に行って 研究室も覗いた訳よ。それで その偏屈課長に色々質問したらしいんだ。その質問が 課長の自慢の部分とか 認めて欲しい箇所に ピンポイントで。その課長 “うちの商品の特性や、足りない所を、きちんと理解していないと、わからない事を聞かれた” って喜んで。“こういう人に、商品を売ってほしい” って言って、智之と握手したんだって。」
お兄様は、嬉しそうに言う。
智くんを見ると 照れたように でも少し得意気に 微笑んでくれた。
「まだ正式に入社もしていないし、前の仕事も 全然違う分野なのに。きちんと、うちの商品を勉強しているから。みんな驚いたよね。それで、伝説になった訳。」
「たまたまだよ。期待しないでよね。後で失望するから。」
智くんは、謙遜したけれど でも嬉しそうだった。
私も、とても嬉しかった。
努力している智くんが。
そして、それが認められた事が。
「智くんは、白鳥なんです。優雅に泳いでいるように見せて 水面下で 必死に水を掻いているんです。」私は言う。
少し照れて。智くんは、優しい笑顔で 私を見ていた。
「素敵。麻有ちゃんは、芸術的な比喩をするわ。アダムとイブのことも。」
お姉様に言われ、私は、顔を赤くする。
「そうなんだよ。綺麗な表現をするから、実物が格上されるよね。」
お兄様は 笑いながら 私を見る。
「それ、褒めてないですよね。」
私は ぽつんと言う。笑い声が響く。
幸せな夜。
私は、穏やかな顔になるはず。
こんなに愛に包まれているから。
そして、子供達も健全に育つはず。
私が幸せだから。
隣に座る智くんと そっと肩が触れる。
そのぬくもりの心地よさに 甘えが溢れ出し 智くんに抱かれたいと思う。
智くんを見上げると、熱い瞳を返してくれる。
『後でね。いっぱい抱いてあげるね。』
心に届いた声に 私は、さらに強く肩を触れ合わせる。
心を満たす甘い雨に濡れながら。