まあそれでも、今日は『彼女』と初めて話せたのだから案外世の中捨てたもんじゃない。

『魔女』だからって僕は人生を諦めていなかった。

生まれつきハンディキャップを背負っている人は大勢いる。僕の場合、それがたまたまこの特異体質だっただけだ。

諦めずに前向きに生きていれば、いつか神様だって振り向いてくれるはず――


【ピコンッ】


すると、『神様』からお告げが来た。

僕は反射的にポケットから『ライプラリ』を取り出し夢中で起動する。

この携帯端末型装置はあらゆる情報――そう、未来さえ閲覧できる。

だからその意味を込めて『ラプラス』と『ライブラリ』をもじりって『ライプラリ』と名付けられた。

この携帯端末型の装置を通せば誰でも『神様』と繋がり、尋ねることが出来る。

ケンカした友人と仲直りする方法も。自分に向いている職業も。……好きな女の子に告白して成功する確率も。

長方形の液晶パネルをタッチすると画面が明るくなり、中央にライトグリーンのツインテールをした少女が幾何学模様のエフェクトと共に出現してニッコリと笑う。


「ライプラリへようこそ、ご主人様。今日はどんな未来をお探しですか?」


『ライプラリ』に標準搭載されているナビゲーションメイド『メイ』。

いかにも若者受けしそうな露出の多い青のコスチュームと、文字通り人間離れした精巧な顔立ち。

見た目は完全無欠な美少女……なのだが、お節介な上にデリカシー皆無なので(所詮AIということだ)僕は嫌いだった。

「今届いたお告げ、見せてくれ」

「あ、あの恋愛相談の件ですね! ご主人様もそういう年頃ですもんね! メイも混ぜて下さいよ~!」

「何でお前が知ってるんだよ」

「ご主人様の性事情……いえ諸事情を知っておくのはメイの大事な役割ですから」
彼女はその青い目を☆マークに輝かせる。

「恋バナみたいなノリやめろよ。大事な相談なんだから」

「ちぇっ……面白そうなのに」



途端、掌返しで舌打ちしながらメッセージボックスを適当に掻きまわす。

該当するメッセージを呼び出すと、メイは『後で私にも結果を教えて下さいね。さもなくば学校のアドレス全部にばら撒いちゃいますから☆』と恐ろしい脅迫を残して消えた。

彼女の妄言を綺麗に忘れて、ゆっくりと箱型のメッセージボックスをタッチする。

箱が勢いよく展開され、中から『神様』への相談内容とそれに対するお告げが書かれたテキストメッセージが飛び出してくる。


『予測申請:二千三十一年七月二日、16:00に学校の屋上で時雨鏡花に告白した場合の成功確率』


対する『神様』からのお告げは酷薄なものだった。


「成功確率……0%。警告:更なる因果率低下の恐れ有。行為の中止を推奨」


僕は一瞬だけ顔を硬直させ……ふと、口元から笑みをこぼした。

勉強も人間関係も何もかも上手くいかなくて。

挙句の果てに神様にまでこんなことを言われて。

それでも、どうして僕は笑っていられるのだろう。


決まっている。最初から分かっていたことだから。


僕は明日、時雨鏡花(しぐれ きょうか)さんにフラれる。

容姿端麗、成績優秀、財閥の令嬢でありながら誰にでも優しく接する理想の美少女……

そんな彼女に、スクールカースト最底辺の自分が惚れてしまったのは愚の骨頂だろう。

本当は、『神様』に相談するまでもないことだった。

だけどこうして実際に『お告げ』を突き付けられたことで僕はかえって吹っ切れた。

警告なんて知ったことじゃない。明日、時雨さんに告白してものの見事にフラれてやろう。

それがこの全知全能の『神様』とやらに対する細やかな反逆だ。

「ご主人様~。そろそろ行かないと体育始まっちゃいますよ?」

「え? ……うわっ、すっかり忘れてた!」



僕はライプラリを切ると、慌てて廊下を走り出した。
「夕立始(ゆうだち はじめ)君。話ってなんでしょうか?」



夕日を背に振り返りながら、時雨さんは風になびく優美な黒髪を抑えた。

屋上で好きな女子生徒と二人きり。

『神様』のお告げで結果は分かり切っていても、自然と鼓動が高鳴るのを抑えられない。

「あ、えーと……あの、ご迷惑じゃなかったですか?」

「大丈夫よ、ちょうど外の風に当たりたかったから」

「それは良かった」

「それで話とはなんでしょう? 昨日、折角起こしてあげたにも関わらず授業に遅刻したことへの言い訳ですか?」

「そ、それは本当にすみませんでした……つい二度寝してしまって……」

「フフッ……そんな面白い言い訳は初めて聞きましたよ?」



つい下手な嘘をつく僕なんかにも、時雨さんは笑顔で接してくれる。

本当に天使の様な人だ。

「でも、ここに来てもらったのはそのことじゃなくて……その、大した話じゃないんですけど……」

「そう? その割には汗が凄いですよ。これをどうぞ」



そう言って彼女は綺麗な花柄のハンカチを差し出してくる。

「え⁉ そんなとんでもない……!」

「遠慮しなくていいのですよ。良かったら差し上げます」

「あ、ありがとうございます」



ヒマワリの様な笑みを浮かべる彼女の前で、ボーッとしながらハンカチを受け取る。

何だか妙な展開だ。

彼女も流石に、こんな場所に二人きりで呼び出された理由は薄々察しているだろう。

だとしたら、これから振る相手に対してこんなに親切にするだろうか?

いや……きっと時雨さんはどんな相手に対してもこうなのだろう。そうに決まっている。

だから悲しい希望を抱いたりしちゃダメだ……!

僕は深呼吸し、眩しい程に美しい彼女の顔を真っすぐ見つめた。

「時雨さん、あなたのことが好きです。付き合って下さい!」

時の流れが、急に重くなった様に感じた。

時雨さんは表情を変えることなく僕を見つめ返して……そして、ゆっくりと薄紅色の唇が開いた。

「ごめんなさい」



ガクッ、と肩が落ちる。

分かっていたことでも、実際に直面するとやっぱりショックだった。

しかし、彼女の言葉はまだ続きがあった。

「私、夕立君のことを誤解していたみたいです。こんな正面から堂々と思いを伝えられるほど意思が強くて、男らしくて――」



え? そんなバカな。

これってまさか――

早鐘の様に打つ胸を抱えて顔を上げた僕に、時雨さんはいつもと変わらぬ表情と声で告げた。



「――そして、この私に求愛しようなどと考えるほどに愚かだったなんて」
鳴りやまない『ライプラリ』の着信音と、閉め切られた部屋。

フードを被ってベッドに横たわったまま、何日が経ったんだろうか。

虚ろな目が見つめる先には、机の上の花柄のハンカチがある。

どうして捨てられないのだろう。

あの日僕の想いを踏みにじり、学校中に言いふらし――挙句、生徒を扇動してイジメにあわせ、自分を不登校にまで追い込んだ張本人に貰ったものをなぜ。

「時雨さん……?」



あの日。

聞き間違いだと思った僕が声をかけると、彼女の顔から静かに表情が剥がれ落ちた。

別人のように冷たい表情を浮かべた彼女は、僕へ嫌悪感剥き出しの眼差しを向けて吐き捨てる。

「分からないのですか? 貴方の様な不燃ゴミに告白されるのがどれほど屈辱かということが。そうね、こう言えば理解できるかしら……まるで罰ゲームで告白するターゲットに選ばれた、クラスで一番冴えないモブ女の様な気分よ」

「そんな……違う……時雨さんはそんなことを言う人じゃない……」

「貴方に私の何が分かるんですか? ……ああそうね、少なくともこの告白が失敗することは分かっていたはずよね?」



そう言って、時雨さんは『ライプラリ』が入っている僕のポケットの膨らみを睨んだ。

「それでも貴方は実行した。正直言って、ここまで私を怒らせた虫けらは貴方が初めてよ」

「ど、どういう意味ですか……?」

「貴方には罰が必要ってこと」



そう言って――時雨さんは微笑みながら耳元に顔を近づけ、蠱惑的で危険な声色を紡いだ。

「とびきりきついオシオキが、ね」



凍り付いたままその場を動けない僕を残して、彼女は歩き出す。

そして屋上のドアを開け、ふと思い出した様に時雨さんはこう言い残した。


「そうそう、そのハンカチは気にしないでいいわよ――いつも一束は持ち歩いているから」


――失敗すると分かっていても、何かが変わると思っていた。

『神様』に逆らってでも思いを伝えることに意味があると思った。

事実、全ては一変した。

好きな女の子にフラれ、その本性を目の当たりにし、そして学校中を敵に回すという形で。

僕は……努力することすら許されない人間なんだね。

何かを変えたいと願って行動を起こすことが善だなんて、最初から間違っていた。

こんなことなら『魔女』の烙印を押されたまま目立たぬよう、ひっそりと生きるべきだった。

それでも、僕は自分が小さな努力したという事実を否定したくなかった……だからきっと、時雨さんに貰ったハンカチを今でも捨てられないんだ。

僕はゆっくりと体を起こすと、ハンカチと『ライプラリ』をポケットにしまった。

行こう。

どうしても捨てられないのなら……僕のこの体ごと捨てに行くしかない。

行き先は昨日から決めていた。

最後まで稚拙だった僕の、最後の稚拙な願い。



終わる時くらいは、誰よりも高い場所へ。
『ユグド・タワー』は日本、いや世界で最も高い人工建築物だ。

高さは千五百四十メートル。

世界樹ユグドラシルの名を由来とするだけあって、その威容は天に届きそうな大木を彷彿とさせる。

僕はポケットから『ライプラリ』を取り出して時刻を確認する。

二十一時。

『ユグド・タワー』の一般開放エリアが閉館するのは二十二時だから、後一時間の猶予がある。

ギリギリの時間に来たのは、あまり長い間うろつくと怪しまれるから。

ごく普通の観光客を装い入り口でチケットを買う。

タワーの中に入ると、本当に大木の内部に入ったかの様な景観に思わず息を飲んだ。

木の洞のように重厚な茶色の内壁。

深碧の光が降り注ぐ内部の頭上には螺旋階段がどこまでも続いており、その中央にスケルトンのエレベーターチューブが二本屹立している。

チューブ内部では、天国行きの片道切符の様に観光客が空高く運ばれていく。

もちろん螺旋階段では間に合わないので、列に並んで僕もエレベーターに乗り込む。

この国のシンボルなだけあって、閉館間際でもエレベーターはほぼ満員。

最上階の展望フロア――一般人が立ち入れる一番高い階に到着すると、眼下で小さなキノコの様に生えている高層ビル群が見えた。

ここまで高いタワーになると、夜景を楽しむというよりは星空を眺めるのが目当てになってくる。

賑わう館内を僕は無心で歩き――程なく、通路の壁に関係者専用と書かれたドアを見つける。

予想通りドアは施錠されていて、横のカードリーダーにカードキーを通さないと開かない仕組みになっていた。

僕は焦ることなく内ポケットを探り、タワーに勤務している父親から盗んだカードキーを取り出す。

人目の少ないタイミングを突いてキーを通す。……が、無情にも小さな警告音と共にドアの脇のランプが赤く灯った。

想定外の事態に頭が真っ白になる。まさかキーの権限が足りないのか?

ゆっくりその場を離れ、動揺を抑える為に一旦深呼吸をする。

詰めが甘かった。父親はこのタワーに昔から勤めているが、それでも役職は中間管理職止まり。

もしこれより上層に機密レベルの高い何かがあるのだとすれば、父親の権限ではパス出来なくても不思議ではない。

しかしこれより上の階となると、後もう数フロアしかないはず。そんな場所に一体何があると言うのだろう……?

考えても仕方ない。どうする? 一旦今日は引き返すか?

必死に考えながら歩き出した時、すれ違いざまに誰かにぶつかってしまった。

咄嗟に立膝を突いた僕に、その人物は屈んで手を差し伸べる。

「おっと失礼、少年。大丈夫かい?」



声をかけてきたのは、紫色のロングヘアーにグレージャケット姿の長身の美男子。

プロポーションのせいでかなり年上に見えるが、雰囲気からして二十歳前後というところだろうか。

紳士的な物腰に好感を覚えたが、僕はその手を借りることなく立ち上がった。

「大丈夫です。自分で立てますから」

「そうかい? それでも君は俺の手を借りるべきだったと思うけどね」

「どうしてですか?」

「少年の振る舞いはどこか危うい」



男は僕の目をジッと見据えた。

「罪に飲まれ、必要以上に自分を追い込んでいる様に見える」



背筋をゾクッと悪寒が走った。

全てを透徹するような灰色の瞳から目を逸らし、僕は呟く。

「言ってる意味が分かりません」

「それは失礼。通行の妨げだし、俺は行かせてもらうよ」



そう言い残して男は、関係者入口のドアへ向かってカードキーを取り出す。

タワーの関係者だったのか。などと思っているうちに男はロックを解除して中へ消えた。

後を追う間もなくドアが降りてしまい、僕はまたしても立ち往生する。

ライプラリで時間を見ると、すでにリミットまで二十分を切っていた。もう時間がない。

その時、僕は足元で微かな光沢を放つ何かに気付いた。



そんな……まさか――
僕は男が落としていったスペアキーを拾い上げると、警戒しながらそれを見つめる。

「どういうつもりなんだ?」



わざと落としたとは考えにくい……が、普通こんな大事なものを落とすだろうか。

考えても仕方ない。僕は人目を盗んでカードリーダーにそれを通した。

あっけなく緑色のランプが灯り、ロックが解除される。

やっぱりこれは罠なんじゃないのか?

そんな考えが頭をもたげるが、もし罠だとしても僕には選択肢などない。

どうせ不法侵入で捕まったところで『目的』が達成出来ないだけだ。

僕は解錠ボタンを押し、誰にも気づかれず中に入った。

中は通路と打って変わって真っ暗で、小さな鉄製の階段が上に続いている。

タワー関係者が通る場所には見えなかったが、僕は意を決して階段を登った。

コン、コン、と金属的な足音が虚空を震わせ、次第に天望のフロアの喧騒が遠ざかっていく。

ここは地上何メートルなんだろう。僕は今、一般人の中では世界で最も高い場所に来ているはずだ。

そう考えただけで呼吸が苦しくなる様な錯覚に陥った。

この先には天上の神が待っていて、罪を犯しに来た僕に裁きを下すのではないかと。

そんな馬鹿げた妄想までもが脳裏を過る。

階段を登りきると、目の前に先ほどと同じ様な鉄製の扉が現れた。

僕はスペアキーを取り出したが、よく見るとカードリーダーがないことに気付く。

その代わりに扉の側面の壁にはキーパッドと、アルファベットで刻み込まれた文字があった。



『What's your name?(あなたの名前は?)

by Laplace's demon.(ラプラスの悪魔より)』



僕の名前? ラプラスの悪魔?

どういう意味だろう?

問題を改めて見直すも、ただでさえ落ちこぼれの僕には難問だった。

悩んだ末、僕は渋々ライプラリを取り出す。

『彼女』に会いたくなくてライプラリには極力頼らないようにしていたが、背に腹は変えられない。

ライプラリを起動すると、幾何学模様のエフェクトと共に『ナビゲーションメイド・メイ』が現れる。

見慣れたアンドロイド調の少女が、ゆっくりと目を開きお決まりのセリフを口にする。

「ライプラリへようこそ、ご主人様。今日はどんな未来をお探し……って、何でそんなトンデモナイ場所にいるんですかッ⁉」



すぐに位置情報探索で『ユグド・タワー』最上部にいることに気付いたメイがキンキン声で騒ぐ。僕はそんなメイを押し殺した声で黙らせる。

「シッ、静かに。誰かに気付かれたらどうするんだ」

「フフーン、そういうことですか。いいですよ、黙っててあげますよ? 例の結果を教
えてくれたらですけどね」

「例の? そんなに人の色恋沙汰を知りたいのか。AIのくせに」

「そりゃ気になりますよ~これでもメイちゃんは乙女ですから」



わざとらしく顔を抑えて頬を赤らめるAIに、僕は黙ってハンカチを突き付けた。

「これは何ですか? ご主人様?」

「告白した時に時雨さんにもらったんだ」

「えー! それってつまり成功ですよね⁉ おめでとうございます――」

「常に一束持ち歩いてるって言われたよ」

「え……?」



メイの顔から笑顔が消える。

「この数日メッセージが何百通も来てたことは知ってるだろ。僕がもう何日も学校に行ってないことも」

「あの……ごめんなさい。ライプラリがスリープ状態だとメイには何も分からず……」

「最新鋭のAIならそれくらい察しろよ!」



思わずライプラリを壁に叩きつける。

これがただの八つ当たりだってことは分かってる。

話す気などなかったのに……結局AIにぶちまけて行き場のない感情を押し付けていることも。

僕はどうにか呼吸を整えると、すっかり縮こまってしまったメイに問う。

「もうこの話は終わりだ。今日は未来を聞きたいんじゃない。今どうしても解かなきゃいけない暗号がある。分からない英単語があるから、翻訳と解読の手助けをして欲しい」



本来なら立ち入り禁止エリアへの侵入の幇助けなど、公的なナビゲーションAIは絶対しない。

だが先程の負い目もあってか、メイは珍しく殊勝な顔で頷いた。

「分かりました……それで少しでもご主人様のお手伝いになるなら」

「じゃあ頼む」



僕がライプラリを暗号に近づけると、メイは即座にそれを翻訳する。

「んーと……直訳すると『あなたの名前は? ラプラスの悪魔より』ですね」

「それくらいはアホでも分かる。ただ『ラプラスの悪魔』という言葉自体が分からない。この世界の神様が悪魔って……どういう意味だ?」



「少し長くなりますが、それは『ラプラスの悪魔』という有名な逸話が元になっています」
メイが告げると、彼女の背景に白髪をした貴族風の外人の肖像画が浮かび上がった。

「十八世紀の物理学者、ピエール=シモン・ラプラス。彼が提唱した学説が後に『ラプラスの悪魔』と呼ばれるようになったことが今の『未来視の神・ラプラス』の由来となっています。その学説の内容は『ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に理解すれば、未来までも完全に把握できる』というもので――」

「ストップ! 僕にも理解出来る言語で頼む」

「はあ、しょうがないですね……例えばここにリンゴがあります」



嘆息しつつ、メイは画面上にリンゴを出現させて手に取る。

「このリンゴから手を離したら、どうなると思いますか?」

「地面に落ちる」



僕が即答すると同時に、手を離したリンゴはプカプカと宙に浮いていた。

「残念でしたね。答えはこの空間は無重力なので浮くんですよ」

「ズルいぞ。無重力状態だなんて言ってないじゃないか」

「フフ、分かりました。じゃあ次の問題では余すことなく説明します」



メイが意地の悪い笑みを浮かべ、再びリンゴを掴む。

「では問題です。ここから79m先にご主人様がいます。そこに向かってこのリンゴを初速度30m、打出角度60°、重力加速度9.80665mで投げた場合果たしてご主人様に命中するでしょうか? 空気抵抗はないものと想定します」

「そ、そんなの分かるわけないだろ」

「どうしてですか? さっきと違って必要な情報は全て伝えましたよ?」

「ぐぬ……」



どこまで性格の悪いAIなんだ。僕は思わずもう一度ライプラリを叩きつけたい衝動に駆られる。

そんな僕を尻目に、メイは『では答え合わせです。えいっ』とリンゴを投げる。

リンゴは凄まじい勢いで飛んでいき、画面の遥か彼方の僕に当たってグチャ! っと僕の頭ごとグロテスクに爆散した。

「おい。今お前のご主人様が爆死したぞ」

「これが答えです。もちろん私は計算済みでしたので百パーセントこうなることは分かっていました」

「無視かよ。大体お前は何がしたいんだ。恋愛運も学力もない僕をからかってるの?」

「違いますよ! これくらいは高校数学をマスターしてる人なら誰でも分かります。でも、それがもっともっと複雑になったら?」



瞬間――突然画面が真っ暗になり無数のリンゴが辺りを漂い始めた。

さながら、宇宙を埋め尽くす星の様に揺蕩うリンゴの中からメイの声が響き渡る。

「今ここにある何億、何兆というリンゴの動きを全て予測することは流石に高性能AIにも出来ません。だけどもしそれが出来る存在がいたとしたら? それどころか、宇宙全ての物体を掌握しその運動を完璧に計算することさえ可能だとしたら?」

「そ、それは……」



「その存在はあらゆる物体の未来の動きまで把握し――結果的に、完全な未来予知能力を持つことになりませんか?」
あまりにもスケールの大きな話に、頭が付いていかなかった。

「つまり……その存在が『神様』……?」



僕が沈黙を破ると同時に画面の異様な光景は一瞬で消え、真っ白な空間にメイがいつも通りの笑顔を浮かべていた。

「さあ? どうなんでしょうね」

「どうって……今お前が言ったんじゃないか」

「私はただ、ピエール=シモン・ラプラスが提唱した『ラプラスの悪魔』の説明をしただけです。本当にそんな超越的な存在がいるとは言っていません。それに――」



メイは、画面越しに僕を覗き込んだ。

「ご主人様は、今の話を聞いてその存在が本当に『神様』だと思いましたか?」

「それは……」



少し考えた後、僕は答える。

「違う、かも。そんな想像を超えた恐ろしい能力を持つ存在は……神様というよりは悪魔だろうな」



全ての未来を掌握する。それはきっと、漫画やアニメに出てくるあらゆる異能の頂点に立つ最強の力だ。

そんな力を持つ存在がもし実在するならば、それは人類にとっての脅威に他ならない。

その答えを聞いて、メイは黙って僕を見つめた。

「そうですよね……やっぱりそんな存在は悪魔だと思いますよね」

「どうしたの? 何でそんな顔をするんだ?」

「いえ何でもありません。私が話せることはここまでです」

「待ってよ! その話とこの暗号に何の関係があるんだ? 他にヒントはないのか?」



今の話だけでは、暗号との関係性がさっぱり分からない。

だが彼女の返答は素っ気なかった。

「ただでさえ禁則事項を破ってここまで説明してあげたんです。これ以上AIに頼っていると、ご主人様のただでさえ小さい脳が更に委縮してしまいますよ?」

「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないんだよ! このままじゃずっとここで立ち往生だ」

「だったらすぐに回れ右して帰ればいいんじゃないですか? バカバカしい『目的』なんか忘れて」

「もういい、ご忠告どうも!」



僕は腹立ち紛れにライプラリの電源を切って乱暴にポケットに突っ込んだ。

さり気なく『目的』を把握され、それでも尚僕にヒントを与えた彼女が腹立たしかった。

『どうせ貴方にはこの先へは進めない』……そう言われている気がしたのだ。

冗談じゃない。最後までAIやら『神様』にバカにされたままで終わってたまるか。

先ほどの説明を思い出しながら、僕は暗号に向き合う。

よく考えると、メイが話した情報は国家機密レベルの内容かもしれなかった。

この世界を統括する未来視の神様。生き物か概念かすら分からない万物の頂点。

そんな存在がどうやって未来予知をしているのか、そのメカニズムが世間に公表されたことは一度もなかったのだ。

あらゆる未来を予知する全知全能の存在――『ラプラス』。

大切なのは、ラプラスにとって僕が『どんな名前』なのかということ。

「ラプラスは神様」



僕は呟きながら壁をなぞる。

「だけどその由来は悪魔」



不思議と頭が冷えていく。

何の根拠もないのに、僕にならきっと『神様』の気持ちが分かる――そんな気がした。

一度整理してみよう。

僕は『神様』のお告げに逆らって時雨さんに告白した。そしてその挙句、人間にとって最大の禁忌まで犯そうとしている。

神への反逆者。そう解釈すれば僕は『悪魔』と言える。

だけど『神様』の由来は『ラプラスの悪魔』だ。

だとすれば僕は『悪魔』に抗う者ということになる。

悪魔の敵は誰だ? もしかして僕が神様なのか?

いや違う。僕はそんな強大で唯一無二の存在なんかじゃない。

もっと神様に仕える様な、そんな何か適切な存在が相応しい。

僕はもう一度壁に刻まれた文字をなぞり――瞬間、視界が眩んで鮮烈な光と共に弾け飛んだ。



『――忘れないで』
何だ? 暗闇の向こうから脳裏に知らない女性の声が反響する。


『例え忘れてしまっても、思い出して』


誰だろう? 初めて聞くのに、まるでずっと昔から知っていた様な――



『だって貴方は――私に会いに来る為に生まれてきたのだから』



刹那。

視界が明るくなって、青い液体とガラス越しに見えたのは――サファイアの瞳とシルクの銀髪。

ドンッ! と。

胸を撃ち抜かれる様な衝撃と共に我に返り、答えが浮かぶ。

そうか、そうだったんだ。全て思い出した。

僕は最初からここに来る運命だったんだ。

僕は操られる様にキーパッドに触れ、とある単語を打ちこんだ。


『天使』


ガチャ!

解と共に施錠が外れ、扉のランプが緑色に灯って――



僕は約束の彼女と会う為に――まだ見ぬ世界へと踏み出した。
踏み出した先には、想像を遥かに上回る世界が広がっていた。

ガラス張りの床と、その下に満たされユラユラ揺蕩う海より青い液体。

壁に沿って並ぶ卵型の球体と、中央に置かれた筒状のドーム。

ドームの中には気体か液体かも分からぬ紫の球体が浮遊し、よく見るとその表面には数字と秒針が浮かび上がって時を刻んでいた。

漆黒の天井には、まるで本物の夜空の様に無数の星が瞬いている。

例えるならそこは、不可思議な研究所と魔法使いの住処を足した異世界。

「ここはどこなんだ……?」



まさか世界最長のタワーの最高階に、こんな世界が広がっていたなんて。

恐る恐る進むにつれ、壁や床を伝うケーブルが侵食するツタの様に増えていく。まるでその奥にある強大な存在へと収束していくかのように。

ここに踏み入った時点で『それ』の気配は感じていた。

さっきのは幻聴や幻覚なんかじゃない。僕はずっと最初から、この先にいる存在に会いに来る運命だったんだ。


『Laplace's demon.』


脳裏を過る、壁に刻まれたあの文字。

期待と興奮で鼓動が早鐘の様に鳴り響く。このタワーに来た当初の目的すら忘れそうになる程に。

僕は吸い寄せられるように、青く染まった空間を進む。

そして遂に最奥の壁まで辿り着き、僕は驚きに目を見開いた。



「何だ……これ……?」