「右からの回転切り! その後足元に来る!」



ラプラスの補助を受けながら、僕は何とか時雨さんと渡り合っていた。

運動神経が加速しているおかげで、何とかラプラスの指示通り反応出来る。持っているのは小さな棒に過ぎないが、素手で挑むよりは遥かにマシだ。

「小賢しいわね! 悪あがきはやめて早くラプラスを渡しなさい!」

「始君そこから離れてっ!」



間髪入れず、時雨さんが刃の反対側を地面に思いきり叩きつけた。

ラプラスの声は聞こえていたが間に合わず、僕は衝撃波で吹き飛ばされて地面を転がる。

その間に時雨さんがラプラスに雄たけびを上げながら肉薄した。

「観念しなさい! この秩序の皮を被った偽神がッ!」

「やめろ!」



僕は倒れたまま時雨さん目掛けてプラズマ棒を投げつけた。彼女は振り向き様にそれを切り捨てたが、ラプラスはその隙に僕の近くに素早く駆け寄る。

時雨さんを足止めしてラプラスを救うことは出来たが、おかげで武器は無くなってしまった。

「もう武器を生成する暇はあげないわよ」



彼女から感じられる熱量が更に増えた。今度こそ本気で仕留める気だ。

「左方向、大振り!」



時雨さんが鎌を振り上げて大振りの一撃を繰り出す。僕はラプラスを抱えるとその場で跳躍し、空中に床を生成して頭上を走り抜ける。

「時雨さん……もうやめてくれ! それ以上戦ったら君の命に関わる!」

「だったらさっさとそこの神様のツラをした悪魔に死ぬよう伝えることね!」



その時――時雨さんの鎌にビシッ、と亀裂が入った。

どうやら感情が高ぶるあまり、エネルギーを浪費し過ぎていた様だ。

彼女はチッ、と舌打ちすると鎌を放り投げて両手をこちらに向ける。

「でも始君、確かに貴方の言う通りよ。私はそろそろ限界みたいね……いいえ、貴方の言うことはいつだって正しかった。貴方はどこまでも純粋で、無欲で、人の為に尽くせる人間だから。そういう意味では、私は間違ったことをしているのかもしれない」

「だったらどうして……!」

「『神様』の実態を知ってしまった以上もう後には引けないのよ。この国は腐りきっている……『システム』を利用して危険因子を排除するなんて独裁政権と同義だわ。私はそんなものに加担しているお父上も『代行者委員会』も許せない!」



その叫びを聞いて、僕はラプラスの言葉を思い出す。



『予測によると時雨鏡花は十年後、『代行者委員会』の一員となり『システム』にとって脅威となる運動を始める』



そうか……あの言葉の意味はそういうことだったのか。

時雨さんが十年後、『代行者委員会』に入って『システム』の実態を知ればその存在に反発し抹消しようとするのだろう。

それの未来を予知した『ラプラス・システム』が、自己防衛の為時雨さんの排除を決定したのだとしたら全ての説明がつく。

『システム』の財閥の跡取りである時雨鏡花が、『代行者委員会』以外の道を歩む未来は有り得ない。それ故に、時雨鏡花にはもう死ぬという選択肢しか残されていない。

何て……悲しい運命なんだ。

「だからラプラスはここで抹殺するの。それが……国の中枢を担う時雨家の跡取りに生まれた、私の使命だから」



そう言って彼女は不意に、今にも泣き出しそうな笑顔で笑った。

「時雨さん」

その笑顔はあまりにも痛々しくて、僕は思わず彼女へ向かって手を差し出して――



「ごめんなさい――そしてありがとう。こんな私にちゃんと触れようとしてくれて」
「始君! 来る!」



次の瞬間、時雨さんの両手から激しい青の雷光が迸った。

ラプラスの指示がなくても分かっていた僕は、プラズマの壁を張って全身全霊でそれを受け止める。

その光がようやく消えた時――時雨鏡花は静かに地面に横たわっていた。

全てをやりつくしたような穏やかな笑み浮かべて眠る彼女を見て僕は叫ぶ。

「時雨さん!」



駆け寄って抱き起すと、幸いにもまだ浅く呼吸があった。

『リング』と出血のダメージは相当酷そうだが、すぐ治療すれば何とかなる。

「ラプラス! この近辺で身を隠せる場所でかつ、時雨さんを治療できる場所を検索してくれ! 君なら簡単だろ――」



僕が振り返って叫んだ瞬間、辺りに重々しい足音が響き渡った。

「始君……あれは……!」



ラプラスも、信じられない物を見る表情で目の前の光景を凝視している。

商店街に向かってなだらかに下る丘を降りてやって来たのは……見たこともない数の歌姫たち。

辺りは甘美とも悲哀とも言い尽くせない歌声で埋め尽くされ、うねる大量の触手はまるでウミヘビの大群の様。

それらが、群れを成して一斉にこちらへと迫ってきている。

「ラプラス!」



僕は彼女に駆け寄ると肩を掴んで思わず叫んだ。

「どうして教えてくれなかったの⁉ 君なら分かっていたはずだろ!」

「……読めないの」

「え?」

「あの歌姫たちの動きが、読めない」



震える声でラプラスが呟く。

彼女にとって、思考が読めないものは全て恐怖の対象なのだ。

「でも、予知が効かないのは『天使』だけのはずだよね? だったら何であの歌姫は――」



その時、僕はハッとして地面に横たわる時雨さんを見つめた。

時雨さんはここに来る前の時点ですでに血まみれだった。あれがもし、あの歌姫のどれかにやられたものだとしたら……?

「時雨さんは『天使』だから本来、『システム』の統制下で機能する歌姫相手なら簡単に対処できたはず」



僕の言葉にラプラスが頷く。

「だけど、もしその歌姫が『システム』の統制から解放されて、自立型AIに組み替えられていたとしたら? 更にその情報が『ラプラス・システム』にも共有されていなかったとしたら……?」



その言葉に、彼女は目を見開いた。

「その歌姫は『天使』の特性関係なく自力で『天使』を殺せるし、私の予知でも感知できない存在になる!」

「五月雨の奴……こんな隠し玉を持っていたなんて」



時雨さんは『天使』である故に普通の歌姫出来ない。

その前提があるからこそ、僕は時雨さんと五月雨の鉢合わせさえ避ければ良いと思っていた。

だが現実として、五月雨は対『天使』も想定した歌姫を大量に隠し持っていた。

そして今、僕達はその自立型歌姫の大群を前に成すすべもなく立ち尽くしている。

「……投降するしかない」



目前まで迫った歌姫たちを前に、僕はがっくり項垂れた。

「始君……! 何を言ってるの⁉」

「現実を見てよ。時雨さんは瀕死状態、僕も『ソロモン・リング』の反動が来るのは時間の問題。ラプラス自身に戦闘能力はない。この状況で僕が二人を庇って逃げるのは無理だよ」

「まだ諦めるのは早いでしょ⁉ ねえ、一緒に街の中に隠れましょう! この近くに廃工場があるから、時雨さんも連れて行けば少しは時間を――」



その時――彼女は僕の目を見て口を噤んだ。

「もう、無理なんだ」



丘から舞い上がる大量の土煙を月明かりが照らす中、僕は哀切に笑った。

それ以上僕は彼女の顔を直視出来なくて、顔を逸らした。

僕にはもう、ラプラスと面と向かって会話をする資格が無い様に感じた。

「ごめん、ラプラス。約束を守れなくて。君のことを消してみせるって……約束したのに」



短い言葉の間にも、自然と涙が溢れてくる。

数秒の沈黙の後――コツン、と僕の肩に固いものが当たった。

目を開けると、ラプラスが僕の肩に頭を寄せて顔を胸に埋めていた。

「ううん……こちらこそありがとう」



その細く白皙した両手を僕の背中に回して彼女は囁く。

「始君のおかげでたくさんの夢を見ることが出来た。それどころか、たった一日だけだったけどちゃんと日常の世界へ消えることも出来た。だから貴方はやっぱりちゃんと、私だけの天使だったと思う。天使としての務めを果たしてくれたと思うの。だから……泣かないで」



か細い彼女の囁きを聞けば聞く程、涙が止まらなくなって……僕はそれを隠す様に彼女を強く抱きしめた。

「ねえ……今私たち、ちゃんと消えて見えるかな?」



胸の中から聞こえる彼女の声に、僕は嗚咽を抑えて答える。

「どうだろう……街中で抱き合う血まみれの少年と少女じゃ、ちょっと『消えてる』とは呼べないかも」

「あははっ……そうだね……うん、そうだよね……」



ラプラスは笑い声を上げて僕から離れ、潤んだ瞳を拭ってから歌姫たちを振り返った。

軋んだ歌声を上げた歌姫たちは、もう僕たちのすぐ近くまで迫って来ていた。声を張り上げれば確実に届く距離だ。

「それじゃあ神様。僕の『天使』としての務めはここまでです」



僕はそう言って、世界をこれからも背負っていくであろう少女にお辞儀をし、それから歌姫たちへ手を上げながら歩き出そうとして――



「何をしている! 下がっていろ!」
次の瞬間、謎の影が頭上から降ってきて先頭の歌姫の顔面が千切れ飛んだ。

その影は更に縦横無尽に飛び回って迫りくる触手を次々とかわし、最前列の歌姫の顔面を断ち切っていく。

一瞬にして歌姫の残骸が散乱する中、影は一瞬で僕の前に移動してその青い刃の先端を向けた。

謎の影――五月雨終は、返り血一つ浴びた様子もなく僕に向かって鋭い口調で告げた。

「聞こえなかったのか、夕立始。早くラプを連れてここから避難しろ」

「な……どうして……?」



状況が全く理解できず、僕は唖然として五月雨の顔を見つめる。

「どうしてこんなことを? この歌姫の軍勢は僕たちを降伏させる為にお前が送り込んだんじゃ……?」

「この俺が物量攻めなどという頭の悪い作戦を使うと思うか? 確かに最初この歌姫は我々の制御下にあったし、漁夫の利を狙っていたのも事実だ。だが――状況が変わった」



そう言って、五月雨は氷の様な目で倒れた時雨さんを蔑む様に見下ろす。

「そこの子娘の配下に優秀なハッカーがいるのは気づいていた。しかし油断したよ……まさか歌姫本体の制御装置をハッキングして乗っ取りを仕掛けてくるとは」

「っていうことは、あの歌姫たちは『システム』の統制を外れてるだけじゃなくて――」

「今や『堕天使陣営』の手先だ。もし俺が遅れてお前たちがノコノコ降参していたら、触手の餌食になっていたぞ」



なるほど……だから五月雨が直々に出撃せざる得なくなったのか。

五月雨の当初の目的はあくまでこの戦況を制御することだったはず。

しかし『堕天使陣営』……恐らく時雨さんたちのことだろう……が一部の歌姫のコントロールを奪ったことにより、僕たちを殺す道具として動かすことが可能になった。

五月雨からすれば僕とラプラスは絶対に死なせるわけにはいかない。だから慌てて助けにきたのだ。

「『堕天使陣営』と同じことは俺も考えていた……時雨鏡花に深手を負わせた歌姫は、俺が試験的に『システム』の統制から外した自立型だ。だが『堕天使陣営』のハッカーはその歌姫をハックした上で『夕立始とラプラスの殺害』を指示している。その軍勢が今ここに向かっている連中だ」



その時、地響きと共に次鋒の歌姫たちが商店街まで降りてくるのが見えた。

その数およそニ十体。いかに五月雨でも、とても一人で倒し切れる数には見えない。

「私がシステムに連結して直接信号を送れば、停止させられるかもしれない」



ラプラスがそう申し出たが五月雨は首を振った。

「歌姫が自立制御になっている以上外部からの干渉は無理だ」

「でも……」

「いいから行け。ここは俺が何とかする。……敵に情けをかけながら戦うような奴など、邪魔でしかない」

「情け?」



五月雨は、戸惑うラプラスから僕に視線を移す。

「夕立始。お前は先程、ラプラスと繋がったことでプラズマブレードの感触を手にした。その気になればすでにお前はブレードを生成出来るはずだ。違うか?」

「…………」

「お前が時雨鏡花戦で刃を取らなかったのは、彼女を殺したくないという潜在意識のせいに過ぎない。正直がっかりだよ。君なら好きだった女を殺す、という残酷な選択をも超えていけると思ったんだけどね」

「……そんなものは正しい選択じゃない。そんな選択を選ぶくらいなら、僕は何も超えないままで構わない」

「それじゃダメなんだよ。君は俺の所有物なんだ。俺の望む通りに成長してもらわなきゃ困る」



五月雨が凄みのある声で告げる。

だが、僕が何も言い返さないのを見てさっさと背を向けた。

「お喋りはここまでだ、早くここから立ち去れ。俺も君たちの後は追わないことを約束する。いわゆる休戦協定というやつだ」

「休戦協定……? 僕たちを逃がしたら『システム』が崩壊すると分かっているのに、そんな言葉は成立しないよ」

「成立するさ。君たちが時雨鏡花を置いていってくれるなら」



しかし五月雨の返答は淀みがない。

「どうせ君たちのことだ、彼女も連れて逃げるつもりだったのだろう? もしそれを諦めるのなら、俺も事態が収拾するまで後を追わないことを約束する。これで等価交換だ」

「そんな、彼女は今にも死にそうなんだ! それに、お前と二人きりにしたら確実に時雨さんを殺すに決まってる!」

「今は時雨鏡花は殺さない」



僕の目を見据えて彼は言った。

「今彼女に死なれたら、歌姫を操っているハッカーの居場所が分からなくなる。だから彼女は重要参考人として生かしておく」



その灰色の瞳を見て、僕は一瞬迷う。本当に時雨さんを置いて行っていいのか?

しかし一応五月雨の言うことは筋が通っているし、正直僕たちが時雨さんを連れて行っても適切な治療が出来るとは限らない。

一方、五月雨なら歌姫さえ何とかなれば時雨さんの命を救える。

「絶対に……絶対に生き残って時雨さんを助けろ」



僕が詰め寄って告げると、五月雨は不敵な笑みを浮かべた。

「嬉しいねえ。君に無事を祈られる日が来るとは思ってもみなかったよ」

「お前の為じゃない。時雨さんの為だ」

「分かってるさ。でもいつかきっと君の心は俺のものになる。そう信じてるよ」



この期に及んで気色の悪い発言をする五月雨に寒気を覚えつつ、僕はラプラスの手を引いた。

「行こう……さっき言ってた廃工場まで案内してくれ」

「うん」



僕とラプラスが立ち去った後……五月雨は歌姫の軍勢に向き直り、ご馳走を前にした子供のような笑顔を浮かべた。



「では――『手早く』済ませてしまおうか。この後には飛び切りのデザートが待っているからね」
ラプラスの案内に従って街を進むと、程なくして街外れに廃工場が見えてきた。

どうやら使われなくなってそれほど時間は立っていないらしく、電気や水道もまだ通っている。

鍵のかかっていない裏口から入り、薄暗い工場内のコンテナを背にして座り込むと一気に疲れが押し寄せてきた。

『ソロモン・リング』の反動もあって、全身が筋肉痛になったかのように体の節々が痛む。

「始君、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ。でもこれ以上『リング』を使ったらまた昨日みたいに倒れてしまいそうだ」



僕は弱弱しく笑いながら返すと、ラプラスは僕の顔をジッと見つめた。

「始君、『リング』を貸して」

「え? いいけど……」



ポケットにしまっていた『リング』を渡すと、ラプラスは不意に僕の手を持ち上げて中指にそれを嵌めてきた。

「や、やめてよ。しばらくそれは身に付けたくないんだから」

「安心して。普通に起動するわけじゃないわ……この『リング』には他にも使い道が
あるの」



不意にラプラスは目を閉じ、指輪を嵌めた手を握ったまま額と額を合わせてくる。

「な、何……⁉」

「しー! そのまま静かに座ってて」



彼女の綺麗な顔を目の前にしてドキドキを抑える方が難しかったが、それでも僕は気を静めようと目を閉じる。

すると……不思議なことに、頭の中で徐々に静かなさざ波の音が響き始め、続いて青い海が広がる浜辺の情景が浮かんできた。

黄昏時の茜空も相まって、それはとても幻想的で美しい。

「ラプラス、これは一体……?」

「『コンセプション・リンク』の応用だよ。今私と始君は指輪を通して電気信号で繋がってる。だから、こうして密着すると私が想像しているものを相手に見せることも出来るの」

「なるほど。でも……どうして海?」

「疲労回復効果があると思って。それに私、海が大好きだから想像するのも得意なの」



確かに脳内に広がる海は幻想的でありながらもリアルティがあって、見ているだけで心身が落ち着いていくのを感じた。

心地よい感覚に酔いしれながら、僕はお礼を言う。

「ありがとう、ラプラス」

「いいの。私に出来ることなんてこれくらいしかないから」

「そんなことないけど……そう言えば海にはいつ行ったの?」



単純に興味本位の質問だった。幼い頃から各地の研究所を転々とし、そしてユグド・タワーに幽閉されている少女が海を見る機会などあったのか。

しかしその後しばらく沈黙が続き、僕が心配になった頃合いに彼女は口を開いた。

「フランスにいた頃……お姉ちゃんと一度だけ行ったの。お姉ちゃんとは歳が七つも離れていて、すぐに実家を出てしまったからほとんど会えなかったけど……たまに私に会いに来てくれて色んな所に連れて行ってくれた」



ラプラスのお姉さん……ラプラスと同様『天使』あり、ラプラスを解放しようとして命を落とした人物。

ラプラスはきっとフランスで人体実験目的で捕まり、お姉さんは彼女を救おうとして日本までやってきたのだろう。そこまでは何となく想像できた。

「……何か変なこと聞いてごめん」

「いいの。全ては過ぎ去ったことだから。もうお姉ちゃんは二度と帰ってこない。だからこそ、私はもう二度と誰も失いたくない」



その時――ラプラスが映し出す浜辺に銀色の人影が映った気がして、僕は思わず声を上げた。

「ラプラス! 今のは……!」

「え? 何⁉」



集中力が途切れてラプラスが額を離すと同時に、人影が消えてしまう。

しまった……慌てず冷静に人影を確かめてみるべきだった……

もう一度ラプラスに『コンセプション・リンク』をしてもらう手もあるが、ラプラスも目に見えて疲弊している。次は僕が彼女を癒すべき番だろう。

とは言え、僕には『コンセプション・リンク』のやり方は分からない。

何度か躊躇った挙句、僕はラプラスの小さな体をそっと抱きしめた。

「わわっ! 急にどうしたの?」

「さ、さっきのお礼だよ。人間はハグをすることでも大きな疲労回復効果が得られるって何かの本で読んだんだ」

「……それ、適当に言ってるわけじゃないよね?」

「ほ、本当だって! 嘘ならメイに聞いてみればいいだろ!」



その時、ポケットのライプラリが勝手に起動して悪戯っぽい表情を浮かべたメイが答える。

「確かにハグには絶大なリラックス効果があります。ただ、それは相手が好きな人間である場合に限りますよ?」

「ええ⁉ そうなの⁉」



慌てる僕の体を、今度はラプラスの方から抱きしめてきた。

「ラプ……ラス……?」

「か、勘違いしないで。ただ……始君とこうしているとなぜか寂しくないの。だからこのままでいい」

「わ、分かった」



ドギマギしながら抱き返す僕のポケットから、メイの呟き声が聞こえた気がした。



「神様……そんな分かりやすいツンデレ、今どき流行りませんよ――」
コツコツと革靴の音を響かせて、誰かがこちらに歩いてくる。

長身の腰元まで伸びた波打つ紫の髪に、氷の様な青を放つプラズマブレード。

その刃が消え去った時、私は男の背後の光景を目の当たりして目を見開いた。

死屍累々と重なる、歌姫たちの屍。

全部で五十体は超えていたであろう歌姫たちをこの男はもしかして、たった一人で片づけたと言うの?

「時雨鏡花。もう大丈夫だよ。無粋な来客は全てご退場して頂いた」



ニッコリと笑みを浮かべてその男――五月雨終は私に白馬の王子の如く手を差し伸べた。

「約束だからね。君は責任を持って俺が管理してあげないと」

軋む腕を持ち上げて、私は彼の手を取る。

歌姫にやられた傷と『ソロモン・リング』の反動で満身創痍だったけど、五月雨が歌姫の相手をしている間に多少は回復したみたいだ。

「貴方は……どうして私を助けるの?」



弱弱しい声を絞り出すと、彼は長髪をなびかせて微笑む。

「言っただろう? これは約束なんだ、俺は君を救う義務がある。それが例え憎い堕天使だとしても」

「堕天使……?」

「『天使』でありながら『神様』であるラプに対して反逆の刃を向ける。これを堕天使と呼ばずして何と呼ぶんだい?」



ああ……傍から見ると、私はそう見えていたんだ。

確かに私は『天使』という特殊体質を利用して神を殺そうとした。

そういう意味では私は堕天使であり卑怯者だ。地に堕ちたとしても仕方ないのかもしれない。そして……その報いは案外に早くやって来た。



紳士の如く優しく抱き起こした五月雨は刹那、強烈な膝蹴りを私の腹部に叩き込んだ。



私は成すすべもなく飛ばされ、店の壁に叩きつけられて崩れ落ちる。

「へえ……咄嗟に『リング』を起動して衝撃を緩和するなんて、俺のことを信頼してなかったのかい?」



私は血を吐きながら立ち上がると、青く光る指輪を彼に向けて言い放つ。

「散々私を殺そうと画策してきた男をすぐ信頼するほど無能ではないわ……時雨家の血を甘く見ないで!」

「なら、どうして俺が君を殺せてしまうのかも当然理解しているんだよね?」

「それは……」



その時、一つの可能性に行き当たり私は怒りで声を震わせた。

「そう。始君との約束を守るメリットが最初から存在しない……としたら?」

「まさか貴方、時雨財閥関連の施設を全て破壊する気⁉」



もはやそれしか考えられない。

『ラプラス・システム』に潜入しているハッカーの存在は五月雨にとって脅威だ。

だけど、もし最初から時雨財閥そのものを潰すつもりでいたのだとしたら、私の情報提供がなくてもハッカーもろとも排除出来てしまう。

つまり、利用価値の存在しない私は最初から殺される予定だったのだ。

怒りに震える私を見て、五月雨は天使とは正反対な笑顔を浮かべる。

「まあそう怒らないで欲しい。どのみち時雨財閥の覇権もじきに終わりを告げる。今回の一件で時雨家は失脚し、時雨義治は責任を取って代行者委員会を追放される。君はちゃんとそこまで先を考えて計画を実行したのかい?」

「当たり前よ! 私が『神殺し』に成功すれば私自身、そして国も『システム』の支配から解放される! そうすれば『システム』の後ろ盾を失った貴方は失脚し、父上は『システム』に頼らない古き良き日本を再建してくれるはず!」

「……やはりそうか、時雨鏡花。お前たち一族は昔から『システム』による統治に否定的だった。だから『システム』はお前の排除を指示した」



そして、五月雨は深淵の底を除くような瞳を向ける。

「なぜお前は『神様』を否定する? 事実、『システム』の普及によりこの国家からは事故という現象はほぼ消滅した。適切な未来予知により計画的な人生設計を立てられるようになった。それなのになぜお前はこの理想郷の破壊を目論むのだ?」

「こんな世界は……絶対に間違っている……」



息が苦しい……ゼェゼェと呼吸を荒げながら、それでも私は必死に声を絞り出す。

「……最初から……最初から全て『神様』に運命を定められ、自由を失った世界に何の価値があるの⁉ その代償が夕立君の様な『魔女』と呼ばれる人たちじゃない! 貴方たちは一部の『不適合者』を切り捨てて、『適合者』達に運命を押し付けているだけよ!」

「……あくまでも、それが堕天使たる君の答えなんだね」



そう言って、五月雨は静かにプラズマブレードを生成した。

「残念だよ。どのみち生かしてはおけなかったが、もっとマシな行動原理が聞けると思っていた」

「始君との約束を本当に破る気なの? 私がここで死ねば、彼は必ず貴方を倒しに来る。彼はそういう男よ」

「随分と始君を信頼しているんだね。勘違いしないで欲しいのは、俺が時雨鏡花を生かしておくと言ったのは『歌姫を全滅させるまで』の話だ」

「フン……どこまでもフェアじゃない男、というのは本当なのね。反吐が出るわ」

「時雨家最後の戦士から賛辞を仕るなんて、大変光栄に思うよ」



私は意識を集中させると、『ソロモン・リング』の力を集約する。

青の光が再び全身を満たす中、更に右手にプラズマを集めてボロボロの鎌を作り出し構えを取る。

相手は、山の様に積み重なる歌姫の屍を一人で築きあげた男。

きっとこれが最後の起動、そして時雨鏡花最後の戦いになる。

それでも私は絶対に挫けない。それが時雨家の誇り……そして、最後まで私を救おうとしてくれた始君に報いるということ。



私は恥も外聞も捨てて雄たけびを上げると、最強にして最凶の『天使』に切りかかった。
「⁉ 敵がこっちに来る!」



突如そう叫ぶと、ラプラスは僕から離れて立ち上がった。

それまで彼女と抱き合っていた僕は、狼狽しながら問いかける。

「て、敵って歌姫のこと⁉ まさかアイツ、休戦協定をもう破ったのか⁉」

「分からない! でも商店街の方から五体、歌姫がここへ向かってる! 十分後には始君と戦っているのが視える!」



不安そうな顔で振り返る僕を見て、僕は必死に思考を巡らせる。

五月雨がこれほど早く裏切るのは予想外だったが、逆に考えれば相手は焦っていると考えられる。

なぜなら今ラプラスは『視える』……つまり歌姫の襲撃を予知した。ということは、その歌姫は予知が不可能な自立型ではなく普通の歌姫ということになる。

きっと、五月雨は特別製の自立型歌姫を用意する時間がなかった……もしくは全て時雨さん達にハッキングされて在庫がないのだ。

統制型の歌姫相手なら今の自分でも勝てる……そう思ったところで僕は慌てて首を振った。

ダメだ、歌姫と戦ってる場合なんかじゃない。

もし休戦協定を破ったのだとしたら、確実に五月雨が僕たちを追ってくる!

「今すぐ逃げるぞ! 一番効率のいい逃走経路をサーチして欲しい!」



思考を切り上げて僕は叫んだが、何故か返事がない。

振り返ると、ラプラスが耳元のインカムに手を当てて青ざめた表情を浮かべていた。

「ラプラス? 一体どうし――」

「『システム』と接続できない……通信が切られた……」



そのまま、文字通り普通のか弱い少女と成り果てたラプラスは泣きそうな目で僕を見つめる。



「どうしよう始君――私、何も出来なくなっちゃった」
勝負は一瞬で終わった。

「あ……あ……」



私の鎌が届くより遥か先に五月雨は一瞬で間合いを詰め、腹部をプラズマブレードで深々と貫いた。

彼が剣を引き抜いて私が倒れる。それはまるで最初から決まっていたことのように自然な動きで、流れる川の水のように自然な出来事だった。

その白い手から剣が消え、彼は無表情で私を見下ろした。

その濁った瞳には人間らしい感情は一切感じられない。きっと、ユグド・タワーから眼下の人間を見下ろす時もこんな目をしているのだろう。

血がドクドクと流れ出す感覚が、次第に冷たいせせらぎに変わっていく。

……そう、とても冷たい。まるであの男の目の様に……

……私はどこまでも深く沈んでいく……真っ暗な深海の奥底まで、深く、深く……

「改めて賛辞を贈ろう、翼をもがれた堕天使よ」



冷え切っていく私を見下ろして、彼が静かに告げる。

「秘密裏に夕立始と結託し、更に歌姫をハッキングして私の計画をここまで邪魔した堕天使は君が始めてだ。俺がかつて殺した『天使』ほどには強くなかったけどね」

「……って……呼ばないで……」

「うん? 何て言ったんだい?」



しゃがんで尋ねる彼に、私は儚い声で告げる。

「私を……堕天使って呼ばないで……」

「………………なぜ?」

「私は堕ちてなんかいない……私はどこまでも自由の為に戦った……だけど貴方は神の力を利用して……『天使』の立場を利用して……この世界を歪めている……」

「………………」

「……ねえ……答えてよ……」



「私と貴方……本当の『堕天使』は……一体どっちなのかしら……?」



私の話を、彼は黙って聞いていた。

それは、死にゆく者への最後の手向けのつもりなのかもしれない。

世界が、視界が、どんどん揺らいで狭まっていく。街灯の光が段々と消えて、夜の帳よりも深い暗闇に包み込まれていく。

これが死ぬっていうことなのかしら……だとしたらこれから私が行く先は天国?

それとも彼が言うように、堕天使の私はやっぱり地獄へ行くの?

暗い……冷たい……寂しい……

死の間際になって、私は初めて孤独という感情を感じた。

今まで孤高の存在として生きてきた。そのことに一度も疑問を感じたことはない。

だけど今なら分かる。

寂しいというのはきっとこの世で最も辛くて、悲しい感情なんだと……



――そんな私の冷え切った手を、誰かが握るのを感じた。



私が薄く目を開けると、一瞬そこには明るく微笑む始君の姿があった。

始君……こんな私に触れてくれるというの……? だったらお願い……もう二度とこの手を放さないで……

だけどもう一度瞬きをすると始君はいなくて、そして五月雨がなぜか私の手を握っていて――

体温の無い手で私の手を包みながら、彼は一言だけ置手紙の様に告げた。

「お前一人だと思うなよ」

表情の見えない彼の言葉に、私は瞬時に全てを理解して……そして微笑んだ。

五月雨は最後、孤独に震える私に寄り添ったわけではなかった。ただ厳しい言葉を投げつけただけだった。

それでもきっと、私は救われたのだと思う。

例え温かみが無くても、例え歪でも、不器用な誰かの感情に少しでも触れることが出来たのなら――



「こんな時だけ天使の真似事だなんて……フェアじゃないにも程があるわよ……」



そのまま、私はゆっくりと温かい暗闇の中へ消えた。
突然予知が使えなくなってしまったラプラスを連れ、僕は工場地帯をやみくもに駆け抜けた。

こうなることは予期しておくべきだった。

『システム』の支配権を握っているのはあくまで『代行者陣営』なのだ。

その気になればいつでも『ラプラス・システム』とラプラス本体の連結を解除し、彼女から予知能力を奪うことは出来た。

五月雨が今までそうしなかったのは僕たちを逃がさない為だろう。

ラプラスの能力を戦いと同時にすぐ奪えば、僕達は時雨さんの説得を諦めて二人で逃走する可能性があった。

しかし時雨さんを救出出来なくなった今、ラプラスと『システム』を繋いでおく必要はない。

後は慌てて逃げ出す僕らを適当な歌姫で足止めし、五月雨が追い付いたらその時点でゲームオーバー。

くそ……こんな所を走っている場合じゃないのに。

一応五月雨は時雨さんを殺さないと約束したものの、それは彼女からハッカーの居場所を聞き出す為だ。

用済みとなって排除される前に時雨さんを助けに戻る必要がある。

だが今は自分の身を守るのに精一杯という体たらくだ。僕がもっとしっかりしていれ
ば……!

その時――頭上から降り注いできた歌姫たちを前にして、僕達は立ち止まった。

「始君……」

「ああ、分かってるよ神様」

もう一度『ソロモン・リング』を起動し、僕は迷いを振り払って告げる。



「無茶はしないさ。僕にはやるべきことがまだまだたくさん残ってるんだ!」
追っ手の歌姫との戦いは熾烈を極めた。

相手は『システム』統制型の歌姫のおかげで攻撃が当たりにくく、反撃するのは容易い。だが、僕はあえてプラズマブレードの生成は試みなかった。

その理由は二つ。

一つは戦闘中、作ったこともないプラズマブレード生成出来るか試すのがリスキーであること。

二つ目は、生成出来たところで結局使いこなせない可能性が高いことだ。なら、今まで通り身体能力と小細工を駆使して戦った方がまだ安全だ。

正面突破は難しいと踏み、僕はわざと歌姫を引きつけた上で工場の窓を突き破って中へ飛び込んだ。

ラプラスを狙われたらすぐ戻るつもりだったが、歌姫たちは問題なく僕の後を追って工場へ入ってくる。

そこは使われなくなって間もない、アパレル用品の仕分けをするライン工場だった。

縦に並んだいくつものラインと、その外周を品物を運ぶ為のレールが囲んでいる。

更に隣のエリアには荷物を運ぶためのコンテナが並んでいて、まだ新しい為火災対策用のシャッターやスプリンクラーもそのままだ。

僕は次々とラインを飛び移り、レールの上に飛び乗って駆け抜けた。

歌姫が後方から追ってきたところで進路を変え、コンテナエリアまで移動してそのうちの一つを持ち上げる。

う……重い。『リング』の力を借りているのに腕が軋み、足がガクガクと震える。

それでも僕は渾身の力で向きを変えると、考えなしにコンテナエリアへと突っ込んできた歌姫の一体にそれを思いきり投げつけた。

グシャ! と肉が砕けるおぞましい音がして歌姫とコンテナが落下していった。

その間に三体の歌姫がエリアに着地したが、体制を整える間を与えず僕はコンテナの山を歌姫目掛けて押し倒した。

激しい金属音を立てて山が崩れ、肉と骨が裂ける音がする。

回り込んで確認すると、コンテナの隙間から触手が飛んできて危うく首が飛びそうになった。

生き残った歌姫はコンテナの隙間から這い出ると、悲し気な歌声を上げながら僕の前に立ちはだかる。

僕は空中に床を作って歌姫の上を飛び越えると、伸びてくる触手を避けながら再びラインエリアへ向かった。

自立思考が出来ない故に、歌姫は何も考えず僕の後を付いてくる。

僕はそのままラインエリアのレールの上に立つと、歌姫も間髪入れずレールの上に飛び乗った。僕に先手を取らせてはいけないと一応は学習したみたいだ。

だけど、それでもまだ遅すぎる。

「ねえ知ってる? このレールは人間は立ち入り禁止なんだぞ」



僕の挑発に、歌姫は相変わらず悲哀に満ちた歌声で答える。

「ああそうか、そう言えばお前は人間じゃなかったね」



更にそう挑発し、注意を引いたところで僕はレールのフェンス越しに赤い起動ボタンを叩いた。

ガクン、と重々しい音を立ててレールが動き始め、僕と歌姫が逆時計回りに移動していく。

レールの稼働を予期していなかった歌姫はバランスを崩して倒れ……次の瞬間、レールの連結部分に全身を叩きつけられた。

「ヒュオオオオ!」



歌姫が苦痛の叫び声を上げる間にもレールは止まらず、体は連結部分の隙間に挟まれ巻き込まれていく。

そして遂に全身が見えなくなり……連結部分の反対側から流れてきた時には、歌姫はボロボロの肉塊になっていた。

中々にスプラッターな殺し方をしてしまい吐き気を覚えるが、自分も巻き込まれては本末転倒なので慌てて飛び降りる。

例え化け物が相手でも生き物を殺すのはやっぱり嫌だな。この工場だけでも四体
も――


ん……四体⁉


しまった、と僕は慌ててラインを飛び越えて窓を破り外に飛び出す。

見ると、五体目の歌姫が壁際に追い詰められたラプラスに迫っているところだった。

ラプラスは精いっぱい石を歌姫の顔面に目掛けて投げつけるが、容易く弾かれている。

僕は慌てて武器になりそうなものを探したが、工場の外には見事に何もなかった。このままでは間に合わない――



「おいおい始君。ダメじゃないか、ちゃんと俺がいない間は神様のお守りをしてくれないと」