遅れるわよ。

 そんな呼びかけが、遠くの方から女性の声で聞こえてきて目が覚めた。
 どうして目が覚めたのか。
 どうして死んでいないのか。
 疑問は山ほどあるけれど、まずはこの声だ。聞き覚えがない。
 上体を起こして頬を叩き、意識の覚醒を促すと同時に部屋の扉が勢いよく開かれて、そこから女性がこちらに向かって来た。

「汐里、いつまで寝てるの。学校遅れるわよ」

 それだけ言って、女性はすぐに部屋を出ていく。
 そんなことを言われてもな。今起きたところで、あまり意識もはっきりして――学校、しおり?

「ちょ、ちょっと待って、すいません…!」

 琢磨は飛び起きるようにして柔らかい布団から出ると、閉められた扉を再び開けて、そこから女性を呼び止めた。

「あの、えっと俺――じゃない、私って…?」

「どうしたの…? 悪い夢でも見た? いいから、早く着替えて行かないと――」

 取り合ってはくれなかった。それはそうだ。一瞬ちらと見えた姿鏡に映っていたのは、元の琢磨ではなく全くの別人、二回り程も小さい背丈の『女の子』だったのだから。
 恐る恐る部屋に戻ってもう一度確認をするのだが、その様子が変わることはない。
 嘘だ、戻れ、そう願えば願う程に、その違いは細かな所まで見えてきてしまう。

「なんだ、これ……そうだ、あの老人が言っていたこと」

 形はどうあれ、現れるリスク。
 この場合で言うと、僕の人格がそのまま残っている――いや、移っているということなのだろうか。そも、ここが元のあの世界の中で別の場所だという証明もないから、それすらも見当違いなのかもしれないけれど。

 生まれ変わりであるならば、僕は幼少期の頃も覚えていないとおかしい。いや、それも違うな。普通なら赤子からのスタートの筈だ。
 これではまるで、元の“汐里”という女性を乗っ取っているようではないか。

 無茶苦茶だ。

 自分の命を繋げるというのがこういうことならば、いっそのこと断ってしまえばよかったのではなかろうか。

「こんな馬鹿なこと……っと、そうだ着替え」

 混乱こそしていれども、それ以外のこととなると、存外と人間の頭は冷静に正常に働くもので、恐らく母親であろう女性に言われたことを思い出し、さっさと言う通りにすることを選んだ。

 しかし、だ。

「着替えって――女の身体でか…?」

 姿鏡に映っている容姿、今までになかった僅かな胸部の重み、鬱陶しいくらいに長い髪、明らかな視点の高さのズレは、琢磨が今女の子の身体であることの、何よりの証拠だった。

 人格は琢磨であれ、誰とも知れない女の子の身体を勝手に扱うことには、流石に聊かの抵抗があった。しかし、先の女性の態度から恐らくは遅刻寸前の緊急事態。何をしないわけにもいかず、

「ええい、ままよ…!」

 一応目を伏せながら、とりあえずは着込んでいたパジャマのボタンを外していく。
 その時、ふと強烈な頭痛を覚えた。頭を、脳を、骨を――体内全てを揺さぶられるような、そんな感覚。例えるならば、内側から叩かれているようだった。

――……てよ…! ねえってば…!――

 おまけに、変な幻聴まで聞こえてきた。
 人格的な話はさておいて、この現象こそが本格的な副作用なのではなかろうか。

――無視して脱ぎ始め……って、ちょっと胸出さないで! いいから着てて!――

 声の語る言葉は段々と、その内容の具体性を増していく。琢磨が正に今行っている動作を止めようとしている。
 いよいよマズいか。そう思った矢先、

「――はっ…! やっと戻った!」

 弾かれるように、途端に意識が遠のいた。