靴を履き替えて教室へ行くと、慌てて近寄って来る姿が二つあった。『しお』と呼ぶその二人は、汐里の友人たちだ。

「ギリギリだけど、珍しいね、しおが遅いの。風邪ひいちゃったのかと思ったよ」

 初めに声を出したのは、鮮やかなブロンドの髪を低めの位置で束ねている女子。やや高めの声だが、頭に響かない心地の良い声音だ。
 随分と心配そうな表情をしているが、琢磨にはそれが、そんなに驚くことなのかと少し疑問ではあった。

「小中皆勤だったもんね。初めて休むかと思った」

 後から声を出したのは残りの一人、ややハスキーな声にショートが似合う、長身の女子。

「ちょっと寝坊。昨夜(ゆうべ)はちょっと忙しくてさ」

「そうなんだ。何でも良いけど、無理はダメだからね」

「分かってるってば。ありがと、知音(ともね)美希(みき)も」

 礼を言いながら、汐里は長身女子とブロンド女子に、順に視線を向けていく。
 話を聞いている限りだと、長身ショートの方が知音で、セミロングブロンドの方が美希らしかった。今後のことを考えて、間違えぬようインプットしておく琢磨。
 それから、もうすぐにホームルームが始まるということで、すぐに散っていく二人。

 せっかく間に合ったのに荷物を持ったままで怒られるのもあれだからと、汐里もさっさと席についた。
 それと同時に担任が入って来たことで危なかったと安堵し、本日の過程がスタート。とりあえずのホームルーム、午前の授業をこなしていく。
数学、物理と経て迎えた三限目、これといって語るべくはない普通の国語の授業。
の、筈だったのだが。

「じゃあ次、陸上(くがうえ)

「はい」

 国語担当の言葉に返事をしたのは汐里だ。
 陸上とはまた珍しい苗字だ。確か日本で五十人いない苗字に入っていたような。体力もないのに陸上とはまた面白い。と、琢磨はある種の運命的な出会いを感じていたのだが、事はその時に起こった。

 教科書を持って椅子を引き、立ち上がろうとした時だ。
 不意に一瞬間だけ意識が飛んでふらつき横に倒れ、汐里はすんでの所で両手をついた。

「しお…!」

 叫んだのは知音だった。
 これまで、小中と一緒だった知音だったが、受験の際などでもどれだけ無理が祟って寝不足になっても、病に伏したことなど一度もなかった汐里だったものだから、思わず立ち上がって声を上げてしまっていたのだ。

「どうした、陸上…?」

 それは本当に意外というか予想外だったようで、担当教師も驚き、目を見開いて近寄って来た。
 しかしこの汐里の状態は、二人や周りが心配するようなことではなく、

『かんっぜんに油断してたわ』

 まさか起こるとは思っていなかった、迷惑にも程があるタイミングでの入れ替わりだった。
 内心で悪いと謝っておいて、琢磨は直ぐに立ち上がる。

「大丈夫、ちょっと足がもつれて」

「そ、そうか、ならいいんだが……いや。このクラスの保健委員は誰だ?」

「え、ちょ……!」

 咄嗟に伸ばした琢磨の手は、教師が振り返って体勢を変えたことで、空を掴んでしまう。しかしせっかくの皆勤継続チャンスを棒に振る訳にはいかないと、それでも噛り付いてもう一歩踏み出すのだが。

 それより僅かに早く、美希が手を挙げて駆け寄って来た。

「保健委員、私です…!」

「山田か。保健室まで頼めるか?」

「はい!」

「ちょ、誰も行くとは――」

「ダメ、どうせまた勉強とか何かのし過ぎなんでしょ。せっかくのチャンスだったけど、一度大人しく休んでくれなきゃ心配になっちゃうよ」

 大の仲良しにそこまで言われてしまっては、流石の汐里にも断ることは出来なかった。

『ごめん、言う通りにしてくれていいわ』

(待て待て、何ともないんだぞ? せっかくの皆勤なんだろ?)

 あんなことを望まなければ、と自分を責め立てる琢磨の必死の訴えに、汐里は首を横に振るような動作の感覚で以って『いいえ』と置いた。

『貴方のお陰で、私はまだ生きていられるの。それは違うわ。それに――』

(何だよ?)

『ううん。美希ってね、すごく心配性なのよ、昔から。だから、そんなあの子の厚意を無駄には出来ないわ』

(お前……)

 勉強に真面目な大人しい眼鏡女子イコール、血も涙もない冷酷な感情の持ち主――とまではいかなくともそれに近い偏見を抱いていた琢磨は、そんな汐里の言葉に、己の考えは改めないといけないなと、汐里の判断を呑んだ。

(えっと……この子は確か?)

『美希。あだ名もあるけど、私は呼んでない』

(分かった。悪いな)

『別に』

 素っ気なく返される言葉とは裏腹に、その中身は美希への優しさで満ちていた。
 偏見こそあれ、流石にそれを無碍に出来る程、琢磨も歪んではいなかった。

「ありがと、美希。お――私、一回も行ったことないから、保健室の場所、実は知らなくて」

「お安い御用だよ。歩ける? 肩、貸そうか?」

「ううん、それは大丈夫。ありがと」

 言葉限りではない。断ったのは、生前、同年代の女子との触れ合いがほぼ全くと言っていい程になかった琢磨にとって、それは少し刺激が強すぎるだろうと思ってしまったからだ。我ながらチキンだと思う琢磨だったが、リスクヘッジをするに越したことはないと言い聞かせた。

 教室を出ると、当然のことながら辺りは静まり返っていた。吹き抜ける風の音に、木々の擦れる音。それ以外、他の教室の先生の声も届かず、何も聞こえない。
 まるで、世界に一人――基、二人だけ取り残されたかのように。
 汐里のいた三年教室棟の二階から下へ降り、渡り廊下を通って中央棟へ。変わった構造をしているこの高校は、職員室や保健室、その他美術等の特別室を備えた中央棟、一、二年の教室がある西棟、三年の教室がある東棟と別れている。

「遠いけど、もうちょっとだから」

 しばらく続いた静寂を切り裂くようにして、美希が覗き込んできて言った。
 その表情にはまだ、聊かの不安は混じっている。

「無理はしない。でも、本当に大丈夫だから。心配しないで」

「うん。しおがそう言うのならそうなんだろうけど……やっぱり、心配」

「もう、ちゃんと歩けてるだ――でしょ?」

「強がりかも知れないから」

「えー。そんなの、私一人で動けないじゃん」

「ふふふ。しおにはそれくらいの規制がないと、絶対にいつか痛い目みるからね」

「一度見とかないと対策も出来ないと思うけどなー」

「あー酷い。せっかく送ってあげてるのに」

「ぷっ……あはは」

 あまりに可笑しくて、つい吹き出してしまった。
 会話の内容に対してではない。会話が出来ていることについてだ。
 詰まりもしたしまだ慣れてはいないけれど、自然な流れで言葉が出て来ることに琢磨は驚いていた。それがあまりに馴染んでいたものだから、つい我慢が出来なくなったのだ。

 そんなやり取りをしている内に、一行は保健室前まで辿り着いていた。