数秒の沈黙が永遠の様に感じられた。
一連のやり取りを全て理解することは出来なかったが、それでも彼女が最後に言った言葉の意味は分かる。
『本当に消える』……それは死を迎えるということ。
つまりラプラスは過去に『殺されるよりも辛い消され方』をしたのだ。それは一体何だ?
小屋を見つめたまま茫然と座り込む彼女に僕は問いかける。
「ラプラス。どうして僕をここに連れてきたの?」
「…………」
「ここはきっとアリス・ミシェーレの過去の記憶、もしくはそれを元にイメージした世界のはず。だから詳しい事情は分からない。だけど……だけど決してこの場所は、君にとっていい思い出の場所じゃないはずだ」
「……必要、だったの」
今にも壊れそうな声で、彼女は答えた。
「始君が瀕死のダメージを負っていることは一目で分かった。『コンセプション・リンク』は感覚共有の応用で自分の生命エネルギーを相手に分けることが出来る。でもその為にはより強力なイメージで精神を刺激する必要があるの。だから私はここに帰ってきた……私の最も辛く苦しい記憶が眠る、忌まわしいこの地へ」
「君はバカなのか⁉」
「えっ?」
驚いた表情を浮かべるラプラスに、思わず叫ぶ。
「僕は君を泣かせてまで生きたいだなんて思わない!」
ラプラスは唖然とした表情で僕を見つめ……しかしすぐに感謝をする様な笑顔を浮かべた。
「ありがとう、始君。でも悪いけど、私だって貴方を死なせるつもりは全くないの。そして――貴方が助かるにはまだ『代償』が足りないみたい」
「まさか……やめろラプラス! もう十分だ! 頼むからやめてくれ……!」
必死に叫ぶ僕に笑いかけてラプラスは振り返り、掌をかざすと――瞬間、小屋が凄まじい火の手に包まれた。
「やめろおおおぉぉ!」
僕は走り出そうとしたが、途端にブドウの枝が伸び絡みあって壁となり、僕の行く手を塞いでしまう。
小屋からは、泣き叫びながら憲兵と思しき男に連れられていく少女が見えた。
そしてその後ろには、まさしく悪魔の様な形相で高笑いをあげる母親の姿。
「ラプラス……そうか……君は……」
炎はどんどん広がってブドウ畑に燃え移り、やがて辺り一面は火の海に包まれる。
「始君。熱いと思うけどもう少し我慢してね。もうすぐ……もうすぐだから」
振り返った彼女は、汗ばんだ顔に疲れ切った表情を浮かべていた。
「ねえ、そんな悲しそうな顔をしないで。私は大丈夫だから。むしろ嬉しいの……ようやくちゃんと、自分の意思で誰かを救うことが出来て」
ラプラスはゆっくりとこちらに歩み寄り、力尽きて倒れた。
僕は慌てて焼けたブドウの木の壁を蹴り破り、ラプラスに駆け寄る。
「ラプラス! しっかりしろ! もし僕に力を与えすぎて君が死んだりなんかしたら意味がない」
「ふふっ……それも悪くないかもね」
僕に抱きかかえられたラプラスは、涙の枯れた虚ろな目で言った。
「誰かを助けるために命を落とす……それもまた『正しい消え方』……そうは思わない?」
「違う、そんなものが正しいはずがない! 僕はそんな消え方は認めない!」
「……ありがとう」
ラプラスはそう言って静かに目を閉じた。
死んでしまったのか……? いや死んだのなら現実世界に戻るはずだが、まだ感覚共有は続いている。
どうすればラプラスを救える? 炎に包まれた世界で僕は必死に考える。
彼女は言っていた。相手に大きな精神エネルギーを与えるには、より強力なイメージを連想する必要があると……
「――貴方も、ラプと同じことを繰り返すつもり?」
その時。頭上の真っ暗な空から謎の女性の声が響いた。
「誰……?」
「貴方が仮に彼女と同じことをしても、ラプが助かるとは限らない。助かったとしても、この子は決して喜ばないわ」
「だったら僕はどうすればいいの?」
その問いかけに応じる様に、漆黒の空から布の様な物が落ちてきた。
「ねえ……それを取って」
空からの声に言われるままに僕が掴むと、それはラプラスが付けているものと全く同じ青いリボンだった。
そのリボンから白い光が漏れ、紅蓮に染まった世界を照らし出す。
目が痛い程の光に包まれる中、空からの声が徐々にこちらへ近づきながら僕に告げた。
「受け取ってくれてありがとう。――これでやっと私も貴方たちと繋がれる」
次の瞬間……突如として波が押し寄せ、あれほど燃え盛っていた炎を全て薙ぎ払った。
ブドウ畑も瞬時に消え去り、僕は流されまいとラプラスを抱えながら固く目を閉じて踏ん張る。
そして波が収まった時、目の前で先ほどと同じ声がした。
「もう目を開けて良いよ」
よく聞くとそれは聞き覚えがあって、ラプラスの声によく似ていた。
僕がゆっくり目を開けると、目の前には以前ラプラスが見せてくれた黄昏時の海が広がっていて――そして砂浜には、一人の女性が立っている。
ラプラスと同じ銀髪碧眼に青いリボンの付いたワンピース姿。
違う点があるとすればワンピースの色がライトグリーンなことと、ラプラスよりも七歳ほど成長しているところだろうか。
もはや間違いない。僕は彼女を前にして確信に満ちた声で言う。
「貴方がアリアさんですよね?」
すると、彼女はニッコリと人懐っこい笑みを浮かべた。
「始めまして、始君。私の事はアリアで構わないよ」
僕は抱えていたラプラスをゆっくり砂浜に下ろすと、未だに信じられない気持ちでアリアを見つめる。
「今、私を見て信じられない、と思ったでしょ?」
そう悪戯っぽくウインクするアリアは、どうやら姉妹と言えど大分性格が違うみたいだ。
「もうラプは大丈夫よ。ここは一度だけ私と来たことのある思い出の海だから。君もさっき見せてもらったよね?」
「うん。だけどそんなにラプラスにとってそんなに思い入れのある場所だとは思わなかった。貴方のおかげで助かったよ、ありがとう」
お礼を告げると、アリアは安らかに眠るラプラスを愛おしそうに見下ろした。
「私にはこのくらいのことしか出来ないから。私はね、『ラプラス・システム』の実験を通してこの子の記憶に刻まれた人格なの。それに……どんな形になっても、私はこの子のお姉ちゃんだから」
それから、アリアは少し恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
「この姿は十八歳の時に研究所で採取されたものだけどね。もし今生きていたら二十三歳なの」
「じゃあ、アリアもラプラスの様に捕まって人体実験を受けていたの?」
「うん。あれは十三歳の時……私は大学に行く為に一人暮らしをしながら勉強をしていた。そんなある日に、ラプラスとほぼ同時期に捕まったわ。でもすぐに私には何の能力もないと分かって、用済みの烙印を押されて……そしてそこから私の妹を取り戻す為の戦いは始まった」
打ち寄せる波と夕日を背にして、アリアは拳を握りしめる。
「最初は口封じの為に始末されそうになったけど、私は必死に懇願して研究所の職員になった。もちろん内側から情報を探ってラプを助ける為に。でもラプの存在は最高機密に指定されていて、三年間必死に探してもどこの国にいるのかすら分からなかった。そして十六歳になった時私はある計画を知り――そしてその計画で貴方と出会った」
「僕と……出会った……⁉」
驚いてそう繰り返すと同時に、僕の脳裏にあの記憶が鮮明に蘇る。
『――忘れないで』
『例え忘れてしまっても、思い出して』
『だって貴方は――私に会いに来る為に生まれてきたのだから』
「あの記憶の女の子は……まさか……!」
衝撃を受ける僕の前で、アリアはあの時とほとんど変わらぬ瞳を向ける。
僕がラプラスと勘違いしていた少女は、実の姉であるアリアだったのだ。
しかしそれは、僕自身の根幹を揺るがす事実でもある。
「あり得ない……どういうことですか⁉ 僕はこの国に生まれて、ごく普通に育った何の取柄もないただの人間だ! それとその『とある計画』に何の関係が……!」
「ごめんなさい。それは今は言えないわ」
僕の難詰に、アリアはきっぱりと断言した。
「確かなことは、私はラプを助ける為に貴方を利用しようとした。本当にごめんなさい……でもその時の私はラプを助けることしか頭になかったの。結局、貴方に会うことが出来たのは私が死んだ後になってしまったけれど」
そしてアリアは僕に近づき、そっと頬に手を添えてきた。
「でも今、記憶の中だけでも貴方に会うことが出来て良かった。ありがとう、私のラプを守ってくれて」
スッ、と彼女の手の感触が薄くなった。
気付くと、アリアの体が少しずつ透け始めている。
「そろそろ……時間みたいね」
「ま、待ってよ! 貴方にはまだ聞きたいことがたくさんあるんだ! 僕は一体何者なの⁉ 僕はこの先どうしたらいいの⁉ ねえ、答えてよ!」
陽炎の様に薄れていく中、アリアの唇が静かに言葉を紡ぐ。
「貴方が何者なのか、それはラプと一緒にいれば分かる。だからどうか、これからも彼女を守ってあげて。私はいつも……貴方たちを見守っているから――」
そして最後、アリアはラプラスに視線を移して慈愛に満ちた微笑みを浮かべ――そのまま打ち寄せる波音と共に消えた。
同時に海が荒れ始め、巨大な波が押し寄せてきて僕とラプラスを再び包み込む。
「ラプラス!」
水の中で必死に彼女を抱きしめると、海の底に黒い空間と光る点が見えた。
海の中に沈んでいくに連れて辺りの景色が変わり、段々とそれが宇宙空間であることに気付く。
その小宇宙には無数の赤い糸が伸びていて、所々で歯車が回りながらゆっくりと漂っている。
その歯車たちはやがて星が出来る様に引かれあって集まり、お互いに回転し合ってより巨大な歯車を形成していく。
「これが……ラプラスの頭の中……」
僕はしばらく呆気に取られて辺りを眺めていた。
やがて数メートル先に扉が浮いていて、そのドアノブと自分の手が赤い糸で繋がっていることに気付く。
そろそろ行かなくては。……例えあの扉の向こうに、どんなに過酷な現実が待っていたとしても。
僕は直感のままに赤い糸を掴むと、ラプラスを抱えた状態でそれを引っ張る。
糸に導かれるままドアの前まで進んでドアノブを回すと、眩しい白い光が溢れ出す。
最後に僕は、不思議な小宇宙を振り返ると――アリアに別れを告げてから扉向こうへ消えた。
コンテナの山の頂上で僕とラプラスは同時に目を覚ました。
壊れた天井から見える空には星が瞬いている……あれからどれくらいの間倒れていたのだろう。
「生きている……始君が生きている……!」
ラプラスはしばらく僕を茫然と見つめた後、突然抱き着いて泣き喚き始めた。
「いたたたたたッ! ラプラス頼むから離れてくれ全身が痛いッ!」
「だって……さっきまで死にそうだったから……ぐすっ……」
何とかラプラスを引きはがすと、僕は少し呆れた口調で言う。
「そういうラプラスだって、イメージの中とは言え無茶し過ぎだよ。アリアがいなかったらどうなっていたことか……」
「アリア? お姉ちゃんがどうかしたの?」
キョトンとラプラスが小首を傾げる。そうか、意識を失っていたからアリアを見ていないんだった。
「ううん、何でもない。とりあえずここから降りよう」
説明しようにも話がややこしくなるし、今はとてもそんな気力はない。
ラプラスは少し疑うような眼差しを向けたが……その時、ハッと目を見開いて耳元のインカムに手を当てた。
「ラプラス? どうしたの?」
「何故か分からないけど、システムとの接続が回復した」
「それは良かったじゃないか! これでまた予知が使える様に――」
「うん……そしてたった今、その予知が見えた」
彼女は顔を上げ、深刻な表情で告げる。
「五分後……この工場は歌姫と『システム』の戦闘員に完全包囲される」
選択肢など残されていなかった。
僕達は痛む体に鞭を打ち、コンテナの山からなるべく急いで降りた。
一歩ごとに全身に激痛が走る。だけど今は休んでいる暇などない。
ラプラスのおかげで一命を取り止めたとはいえ、『ソロモン・リング』を使う体力などとても残っていない。もしラプラスの予知通りここを包囲されれば今度こそお終いだ。
二人で肩を組みながら工場の外へ向かう途中、僕はあることに気付いて思わず息を呑んだ。
さっき倒した五月雨がいなくなっている。
急所は外したので死んではいないと思うけど、救助もまだ来ていないはずだ。だとしたら一体五月雨はどこに――
ガチャ!
その時、工場のシャッターが開いて眩い光に照らされ、僕達は思わず顔を覆った。
目の前に広がるのは――触手をひしめかせる無数の歌姫と車のライトをバックに銃を構えた戦闘員たち。
――間に合わなかった。
絶望的な光景を前に、僕は遂にその場で膝をついた。
「夕立始とラプラス・システム! 『代行者委員会』の任によりお前たちを確保する!」
拡声器の声が響き渡る中、ラプラスはそっと座り込んで僕を抱きしめる。
一瞬の抱擁の後、離れて顔を上げると――ラプラスは、今まで一番幸せそうな表情を浮かべていた。
「君のそんな笑顔を――こんなところで見たくなかった」
ラプラスは、笑顔を崩すことなく答える。
「そんなこと言わないで。私は充分に幸せだよ。だって――」
「例え『正しい』形じゃなくても――好きな人と一緒に消えることが出来るのだか
ら」
それが一人の女の子からの初めての告白だと気づいた時には、僕達は切り離されていた。
それぞれ戦闘服の男に腕を掴まれ、二人は遠ざかっていく。
もう二度と会えない、その感情が遂に爆発して僕は彼女に手を伸ばしながら叫ぶ。
「やめろ! 放してよ! もうたくさんだ! 何が『システム』だ、何が『神様』だ! 本当にラプラスがそうなのだとしたら、悪魔のお前たちに触れていい権利なんてあるわけ――」
「――そうだな。悪魔は交わした契約は必ず守る生き物だ」
その時。聞き覚えのある声と共に、僕を掴んでいた男の手が離れた。
振り返ると戦闘員は倒れていて――その隣で、手刀を構えた紫色の髪をした男がシニカルな笑みを僕に向けた。
「君たちとの約束を守る為に、今だけ俺は悪魔になるよ」
「き、貴様! 何のつもりだ!」
ラプラスを拘束していた戦闘員が叫ぶも、五月雨は目にも止まらぬ速さで彼の後ろに回り込み手刀を叩き込んだ。
ヘルメット越しにも関わらず呆気なく戦闘員は倒れ、解放されたラプラスが僕に抱き着く。
「その様子だとすっかり順調みたいだね。所詮、僕の役回りはアダムとイブを脅かす蛇に過ぎなかった、ってことかな」
憎まれ口を叩く五月雨に、ラプラスを受け止めながら僕は問いかける。
「五月雨、どういうつもりだ……? 傷はもう治ったの?」
すると、五月雨はジャケットとシャツをはだけさせ……そこあったはずのプラズマブレードの穴は完全に塞がっていた。
「流石に数分間は動けなかったけどあの程度じゃ俺は壊せないよ。例え心臓を貫いてもね……そもそも俺に心臓なんてないけど」
「からかってるのか? さっきからの何の話をして――」
その時、隣でラプラスが息を呑んで告げた。
「終……そういうこと、だったのね……!」
「ラプ。四年間も一緒に過ごしたのに気づかないなんて、俺は凄く寂しかったんだよ?」
五月雨はわざとらしく嘆息して僕らに衝撃の事実を告げた。
「そう――俺はアンドロイドだ。だから頭部を破壊されない限り死ぬことはない」
「そ、そんな話信じられないよ……! だって見た目はどう見ても……!」
だけどその時、僕は思い当たる節があることに気付く。
そうだ、工場で戦った時にメイが行った熱源反応探知……!
あの時五月雨が感知出来なかったのは、他の熱源に隠れていたからじゃない。アンドロイドだからそもそも体温が存在しないんだ!
「始君、いついかなる状況でも常識を疑え。そうしなければこの先生き残ることは出来ないよ」
そう言って五月雨は僕たちに背を向け、戦闘員たちに向かい合った。
「さっきだって、君はもう少し警戒するべきだった。もし俺が指示していたら、君はこいつらに殺されていたかもしれないのだよ」
「それはないよ。だって『天使』は『天使』にしか殺せない――」
「僕がいつ、そんなことを言ったかな?」
五月雨が首を傾けて問いかける。
「え……?」
僕は一瞬にしてあのタワーでの会話を反芻する。
「『天使』を殺せるのは『天使』だけ――そうなんだろ?」
「やはり君は俺が見込んだ通りの逸材だ」
「肯定、と捉えていいの?」
「否定しても信じないだろう? 現に『システム』は四回にわたって時雨鏡花の抹殺に失敗しているし」
ギリッ、と今度は思わず拳を握りしめる。
「まさか……否定とも肯定とも取れない会話で僕が勘違いする様誘導したのか。僕を油断させて、いざという時はいつでも歌姫無しで始末できるように!」
「俺はこう見えて凄く負けず嫌いだからね。何重にも保険をかけるのを忘れないのさ」
さらりと告げてから再び、視線を前に向ける。
「さて、そんなに悠長に俺とお喋りしてる場合かい? もちろん、ここから脱出したくないのなら話は別だけど」
「……どうしてそんなに僕たちを助けようとするんだ?」
「どうも何も、俺は契約を果たそうとしているだけだよ。忘れたのかい? 俺をもし倒せたら、ここから無事に逃がしてあげる、と」
その時、拡声器からまたしても声が鳴り響いた。
「そこの男、今の攻撃は明らかな敵対行為と見なす! 腕を頭の後ろに組んで膝をつけ、さもないと――」
「さもないとどうする? 委員会にでも言いつけるかい?」
気が付くと、彼は拡声器を持つ戦闘員の前に立っていた。
腹に拳を叩き込まれ、声もなく崩れ落ちた男を背にして、五月雨は『ソロモン・リング』を起動してプラズマブレードを構える。
「おい、あの男『指輪使い』だぞ!」
「しかしどこかで見たことがある様な……」
「だとしても『システム』の命に逆らう者は全て敵だ! 歌姫に迎撃させろ!」
四方八方から迫る歌姫の肉壁を前に、五月雨は不敵な笑みを浮かべる。
「ああ、今日は何て素敵な日なんだ。一日でこれほどのご馳走を食したら胃もたれを起こしてしまうよ」
すると突然、青い閃光らしきものが走り歌姫たちの間を駆け巡った。
閃光の通り道にいた歌姫の顔は残らず切り刻まれており、彼女たちは歌声を残して倒れていく。
「早く行け」
閃光は動きを止めると、青く光る背中を見せたまま僕たちに言い放つ。
「俺は今まで一度だってフェアだったことはない。今回も君たちが捕まるのを傍観していることだって出来た。でも最後の最後くらいは約束を果たしてみせるさ……時には気まぐれな『天使』よりも契約に忠実な『悪魔』になってみるのも悪くないからね」
僕は五月雨終という、ラプラスの元管理者であり五月さんとアリアの仇であり、僕にとって最大の敵であり――そして命の恩人である男を見つめてから、何も言わず背を向けた。
憎悪、怯懦、感謝……どんな感情も、今の彼に向けるには相応しくないと思ったのだ。
ただ、この男とはまたいつかどこかで戦うことになる――だから、今はその事実を胸にひたすら生き抜くことだけを考えよう。
「総員、一斉にかかれ!」
攻撃の合図と共に歌声と銃声と血しぶきの音が交じり合う中、僕はラプラスの手を取った。
「行こうラプラス」
「うん……分かった」
工場から離れた後、僕とラプラスはすっかり暗くなった街を歩き続けた。
目的地はラプラスが教えてくれた。どうやら予知によると、そこに行けば代行者勢力からしばらくの間は逃げ切れるらしい。
やがてその場所に着くと、ラプラスは穏やかな表情で目の前の光景を見つめた。
「ラプラス、目的地ってここ?」
「そうだよ。ここの近くにたまたま流されてきたボートがあって、それを漕いで南に向かうと島があるの。そこに行くと私たちを助けてくれる人物がいるって、そう予知が教えてくれた」
「そんなことまで予知出来るのか……」
改めて『神様』の力に慄きつつ、僕らは砂浜を歩いた。
歩いている間、ラプラスはとても嬉しそうだった。
彼女が現実世界の海に行ったのは幼い頃、姉のアリアと行った一回きりだからその気持ちはよく分かる。
やがて彼女は地平線を照らす満月を見つめると、少し遅れて進む僕を振り返った。
「ねえ始君」
「どうしたの?」
「私、ずっと考えていたの。始君の言う通り『正しく消える』にはどうすればいいんだろうって。私の力は人を、世界を狂わせる。そんな私が平穏な日常に消えることなんて本当に出来るのかなって……いつも不安で胸が潰れそうになるの」
僕は彼女に近づくと、耳元のインカムに手を添えた。
「……始君?」
「残念だけど、僕がこの世界と戦うには君の力が必要だ。君を守るには、そして君を消してあげる為には僕の力はあまりに弱すぎる。だけどもし、僕たちが無事に消える日を迎えることが出来た時には――僕がこの手でそのインカムを外す」
「その時、君は本当の意味で『消女』になる――約束するよ」
ラプラスは数秒の間、僕の顔をジッと見つめていたが――急にポッ、と顔を赤らめて慌てて視線を逸らした。
「ど、どうしたの? 僕、もしかして何か変なこと言った⁉」
「そ、そんなことないよ! ただこの手でインカムを外す、って言うのが何だかプロポーズみたいで恥ずかしくて――」
「ど、どの辺が⁉ それを言うなら、廃工場でラプラスが僕に指輪を嵌めた時の方がまんまプロポーズだろ!」
「ああそうだった! 私は何てことをしちゃったんだろう!」
羞恥のあまり身悶えるラプラスを見て、僕は恥ずかしさを通り越して呆れてしまった。
この調子だと、さっき僕に告白も同然のセリフを言ったことなんて忘れてるんだろうなあ――
「……あのーお二人とも、ずっとライプラリの電源が入りっぱなしになってることを忘れてませんか?」
「メ、メイ⁉ お前またそうやって人のプライバシーを……!」
「今回に関しては不可抗力じゃないですか! まあもっとも、若いお二人の行く末がどうなっていくのかには超絶興味がありますけどね。だから仕方ありません、それを見届ける為にこの高性能AIもしっかりお供しますよ」
「何だかこの先凄く嫌な予感しかしない……」
とは言え、今回の戦いでメイが何度も役に立ってくれたのは事実だ。きっとまた、この七面倒臭いAIの力を借りる時が来るかもしれない。
「あ! あったよ、ボートだ!」
その時、ラプラスが前方を指差して歓声を上げた。
砂浜の目立たない浅瀬で横転していたボートは新しく、おまけにオールまでちゃんと入っている。
「……本当に神の力って何でもアリだな。ご都合主義にも程があるよ」
「有力な逃走ルートは他にもニ十通り以上あるよ。世界全体のあらゆる事象を予知できる私からすればこれくらい朝飯前よ」
ドヤ顔を浮かべるラプラスに、複雑な心境を覚えつつも僕は一瞬だけ『ソロモン・リング』を起動して大きなボートを起こした。これくらい立派なら沈没する心配はないだろう。
二人で乗り込んでオールを漕ぐと、ボートはゆっくりと砂浜を離れて行く。
まるで自由へ向かって飛び立つ翼なき天使の様に。
ボートはどんどん満月へ向かって進んでいき、やがて地平線の彼方へ吸い込まれていって――
僕たちはそのまま海の彼方へと消えていった。
二人の少年と少女が『正しく』消える為の戦い――これがその最初の『消滅』だ。
(終)