視界はそのまま変わらないのだけれど、意識は今さっきまで鏡に映っていた自分を俯瞰で眺めているような感覚がし、身体は動かせない。いや自由が効かないといった表現の方が正しい。
身体をくねらせ、続けて脱ごうとするパジャマは、しかし手が勝手に上へ上へと押し上げて進まない。
と、不意に大きな溜息が漏れ、
「まったく。気持ちの良い寝つきの最中に、急に変な夢が割り込んで来たかと思うと身体乗っ取られるし――あれは貴方の記憶だってことでいいの?」
急にそんなことを言い出した。
『記憶……待て、記憶が残ってるのか?』
「わわっと…! 気持ち悪いなぁこの感覚。頭の中で響いてるみたい」
『答えてくれ…!』
「聞こえてるよ。えっと――これって、移ってるのかな。とっても気持ちが悪いんだけど、それがもう私の一部みたいになってるって言うか。多重人格者にでもなった感じ」
『内容は…! あぁいや、それ以前にどうして君はそんなに冷静なんだ?』
「言ったでしょ、多重人格者っぽいって。あれが貴方の記憶なら、どうしてこうなっちゃってるのか、理解はしてるつもりだよ」
元の汐里は、そう軽く言い放つ。
『そんなに聞き分けの良い人間がいてたまるか』
「お互い様じゃないかな、それ。貴方だって、近い未来で死んじゃう私を助ける為に、今こんな状態になってるわけだから。それに私、細かいことは気にしない性質なの」
『馬鹿言え、それは色々と不便だろう』
「不便?」
『こうなってしまった以上、お互いに気まずいだろう、風呂とかトイレとか――』
「…………!」
そこまで言い切ってしまった刹那、頭が沸騰するように熱くなった。
それは、元の汐里が拳を強く握り、言い放った琢磨の人格を袋叩きにせんと募らせている怒りそのものの感覚だった。しかし本人の言う通り、こちらも同じく冷静な汐里は、実態自分の中にいて触れられないと分かると、どこに発散したものか分からない怒りは、何とか心の中にしまった。
そうして次の言葉は交わさぬまま、汐里は着替えを再開した。
まだずっと残っているイライラに琢磨は口を出せないでいたが、そこに同時に羞恥も覚えていることまで感じ取ると、どうやら感覚や感情までリンクしてしまっているようだと冷静な分析が出来た。
「……………………」
ただ無言で、無心で、着替えは続く。
作業途中に伝わる、男のままでは体験しえなかった胸や細い腰の感触、制服の着方を、琢磨は何とか考えないようにしていた。
最後に眼鏡をかけてバッグを持ち、準備は完了。
それから朝食も摂らずに家を出る頃、時刻は既に八時を過ぎていた。
公立高校の始業時刻に間に合わせるには急がないといけないけれど――琢磨の記憶は汐里に影響しているのに、どうしてその逆はないのだろうか。
こんなことは初体験故にそれが相互作用するものなのかは分からないけれど、どこか聊かの不安が募る。
全速力で走る汐里。しかし早くも、五分程走ったところで息が上がり始めていた。
そうして少しずつ失速していき、ついぞ信号で足止めを食ってしまった。
息を整えるには良いのだが、しかし今は休んでいる時間も惜しい。かといってこのペースでは到底間に合いそうにない。
諦めかけて溜息を吐いた時、
「っと、今度は俺か」
また、入れ替わりが起きた。
「アトランダムなのか、気持ち悪い」
『あ、貴方のこと否定はしなかったけどさ、出来れば早く出ていって欲しいものよね、はぁ』
「こちらから願いたいよ。知っての通り、僕は死ぬ予定だったんだから」
他者の延命ということに関して、琢磨はそれを臓器提供のようにいくものだとばかり思っていた。だから願った。しかし、此度のこの状況は全くの予想外で、想定外で、願ってはいなかったことなのだ。
「それよりも君、この程度で根を上げてたの?」
『この程度って――言ってくれるわね。文芸部の私には全力ダッシュなんて数分しかもたないわよ』
「ふぅん、なるほど。なら丁度良かった」
『何がよ――って、ちょちょ、待っ!』
信号が青に変わるなり、琢磨は入れ替わったその身体で走り出した。
ゆっくり、少しずつ過ぎていく街並みとは打って変わって、目まぐるしく変わる景色。その速度は実に、汐里の二倍以上だった。
どんどんと変わっていく風景に、汐里はしばし心を奪われる。これほどまでに速い体験は、車やバスの中から外を眺めることでしか体験したことがなかったからだ。よもや人の身で風を切って走る日が来ようとは、露とも思っていなかった。
『凄い、速い――って、ちょっと待って! スカート、スカート捲れてるから!』
「気にするなそれぐらい。欠課食らうのとどっちが――」
『急いでたから見せパン履いてないの…!』
「ちょ、馬鹿…! それを早く言え…!」
慌てて裾を抑えながらペースダウン。
それでも、全力で走る汐里よりは速かった。
「これくらいなら――うん、大丈夫そうだ」
『ギリギリよ。まぁいいけど』
ご納得いただけたようで何より。琢磨はそのペースを保ったまま、ノンストップで学校を目指して走った。
商店街を抜け、坂道を上り、少し進むと大きな校舎が目に入ってくる。
そこまで来て急に、もう少しだけペースを落としてくれと汐里から注文が入った。
『間に合いそうだから、何個かルールを決めましょう』
「ルール?」
『うん。よく分かんないけどこういうことになっちゃったのは仕方がないこととして、私たち二人が共存するためのルール』
そうして突然また入れ替わり、転びかけて踏みとどまる汐里。
「意外といいタイミングよね、さっきから。このシステム、きっかけでも分かれば便利なのに」
『誰が遅刻対策要員か』
「言ってないでしょ。トイレとかお風呂とかの時に――って、そう言えば朝見てたでしょ、胸とかお尻とか何かとか!」
『それは不可抗力ってもんだ。君が目を瞑らなければ、俺がいくら見たくなくても入ってきちまうんだから。それに何かって何だよ』
「目を瞑って着替えなんて……はぁ、まぁいいわ。とりあえずルールよ」
深い溜息一つ。栞は「まず一つ」と人差し指を立てた。
ルールその一、一人称は『私』に統一すること。間違っても、自分のことを『俺』や『あたし』とは言わない。
『面倒だから俺っ子になってくれよ』
「十七年間の人の人生を何だと思ってるのよ」
バッサリと切り捨てる汐里。
努力はする、という琢磨の言葉に、初めは少し納得いっていない様子だったが、直ぐにまた溜息を吐くと、なし崩し的に了解された。
ルールその二、お手洗いや風呂は極力本人の時に済ませる。それはつまり、出来るだけ琢磨は我慢しろということだ。
いずれにせよ俺にも伝わるぞ、とデリカシーのない発言をする琢磨に「モラルの話よ!」と抗議するや、琢磨は「どうせもう死んでるよ」と流した。それについては冗談で返すことが出来ず、汐里は少しの沈黙を生んでしまった。
首を傾げているであろう様子の琢磨にハッと気づいて、汐里は、
「まぁいいわ、こんなところよ」と続けた。
その沈黙の意味を図らずも理解していた琢磨だったから、敢えてそれ以上は触れないようにした。
「いい、絶対よ」
『気を付けるよ、分かった。分かったから、殺意を募らせるのはよしてくれ』
「あら伝わっていたのね。重ね重ね便利。じゃあ、破ったら――ね?」
今日一の笑顔はとても眩しかった。
身体をくねらせ、続けて脱ごうとするパジャマは、しかし手が勝手に上へ上へと押し上げて進まない。
と、不意に大きな溜息が漏れ、
「まったく。気持ちの良い寝つきの最中に、急に変な夢が割り込んで来たかと思うと身体乗っ取られるし――あれは貴方の記憶だってことでいいの?」
急にそんなことを言い出した。
『記憶……待て、記憶が残ってるのか?』
「わわっと…! 気持ち悪いなぁこの感覚。頭の中で響いてるみたい」
『答えてくれ…!』
「聞こえてるよ。えっと――これって、移ってるのかな。とっても気持ちが悪いんだけど、それがもう私の一部みたいになってるって言うか。多重人格者にでもなった感じ」
『内容は…! あぁいや、それ以前にどうして君はそんなに冷静なんだ?』
「言ったでしょ、多重人格者っぽいって。あれが貴方の記憶なら、どうしてこうなっちゃってるのか、理解はしてるつもりだよ」
元の汐里は、そう軽く言い放つ。
『そんなに聞き分けの良い人間がいてたまるか』
「お互い様じゃないかな、それ。貴方だって、近い未来で死んじゃう私を助ける為に、今こんな状態になってるわけだから。それに私、細かいことは気にしない性質なの」
『馬鹿言え、それは色々と不便だろう』
「不便?」
『こうなってしまった以上、お互いに気まずいだろう、風呂とかトイレとか――』
「…………!」
そこまで言い切ってしまった刹那、頭が沸騰するように熱くなった。
それは、元の汐里が拳を強く握り、言い放った琢磨の人格を袋叩きにせんと募らせている怒りそのものの感覚だった。しかし本人の言う通り、こちらも同じく冷静な汐里は、実態自分の中にいて触れられないと分かると、どこに発散したものか分からない怒りは、何とか心の中にしまった。
そうして次の言葉は交わさぬまま、汐里は着替えを再開した。
まだずっと残っているイライラに琢磨は口を出せないでいたが、そこに同時に羞恥も覚えていることまで感じ取ると、どうやら感覚や感情までリンクしてしまっているようだと冷静な分析が出来た。
「……………………」
ただ無言で、無心で、着替えは続く。
作業途中に伝わる、男のままでは体験しえなかった胸や細い腰の感触、制服の着方を、琢磨は何とか考えないようにしていた。
最後に眼鏡をかけてバッグを持ち、準備は完了。
それから朝食も摂らずに家を出る頃、時刻は既に八時を過ぎていた。
公立高校の始業時刻に間に合わせるには急がないといけないけれど――琢磨の記憶は汐里に影響しているのに、どうしてその逆はないのだろうか。
こんなことは初体験故にそれが相互作用するものなのかは分からないけれど、どこか聊かの不安が募る。
全速力で走る汐里。しかし早くも、五分程走ったところで息が上がり始めていた。
そうして少しずつ失速していき、ついぞ信号で足止めを食ってしまった。
息を整えるには良いのだが、しかし今は休んでいる時間も惜しい。かといってこのペースでは到底間に合いそうにない。
諦めかけて溜息を吐いた時、
「っと、今度は俺か」
また、入れ替わりが起きた。
「アトランダムなのか、気持ち悪い」
『あ、貴方のこと否定はしなかったけどさ、出来れば早く出ていって欲しいものよね、はぁ』
「こちらから願いたいよ。知っての通り、僕は死ぬ予定だったんだから」
他者の延命ということに関して、琢磨はそれを臓器提供のようにいくものだとばかり思っていた。だから願った。しかし、此度のこの状況は全くの予想外で、想定外で、願ってはいなかったことなのだ。
「それよりも君、この程度で根を上げてたの?」
『この程度って――言ってくれるわね。文芸部の私には全力ダッシュなんて数分しかもたないわよ』
「ふぅん、なるほど。なら丁度良かった」
『何がよ――って、ちょちょ、待っ!』
信号が青に変わるなり、琢磨は入れ替わったその身体で走り出した。
ゆっくり、少しずつ過ぎていく街並みとは打って変わって、目まぐるしく変わる景色。その速度は実に、汐里の二倍以上だった。
どんどんと変わっていく風景に、汐里はしばし心を奪われる。これほどまでに速い体験は、車やバスの中から外を眺めることでしか体験したことがなかったからだ。よもや人の身で風を切って走る日が来ようとは、露とも思っていなかった。
『凄い、速い――って、ちょっと待って! スカート、スカート捲れてるから!』
「気にするなそれぐらい。欠課食らうのとどっちが――」
『急いでたから見せパン履いてないの…!』
「ちょ、馬鹿…! それを早く言え…!」
慌てて裾を抑えながらペースダウン。
それでも、全力で走る汐里よりは速かった。
「これくらいなら――うん、大丈夫そうだ」
『ギリギリよ。まぁいいけど』
ご納得いただけたようで何より。琢磨はそのペースを保ったまま、ノンストップで学校を目指して走った。
商店街を抜け、坂道を上り、少し進むと大きな校舎が目に入ってくる。
そこまで来て急に、もう少しだけペースを落としてくれと汐里から注文が入った。
『間に合いそうだから、何個かルールを決めましょう』
「ルール?」
『うん。よく分かんないけどこういうことになっちゃったのは仕方がないこととして、私たち二人が共存するためのルール』
そうして突然また入れ替わり、転びかけて踏みとどまる汐里。
「意外といいタイミングよね、さっきから。このシステム、きっかけでも分かれば便利なのに」
『誰が遅刻対策要員か』
「言ってないでしょ。トイレとかお風呂とかの時に――って、そう言えば朝見てたでしょ、胸とかお尻とか何かとか!」
『それは不可抗力ってもんだ。君が目を瞑らなければ、俺がいくら見たくなくても入ってきちまうんだから。それに何かって何だよ』
「目を瞑って着替えなんて……はぁ、まぁいいわ。とりあえずルールよ」
深い溜息一つ。栞は「まず一つ」と人差し指を立てた。
ルールその一、一人称は『私』に統一すること。間違っても、自分のことを『俺』や『あたし』とは言わない。
『面倒だから俺っ子になってくれよ』
「十七年間の人の人生を何だと思ってるのよ」
バッサリと切り捨てる汐里。
努力はする、という琢磨の言葉に、初めは少し納得いっていない様子だったが、直ぐにまた溜息を吐くと、なし崩し的に了解された。
ルールその二、お手洗いや風呂は極力本人の時に済ませる。それはつまり、出来るだけ琢磨は我慢しろということだ。
いずれにせよ俺にも伝わるぞ、とデリカシーのない発言をする琢磨に「モラルの話よ!」と抗議するや、琢磨は「どうせもう死んでるよ」と流した。それについては冗談で返すことが出来ず、汐里は少しの沈黙を生んでしまった。
首を傾げているであろう様子の琢磨にハッと気づいて、汐里は、
「まぁいいわ、こんなところよ」と続けた。
その沈黙の意味を図らずも理解していた琢磨だったから、敢えてそれ以上は触れないようにした。
「いい、絶対よ」
『気を付けるよ、分かった。分かったから、殺意を募らせるのはよしてくれ』
「あら伝わっていたのね。重ね重ね便利。じゃあ、破ったら――ね?」
今日一の笑顔はとても眩しかった。