部屋を出てしばらく歩くと、女王様が待つ王座の間と呼ばれる部屋に着く。
金と赤、ハートの装飾で作られた王座の間は、ハートの女王様に相応しく、とても優雅。赤い絨毯が敷いてある先に、部屋の中で最も高い位置には、謁見の間と呼ばれる大広間がある。奥には金と赤と女王の椅子。その女王の椅子に、女王様が不機嫌そうに座っていた。
「アリス! 遅いわよ!」
綺麗な金髪にウェーブがかかった長い髪。その頭には、薔薇のモチーフが装飾された女王の証である王冠を載せている。いつも不機嫌そうに寄せられた眉が、美人さに拍車をかけていた。
「アリス! いつまで間抜け顔で突っ立っているの! しっかりしなさい!」
女王様の声で、客人がいるのを忘れ、ぼんやりしていたことに気づく。慌てて周りを見渡すけれど、挨拶するべき相手が見当たない。
「あれ? お客さんは? 女王様短気だからなぁ」
お客さんの対応に面倒くさくなった女王様が追い出したのかもしれない。
「声に出ているわよ」
「あ」
女王様が鋭い視線を向けてくる。今にでもヒステリーを起こしそうな女王様は、いつにも増して眉間にシワが寄っている気がする。
ううん、気のせいだよね!
「客ならそこにいるわよ」
女王様の視線の先を辿ると、柱の影から黒い服がふわりと現れた。 お城の大きな窓から吹く風に、黒いフードがなびいて揺れる。赤と黒を組み合わせた服。体付きを見ると、年上で男の人らしい。正体不明のその青年に、緊張で体が硬くなる。
「初めまして。アリス」
予想していたよりも優しく穏やかな声。黒いフードを被っているから素顔がわからないけれど、怖い人ではないみたい?
「は、はじめまして」
視線を再び女王様へ戻すと、女王様は真剣な顔で私を見ていた。心配そうに私を見つめる瞳は、いつもと雰囲気が違う。
「アリス。よく聞きなさい」
諭すように言われ、この調子だと絶対説教を受けると覚悟する。女王様の説教は長い。
「アリス、今日が“刻限”の日よ。時計を止める準備をなさい」
大きな窓から、薔薇の香りをのせた風が頬を撫でてくる。普段なら安心するハズなのに、今は何も感じられない。体が硬直したのが自分でもわかった。
私たち不思議の国の住人は、生まれた時に運命に名前を与えられる。数代目のウサギとして。数代目のアリスとして。そして、名前を持ったその時から、不思議の国のある使命を背負っている。
幾千年にも渡る黒き魔女の呪い。それは、不思議の国の世界の崩壊。何代ものアリスが界の崩壊を止めてきた。世界の崩壊は刻限の日を境に始まって、その知らせを聞いたアリスが時計を止める。
「本当に時計を止めるだけ、なんだよね」
「ええ、その時が来たのよ」
私は“十四代目”のアリス。 アリスの使命は、動き始めたウサギの持つ時計を止めること。
時計を持ったウサギが女王の城にやってきて、時計を止めてもらうように乞うそうだ。
それを止めるのが私の役目。ずっと目を逸らしてきたけれど、もう逸らすことはできない。チラリ、と客人の方を見る。急な客人がきた意味。
始まったんだ。世界の崩壊が――
遠い昔、それは千四百年前のこと。暗黒の魔女と謳われる魔女が不思議の国に訪れて、不思議の国に二つの呪いをかけた。一つは不思議の国を崩壊へ導く呪い。千四百年と続いている悪夢。百年経つと、再び世界の崩壊が始まるという呪い。
そして二つ目の呪いは、暗黒の魔女に抗おうとした、アリスとその仲間達にかけられた酷く残酷な呪い。 呪いをかけられたある者は狂気に狂い、そしてある者は運命を切り裂かれる。その呪いは千四百年前からずっと続いていて、今も人は呪いに縛られ生きている、そう教わった。
「アリス、呪いは解ける。あんたが崩壊を止めるのよ」
体がずっしりと重くなる。
崩壊を止めるには、白ウサギと黒ウサギ、どちらかの時計を止めれば良い。そうすれば、不思議の国の崩壊は止まる。止めるのが“アリス”の使命―― 時計を止めて崩壊が止まるなら、一見なにも問題はないように思える。
けれど実際は“アリス”に選ばれたウサギは残り、選ばれなかったウサギは消える。
白ウサギを選べば黒ウサギが消え、黒ウサギを選べば白ウサギが消える。
ウサギを選ぶ。それが“アリス”に与えられた使命。どんなに嫌でも、逃げる事は許されない。してはならない。
私が止めなければ世界が崩壊する。でも逆に、時計を止めれば世界の崩壊は防げる。
「でも、私が、どちらか片方の時計を止めたら――」
もう片方は――消えてしまう
「選ぶの。それがアリスの使命。時計を止めて、不思議の国の崩壊を防ぐのよ。全ての代のアリスがそうしてきたわ」
それはつまり、国と国の人々のために一人の者が犠牲になってきたと言うことだ。
国の為、人々の為、そう言って人を犠牲にしていいの?
女王様を見ると瞳には冷たい光が宿っていた。その瞳は私の考えている事を悟り、それを考える事は許さないと伝えている気がした。
私に、選ぶことが出来るだろうか?
白ウサギと黒ウサギ、そのどちらかを―― 女王様は私の不安を見透かすように見つめ、口を開く。
「選ぶのは、あんたの自由。好きなほうを選びなさい。どちらを選んだって、結果は同じよ」
“どちらを選んだって結果は同じ” その言葉に、ズキリと胸が痛む。
本当に、一緒?
その疑問がひたすら頭の中をぐるぐると回る。
「女王様、でも、私」
「世界の崩壊はもう始まっているわ。手筈は整っているの。今までウサギの監視をしてきた。そして先日より兵士に二人のウサギを来させるように手配済みよ。今日の二十四時にウサギが儀式の間にやってくるわ」
私の考えを打ち消すかのように、女王様が厳しく言い放った。
不思議の国の崩壊。
その言葉が酷く恐ろしく感じて、思わず手をぎゅっと握り締める。心臓がドクンと脈うつのが分かった。連想したのは私が住むこの街が、この城が、崩壊する場面。不思議の国の中心にあるこの城が崩壊するのなら、逃げ場などない。皆死んでしまう。
「アリス」
突然耳元で響いた声に驚いて振り向くと、先程まで柱の影にいた彼が隣にいる。 今度は違った理由でドキドキとする心臓を押さえながら、素顔の見えない彼を見つめる。
な、何だろう。
「大丈夫だよ」
「え?」
予想しなかった言葉に驚きながらも、次第に硬直が解けていく。知らない人のはずなのに、その声を聞くとなぜか安心する。
視界の端で何かが揺れた。その“何か”に視線を移すと、彼の後ろには、長くて、動物によくある、尻尾。
「どうしたんだい?」
じっと見つめる私の様子を変だと感じたのか、彼は不思議そうに尋ねてくる。
「どうしたんだい? って、猫?」
「僕はチェシャ猫だよ」
チェシャ猫、と聞いて、昔聞いた話を思い出す。選ばれた“アリス”の元には必ず“チェシャ猫”がやって来る。世界の崩壊の知らせと共に。パニックで、すっかり客が誰なのかを忘れていた。
「最悪の時、チェシャ猫が役目を負うわ。その最悪が、起こらない事を祈っているのだけれど」
「よろしく。アリス」
チェシャ猫の口元が微笑んで、少しだけ安心する。やっぱり怖い人じゃない。
「うん。よろしくね。チェシャ猫」
差し出された手を握り握手を交わす。チェシャ猫は優しく手を握ってくれた。すると、私の感覚が何かを訴えてくる。この手の体温が酷く懐かしい、と。でも、分からない。思い出せない。
「なんだい?」
耳に届く懐かしさを含んだ優しい声も。初めて会ったはずなのに。
「ううん。何でもないよ」
知っている。でもきっと、ただの気のせい。懐かしさを感じるのも、そして、先程から感じる女王様の殺気も。
「チェシャ猫っ! さっさとアリスの手を離しなさい!」
女王様の顔が鬼のような顔つきに変化し、ヒステリックに叫んだ。
「握手していただけだよ、女王」
女王様に睨まれたチェシャ猫は、肩を上げて仕方ないと言うような仕草を見せると、私の手を離した。
「女王は短気だね」
また後で、と小さく呟くと、チェシャ猫は瞬きの一瞬、謁見の間から姿を消した。女王様の殺気が少しだけ薄まったので、ほっと胸を撫で下ろす。もう、過保護だなぁ。
「アリス」
ゆっくりと動いた赤い唇。沈黙を破ったのは意外な言葉だった。
「お誕生日おめでとう」
ぽかんとすると、今日は私の城にきてからの日から数えた、十四回目の年。一ヶ月前まではパーティーで踊るダンスの練習に明け暮れるくらい楽しみにしていたのに、一休憩にと数日のんびりしていたら、すっかり忘れていた。
「あんた、今日自分が誕生日だって忘れていたでしょう?」
女王様が自慢気な顔をしてにやりとさせる。
む、何か悔しい。
「そ、そんなことないよ! 覚えていた、もん」
意地を張って見せると、女王様はふっ、と笑った。
「意地っ張り。嘘つきは牢屋にぶちこむわよ」
「うう!」
「このあたしに嘘つくなんて百年早いのよ。全く、何年一緒に生活していると思っているのよ」
そう。女王様は私を拾ってからというもの、不器用ながらも私の面倒を見てくれた。女王様にとって子育ては初めてで、ほとんど城のメイドさんがお世話してくれたのだけれど。
私が小さい頃は頻繁に部屋を覗きに来て、公務があったとしても、私を側に置いて見ていてくれた。だから私の嘘なんて、すぐに見破れる。分かっていても悔しいから意地をはっちゃうけど。
「ふん。分かったなら、さっさと着替えて準備しなさい。パーティー開演は十八時からよ
照れながらも女王様はそう言った。
「うん! じゃあまた後でね」
歩き慣れた城の廊下を再び歩く。歩いて、嬉しさと反面、不安が胸に渦巻き始める。
“アリス”の使命
どうして私なんだろう。何で私が選ばれたんだろう。私の名前がアリスだから?
ウサギを選ぶってどうすればいいの?
私はただ時計を止めるだけ?
この世界の為に消えていくウサギの気持ちは――?
「アリス。前、危ないよ」
気が付くと目の前に柱があった。ぶつからないように、誰かが私の肩を掴んでくれている。
「考えすぎも良くないよ」
肩に置かれていた手が退き振り返ると、フードを被ったチェシャ猫の顔があった。
「アリスは危なっかしいね。目が離せない」
かぁっ、と顔が熱くなる。女王様や城の兵士達にならともかく、今日初めて会ったばかりのチェシャ猫に恥ずかしい所を見られてしまった。
「えっと、これはその」
「分かっているよ。君が悩むのも無理ない。戸惑っているんだよね?」
でも、とチェシャ猫が付け加えた。
チェシャ猫は私の気持ちに気付いている。
「今は無理して考える事ないよ。今日は君の誕生日なんだからね」
さっきの話を聞いていたのか、チェシャ猫が私の頭を撫でる。たしかにチェシャ猫の言う通り今日は私の誕生日。
「ありがとう。楽しまなくちゃ損だよね!」
チェシャ猫はうん、そうだね。と言って笑った。勿論見えたのは口元だけだけど。
「じゃあ、気を付けて部屋に戻るんだよ」
「だ、大丈夫だよ! あっ、チェシャ猫もパーティーに来てね!」
手を降って、赤と白の廊下を駆ける。角を曲がる瞬間、飾ってある鎧の隙間からチェシャ猫の立っていた場所を見ると、やっぱり姿は消えていた。
突然現れたり、消えたりする、口元だけが笑みをたたえた顔の見えない不思議な猫。優しい声や手が、どこか懐かしく感じさせる不思議な青年。その不思議な猫は、私に先程までの気持ちが嘘みたいに、ワクワクした気持ちを戻してくれた。
ドレスは何を着ようかな? ご馳走は何がでるんだろう? アリスの使命も大事だけれど、せっかくの自分の誕生日。女王様がパーティーを開いてくれる。今だけは、楽しまなくちゃ。
いつも二つに縛っているピンク色の髪をおろす。
女王様が用意してくれた白とピンクのドレスを着て、パーティーが開かれる会場に向かった。十四年間城で過ごしてきたから着る機会は多かったドレス。だけど着なれないからかやっぱりドレスには落ち着かない。
「おぉ。これはこれはアリス殿!」
後ろから聞こえた低い声。少し年齢を感じさせるこの声は……
「ジャックさん!」
「会場に向かう途中ですかな?アリス殿」
「うん。ジャックさんは仕事中?」
「いやいや、アリス殿のおかげで私も久々に休暇がとれましてな。お誕生日おめでとう、アリス殿」
直ぐに言わなくて申し訳ないですな、といってジャックさんが笑う。
「ありがとう。ジャックさん!」
「誕生日祝いに、ババ抜きでもいかがかな?」
ジャックさんはトランプを取り出しすと、器用にもパラパラと捲る。
小さな頃から私の世話をしてくれているハートのジャックさん。大のトランプ好きで、会うたびにトランプに誘ってくれる。楽しいからよく遊ぶけど、あまり遊んでいると女王様に叱られるんだよね。
「やりたい! けど、もうすぐパーティーが始まるからやめとくね」
「それは残念」
ジャックさんは肩を落とし、トランプをポケットにしまう。悪い事しちゃったかな?
「ジャックさんも、パーティー出てね!」
いつもジャックさんにはお世話になっているし、きてほしいな。それに、こうしてジャックさんとお話をするのも、もしかしたら旅が終わってからになるかもしれないんだ。
「勿論出席させていただきますぞ」
ジャックさんが笑顔で答えてくれて、吊られるように私も笑った。目尻に刻まれた皺が愛しく思えて頬が緩む。
「本当!? ありがとう、ジャックさん!」
「では私も、アリス殿のバースデーパーティーの準備をするとしますかな。この格好では、パーティーへは出席出来ませんからな」
着ている赤い仕事着を指しながらホッホッホッと笑う。また後で、とお互い笑いあって会場に向かった。
うぅ。緊張するなぁ。
一応主役なので会場の裏に行き、パーティーが始まるのを待つ。カーテンの隙間から会場を覗くと、沢山の人が集まっている。きっと、女王様がこの日のために招待状を出していたのだろう。
「ふふ……」
先程の照れていた女王様を思い出す。口ではツンケンしながらも、女王様はいつだって私の事考えてくれているんだよね。
見るとよく行くパン屋のブレッドさんや、街でよく遊ぶ子供達、その他にも城の兵士の人達。私の知り合いの人達が会場に集まっている。その中に混ざって、城の隅にチェシャ猫もいるのが見えた。
もしかしたらリズも来ているんじゃと思って探したけど、見慣れた黒髪は見当たらない。
リズと私は幼い頃からの友達で、城を脱け出した時偶然リズに会い友達になった。それ以来毎日のように街にでてリズの家に遊びには行くけれど、女王様はリズが嫌いなのか、私がリズの所に遊びに行こうとすると機嫌が悪くなる。
まさかとは思うけど、女王様はリズには招待状を出していないなんてことはない、よね。リズも一応私の誕生日は知っていると思うんだけどな。もうすぐ旅にでて会えなくなるし、リズには会いたいのに……