『神様』と出会った日――ユグド・タワーから帰ってきて三日が過ぎた。

逃走はとてもスムーズだった。何故か扉は全て開いていたし、エレベーターも稼働していた。

きっとラプラスが脱出の手助けをしてくれたんだろう。

僕はあれからずっとライプラリを片手に待ち続けている。

連絡が来る保証などない。そもそも彼女は捕らわれの身だ。連絡したくても出来ないのかもしれない。

それでも今は待つしかないんだ、と僕は必死に心を落ち着かせる。

「――女の子の方から連絡が来るのをウジウジ待つなんて、みっともないですよご主人様」

「うわっ⁉」



突然画面にメイが飛び出してきて、僕はベッドの上で尻もちをついた。

「何だよ、お前には関係ないだろ」

「立ち入り禁止エリアへの侵入の片棒担がせておいてよく言えますね。私も共犯者なんですからいつでも相談に乗りますよ?」

「だったら聞くけど、神様を振りむかせるにはどうすればいいんだ? ……恋愛的な意味じゃなくてだけど」



苛立ち紛れと意地悪半分のつもりだったが、メイは意外にも真面目な表情で答える。

「ヒキニートに惚れる神様がいると思いますか?」

「え?」

「ヒキニートに惚れる神様がいるかって聞いてるんですよこのボケナスがッ!」

「急になんだよ! ……あ、僕のことか」



メイはお構いなく目くじらを立てながら僕に捲し立てる。

「そうですよ! タワーから帰ってもう三日、学校に行かなくなってから一週間も経ってます。まずは学校に行って下さい。ヒキニートが一丁前に女の子の背中を追いかけるなんて百年早いッ!」



相変わらずデリカシーのない言い草にイライラしたが、確かにメイが言っていることは間違ってない。

下手したら、こんな頼りがいのない少年のことなどとっくに忘れられている可能性すらある。

「そうだよな……あの子が頑張ってるのに、僕が頑張らないわけにはいかないよね」



僕が鞄を見つめて呟くと、メイが意地悪な口調で言う。

「おや? ご主人様ったら案外色恋沙汰に対する切り替えは早いタイプなんですね?」

「うるさいそんなんじゃないッ!」
季節は冬。

十二月の冬休み直前ともなれば、学校へ向かうまでの吹き付ける風が鋭利な刃物の様に思えてくる。

もっとも、この後学校で待ち受けている試練を考えればそよ風に等しい。

いじめは継続するし、伝染する。

『魔女』の烙印を背負っている上時雨さんの不興を買った今、僕が再び登校するのは飛んで火にいる夏の虫だ。

――まあ、すでに一度自殺しようとした僕からすればなんて事はないけど。

だが意外なことに……覚悟を決めて教室に入った僕に、クラスメートたちの罵声が飛ぶことはなかった。

寧ろ僕を恐れているかの様に、視線を合わせようとする者すらいない。

僕が恐る恐る自分の席(落書きでボロボロだったけど)に腰を下ろすと、同時に時雨さんが教室に入ってきて僕は思わず目を見張った。

綺麗だった彼女の目の下にはクマができて頬はこけ、おまけに右手が包帯でグルグル巻きになっている。

彼女が財閥の令嬢と知らなかったら、酷い家庭内暴力を受けていると勘違いしたかもしれない。

と、彼女は僕を見るなり小さく悲鳴を上げて飛び出して行ってしまった。

「し、時雨さん⁉」



思わず呼び止めようとした僕の前に、女子生徒が立ちふさがる。

「もうやめてよこの卑怯者! もう十分でしょう⁉ 復讐は果たしでしょ⁉」

「復讐? なんのこと? 僕はこの一週間学校に行ってないし、彼女には何もしてない!」

「白々しいことを……!」



女子生徒がカッとなったが、それを別の男子生徒が慌てて止めた。

「や、やめろ瑞樹! これ以上そいつに関わると同じ目に会うぞ!」

「だって……だってこのままじゃ時雨さんが……!」

「いいか、そいつは『魔女』だ。それも正真正銘、気に食わない相手を呪い殺せる本物だ」



男子生徒は僕の前に立つ。てっきり殴られるかと思ったが、彼は唐突に頭を下げて懇願した。

「夕立君、俺たちが悪かった。もう君に危害を加えたりしない。だから頼む、時雨さんをこれ以上傷つけないでくれ。もしそれが無理だと言うなら……」



彼の目が怪しく光る。まさか、やはり僕はこの場で彼らに粛清されるのだろうか――


「――せめて、僕たちだけは助けてくれ」


しかし。

その予想外の言葉を受けて僕が見渡すと……周りの生徒もみな、彼に同調する様に頭を下げていた。

こんな形で頭を下げられても……混乱した僕は、時雨さんが飛び出していった教室のドアを再び見つめる。



一体どうなっているんだ……?
その後様々な生徒に声をかけたが、誰も僕を怖がって取り合ってもらえなかった。

休み時間、学食にて。

一番隅の席に陣取った僕は、またしても渋々『ライプラリ』を起動する。

メイに事情を説明して時雨さんの近況を探ってもらう為だ。

時雨さんの身に起きたことは学校のポータルサイトでも記事になっていたようで、すぐに状況は把握できた。

「時雨鏡花はご主人様が不登校になってから四日後……ユグド・タワーに行った翌日から三日間連続で不慮の事故に巻き込まれています」



ファンサービスのつもりなのか、ポップなフレームの眼鏡をかけて髪をまとめた委員長モードのメイがデータベースを読み上げる。

「一回目は飲酒運転との衝突事故。二回目は老朽化した非常階段からの転落事故。三回目が工事現場から落下した鉄骨との接触事故です」

「そんなバカな……ありえない」

「そう、『絶対に有り得ないこと』です。昔ならともかく、『ラプラス・システム』が統治している現代においては」



――『事故』という現象は、『ラプラス・システム』が確立してからほぼこの日本から消滅した。

なぜなら『ライプラリ』が事故の発生予知を当事者たちに通達し、事故が起こらない様に未然に解決策を提示してくれるからだ。

例えば『鉄骨が落ちて被害が出る』ことが確定した時点で現場責任者に『ライプラリ』から連絡が入るし、非常階段も危険なレベルまで老朽化する前に学校に警告が行く。

よってライプラリを所持していなかったり、『魔女』の様にそもそも予知が通用しない人間を除けば、不慮の事故や事件に巻き込まれる可能性は限りなく低い。

交通事故にあって亡くなったり、突然病気が発症して余命一年を宣告される……何てことはもはやドラマやアニメの中だけの話なのだ。

そして日本有数の財閥の令嬢が、ライプラリの予知を疎かにするなんてことは有り得ない。だとすれば考えられるのは――

「『ライプラリ』が――いや、『神様』が意図的に時雨さんに『予知』を通達しなかった……?」



僕がユグド・タワーに行った翌日から時雨さんの連続事故は始まった。

だとしたら、僕がラプラスに接触したことと時雨さんが半死半生の目に会っていることは何か関係があるかもしれない。

「行かなくちゃ……もう一度『ユグド・タワー』に」



メイが疑問符を浮かべる。

「ご主人様、余裕のない男はモテないですよ? 愛しの神様に会いたい気持ちは分かりますが――」

「違うよ! 僕のせいで時雨さんが死にかけているかもしれないんだよ!」



僕が食って掛かると、メイはため息を吐いて相変わらず偉そうな仕草で首を振る。

「それは自意識過剰ですよ。まさか時雨鏡花が、ご主人様をいじめに合わせていることを『神様』が見通して、時雨鏡花に天罰を下している……とでも言うつもりですか?」

「可能性はあるよ。僕がラプラスと会ったタイミングとも一致してるし」

「いいえ、何度も言いますがそれは有り得ません。日本を統治している『神様』からすればご主人様は虫ケラのフンにたかる微生物のフンにも劣る存在なんですよ?」

「微生物のフンって」

「そもそも時雨鏡花は貴方を不登校に追いやった張本人ですよ? なぜ貴方がそこまでしてあげる必要があるんですか?」

「それは――」



正論を突き付けられ、一瞬言葉に詰まる。

彼女の言う通りだ。なぜ僕は、そこまでして未だに時雨さんを助けようとするのか。

しかしその答えが出る前に、



「あの……席、ご一緒してもよろしいかしら?」
氷の様に鋭く、それなのにどこか弱弱しい声が鼓膜を震わせる。

信じられない人物が目の前に現れて、僕はその場で硬直した。

「時雨さん……どうしてここに」



近くで見る時雨さんは、さっき見た時よりも更に痛々しく感じられた。

よく見ると、包帯以外の箇所も手足のあちこちが青痣になっている。打ち所が悪ければいつ死んでいてもおかしくなかっただろう。

「お話があるのよ。『魔女』である貴方と話しているのをあまり見られない方がいいから、なるべく手短に」



確かに……既に周りの生徒達は、僕と彼女が言葉を交わしているのを見て騒めき始めている。この状況は、お互いにとってあまり好ましいものではないだろう。

そんな中、こちらを見つめる時雨さんの表情は真剣そのものだ。

僕は少し考えた後、彼女の心配を和らげるつもりで言う。

「そこまで周囲を気にする必要はないですよ、時雨さん。クラスメートたちが言ってたんだ……『せめて、僕たちだけは助けてくれ』」



それは、少し残酷は励まし方だったかもしれない。

事実、その言葉に彼女は一瞬唇を震わせたが……すぐに気丈な笑みを浮かべる。

「そう……まあ元からあんな金魚のフンみたいな連中には興味ないわ。それより今は貴方とお話がしたいの」

「じゃあ、少しくらいなら」

「ありがとう」



そう言って時雨さんがさっさと席に着くと同時に、僕は『ライプラリ』を切った。

今は彼女との会話をお邪魔虫AIに妨害されたくない。

「話は聞いているでしょう? 私が貴方に呪いをかけられたせいで次々と災厄に見舞われている……と」

「ええ。でもそんな覚え僕には全くありません。そもそも僕にはそんな力はありませんし」

「そんな話信じられると思う? タイミング的にも前後の出来事からも、状況証拠は揃っているのよ?」



そう言って、信じられないことに時雨さんまでもが僕に頭を下げてきた。

「夕立始君。ごめんなさい……どうか私を殺さないで」

「……こんなに誰かに頭を下げられた日は初めてですよ」



僕は戸惑うも、彼女は頭を垂れるのをやめない。

「貴方に許されないことをしたのは分かってる。でも私は死ぬわけにはいかないの!」

「ちょっと、もう頭を上げて下さい! ますます目立ってしまいますよ! それに今はもう平気ですから……時雨さんにされたことをもう恨みなんか思っていません」

「……本当に?」



時雨さんが僅かに顔を上げて尋ねる。

「そうじゃなかったら学校になんか来ませんよ。それに、時雨さんが助かるなら僕だって力になりたい」



すると時雨さんは、信じられないと言った表情で僕を見上げた。

「何を言っているの? 私に『魔女』の呪いをかけたのは貴方でしょう?」

「だから違いますって! そりゃ最初は確かに時雨さんのことを恨んだし、一度は死のうとまでしたけど……でも、今はもう誰にも苦しんで欲しくない」

「……貴方、この数日の間に何があったのかしら? まるで別人みたい」



時雨さんが怪しむ様にこちらを覗き込む。

一週間前の僕なら緊張でドキドキしただろうけど、今の僕は彼女の黒真珠の様な瞳を真っすぐに見据えられた。

「まあ何というか、神様のお告げがあったんですよ。命を大事にしなさいって」

「命を大事に……? 『ラプラス・システム』がそんな抽象的なお告げなんかするかしら?」



時雨さんは首を捻ったが、僕はすぐに話を本題に戻した。

「とりあえず、時雨さんの今の状況を詳しく説明して下さい。それが解決の糸口になるかもしれない」

「貴方、あんなことがあったのに本当に私を助けてくれる気なのね……呆れました」



時雨さんはそう嘆息しつつ話してくれた。

「事故に関しては学校のポータルサイトで記事になっている通りよ。何も不審な点なんてありません。飲酒運転、老朽化した非常階段の崩落、そして落下してきた鉄骨との接触。警察が調べているけどいずれも事故、過失によるもので事件性は一切皆無だそうよ」

「まずその飲酒運転の件が気になります。そもそも『ラプラス・システム』はどうして飲酒運転を未然に防げなかったんでしょう」



時雨さんが訝し気に目を細める。

「『ラプラス・システム』は確かに完璧な未来予測で日本を統括してるけど、全てを管理してるわけじゃないわ。完全に行動を支配すれば、必ず大衆の不満は爆発する……だから『ラプラス』は意図的に監視の目をある程度緩めている。それが『ラプラス・システム』の『半黙認統治制』――そう習ったでしょう?」

「確かに。でも、飲酒運転の結果で万が一人が死ねばそれは『黙認』して良いレベルを超えてる。加害者は捕まった時なんと供述してましたか?」

「確か前日に会社の飲み会があって……そこで同僚にいつもよりたくさん飲まされて酷い二日酔いだったとか……」



そこで時雨さんがハッと口元を押さえた。

「まさか……そんなことって……」



僕も確信を得て頷き、それを口にする。

「間違いない……」



「『世界』は――『ラプラス・システム』は、あらゆる人間を利用して時雨さんを殺そうとしている」
そう――それも恐らく、『彼女』と僕が会ったせいで。

「非常階段の崩壊や工事現場の鉄骨事故も、きっとシステムが意図的に修繕を勧告しなかったんだ。後は周りの人間か時雨さん自身を誘導して、その現場に貴方が来るよう仕向ければ――」

「――そうだわ……あの時もあの時も全部『ライプラリ』に呼び出されて、その通りにしたら死にそうになって……!」

「それなら手立てはありますよ。『因果率』は下がりますが、こちらが『ライプラリ』を無視すればある程度対策が――」

「もうやめて下さいッ! それ以上何も聞きたくないッ!」



時雨さんが顔面蒼白となって叫ぶ。まるで本当に呪いを受けたかのように。

彼女がパニックに陥る中、僕は必死に頭を回転させて思考を巡らせる。

『ラプラス』は監視カメラや衛星を利用して常に地上のあらゆる事象を観測している。なら、この瞬間の僕たちのやり取りを見られていてもおかしくない。

「時雨さん、とりあえずここから逃げましょう。『システム』が相手である以上、警察はあてに出来ない。僕が家まで送ったら厳重に入口を固めて絶対に外に出ないでください」



だが、パニックに陥った時雨さんの耳には届いていない様だった。

「そんな……嫌よ……魔女どころじゃない……神に命を狙われるなんて……そんなのもう、死ぬしかないじゃない!」

「時雨さん落ち着いて!」

「嫌アアアアアアアアッ!」



時雨さんは僕の手を振り払うと、一目散に食堂の出口目掛けて駆けだす。

「待って! 下手に動いたら危ない――」



追いかけようとした、次の瞬間。

僕は不思議な歌声を聞いた。

「何だろう、これ……」



聴くもの全てを虜にするような、魅惑的で甘美な旋律……

いる者全てを魅了する様な、その美しい歌声に生徒たちは茫然と立ち尽くし――

ガシャン! と突然、夢から覚める様に鋭利なものがガラス扉を突き破って、ガラスの破片が派手に食堂中へ飛び散った。

「な、何だ⁉」



驚いた生徒たちが騒めく中、入り口からゆっくりと漂う様に『それ』が入ってくる。

見た目は少なくとも人の姿をしていた。

全身に純白の聖女のロープを纏い、フードで目元まで覆っているせいで顔の全貌は見えないが、それだけならきっと教会の修道女に見えただろう。



――背中から無数に蠢く、鋼鉄の巨大な触手さえなければ。



「きゃあああああああああああああ!」



異形の者を前にして一瞬で食堂がパニックになる。それは僕にしても同じことで、足がすくんで動くことも出来ない。

そんな中、触手姿の聖女は騒ぎ立てる生徒たちには見向きもせず、ただ一人の少女目掛けてゆっくりと触手をうねらせながら歩を進めていく。

それは他ならぬ時雨さんだった。

「あ……あ……」



恐怖のあまりテーブルに縋りついたまま動けない時雨さんの前で、聖女の怪物が一度立ち止まった。

うねる触手と共に、口元から幻想的で美しい歌声が流れる。

それは、今から死にゆく者への鎮魂歌に聞こえた。

『ターゲット確認。システム・サポート起動。指示を実行します』



歌声と共に機械的な音声が発せられた瞬間、無数の触手の先端が時雨さんを捕捉する。

もう、猶予などなかった。それなのに僕の足は恐怖に凍り付いたままその場を離れてくれない。

動けと必死に叫ぶ僕の脳裏に、フッとラプラスの儚げな笑みが浮かんだ。



「――ふざけるなッ!」
僕はガラスのコップを掴むと、聖女の怪物目掛けて思いきり投げつけた。

コップは触手に当たり、一瞬にして粉々になる。

だが、怪物のリアクションは意外にも大きかった。

ゆっくりとこちらを振り返り、戸惑う様に触手をゆらゆらさせている。

僕は勇気を奮い起こして駆けだすと、椅子や机を蹴飛ばし素早く時雨さんに駆け寄ろうとする。

怪物は素早く反応し、触手の一本を僕に向けて突き出した。

破れかぶれで右に避けると、触手は僕の脇を掠めて後ろのテーブルを派手に貫いた。

またしても怪物が戸惑った様子でフード越しに透明な瞳で僕を見つめる。……もしかしてコイツ、あまり目が良くないのか?

僕は怪物が動きを止めている隙に時雨さんを抱きかかえると、怪物の横をすり抜けて走った。

またしても次々と触手が襲ってきた。だが運が味方したのか際どい所で当たらない。

そして遂に食堂の入口付近まで辿りついた時、割れた扉を蹴飛ばして体育教師の谷崎先生が飛び込んできた。

きっと聖女の怪物が起こした騒ぎを聞きついて駆けつけたのだろう。

「オイ! 何の騒ぎだお前ら! ケンカするなら外で――」



グサッ。



そしてそれが、あっけない彼の最後の言葉だった。

谷崎先生は正確に左胸を貫いた触手を見つめ、声もなく倒れる。

「先生!」



腕の中で時雨さんが叫んだが、僕は構わずその横を通り抜けて食堂から脱出する。

「時雨さん、計画は続行だ! ここから逃げるよ」

「放して下さい、助けを呼ばないと! このままだと大勢の生徒が死ぬ! 私は……大勢の人々を見殺しにしてまで生きたくありません!」

「あの怪物の狙いは時雨さんです。戻ったら確実に殺される」

「貴方には関係ないでしょう⁉」



叫びながら彼女は僕の顔を見上げ――そして目を見開いた。

「どうして……そんな顔をするの?」


隔離された空間で機械に繋がれていた、銀髪の少女。


「どうして……私の事を助けるの?」


クリームあんみつが食べたいと言った、碧眼の少女。


「どうして……貴方が泣いてるの?」


いっそのこと、ちゃんと消えたいと願った……消女。


「ふざ……けるな」



だからこそ許せなかった。

いくらいじめられていたとは言え、僕はこんなことなんか望んでいない。

自分が消えたいと思っているからって、他人の命まで疎かにしていいはずがない。

それくらい――分かっていると思っていたのに。

結局君は悪魔で、人の命なんて何とも思っていないの?

あの日僕に見せた涙は、自分が救われたいというただのエゴだったの?



相反する感情がごちゃ混ぜになって、反芻して――時雨さんを抱えて走る間、ずっと涙は止まらなかった。
校門まで走ったところで、時雨さんは強引に僕の腕から飛び降りた。

「いい加減放して! もうみんなを助けようなんて馬鹿なことは言わないわ。怪物の狙いは私でしょ、ならなるべく早くここから離れないと」

「さっきからそう言ってるのに……ハァハァ……疲れた……」

「どうしてそんなに疲れ切ってるのよ⁉ まるで私が重かったみたいじゃない!」

「…………」

「そこは否定しなさいよ!」



その時バリンッ! と激しい衝撃音と共に正面入り口が砕け散った。

振り返ると先ほどの怪物が、触手をユラユラ揺らしながら真っすぐ歩いてくる。

「急ごう。足は速くないみたいだけど万が一街中で追いつかれたら被害が大きくなる」



僕が自然と時雨さんの手を引くと、彼女は何故か顔を赤らめた。

「貴方、やっぱり変な人ね。告白された時から思ってたけど、普通の高校生とは思えない」

「そりゃどうも。何しろ悪名高い『魔女』ですから」

「でも今はそのおかげで助かってるわ」



そう言って、時雨さんは高慢な顔の下に少しだけ白い笑みを見せた。

「……だからせいぜい、私が助かる為にとっておきの魔法を見せてよね」



目的地は当初の予定通り、時雨さんの邸宅。

セキュリティもしっかりしているし、いざとなれば要人を匿う核シェルターまであるらしい。

制服姿の男女が市街地を駆ける様はかなり人目を引いたけど、そんなことを言ってる場合じゃない。

躊躇なく教師を殺した、人の心を持たぬ化け物……あれがどんな力を隠し持つか分からない以上、一刻も早く逃げないと。

途中で彼女のポケットからハンカチが数枚落ちた。急いでいたが、時雨さんが慌てて拾い始めたので仕方なく立ち止まる。

「そう言えば、どうしてそんなにたくさんハンカチを持ち歩いてるの?」

「何よ、まだ告白の時のことを根に持っているの?」

「いや純粋に疑問に思って」



常にハンカチを一束持ち歩く女子高生なんて、普通に考えてまともじゃない。

彼女は全て拾い上げると、ため息を吐いて立ち上がった。

「常に日陰で生きてきた貴方には分からないことよ。私は政界の名家である時雨家で育った。将来的には『ラプラス・システム』運営に携わるポストまで約束されているの」

「『ラプラス・システム』の……⁉」

「その為に昔から処世術や社交術は血を吐く程叩きこまれた。いわばこのハンカチの束と貼り付けられた笑顔はその後遺症みたいなもの」



そして振り返り、気まずいような複雑な表情で僕を見る。

「だからたまに爆発してしまうの。絶対超えてはいけないラインを超える者が現れた時、本当の私がそれを拒絶する。常に日向にいることは、常に日陰にいることと同じくらいしんどいものよ」

「知らなかった。『魔女』じゃなくても、そんなに不自由で苦しい生き方があるなんて」

「フン、勝手に同情しないでくれる? あくまで私は日本の中枢を担う時雨家に生まれたことは誇りに思ってるわ。どこかのヘタレな『魔女』さんとは違ってね」



そう言って、彼女は手にしたハンカチをお守りの様に強く握りしめた。



「だからこそ、絶対にこんなところで死ぬわけにはいかないの」
時雨邸まで後三分の一の所で、僕は異変に気付いた。

魔法で結界でも張られたかのように、周囲に人がいなくなっている。

ゴーストタウンと化した街中で、不気味な静寂だけが辺りを包み込む。

「どうしたの? 急に深刻そうな顔をして。屋敷まではもう少しよ」



時雨さんが僕の異変に気付いたが、周りの異変にまでは気づいていなかった。

「さっきから街に人の気配がないんだ。何だか凄く嫌な予感がする」

「言われてみれば確かに……」

「このまま『ラプラス』が僕たちを大人しく逃がすとは到底思えない。目立たない脇道へ移動しよう」



僕が提案すると、時雨さんは強情な顔付きで笑い飛ばした。

「冗談でしょう? ここまで来たら私の邸宅まで逃げ込んだ方が早いわよ」

「それが罠なんだ。きっと敵もそれを見越して、僕たちが逃走を正面から強行すると思ってる。だから――」

「嫌なものは嫌。隠れたいなら勝手に逃げなさい、私は一人で逃げるから。ここまで送ってくれてありがとう」

「ちょっと時雨さん! 待ってよ!」



彼女が素っ気なく僕に背を向けた……その時。

「……ねえ、何か聞こえない?」



彼女が疑問符を浮かべて空を見上げる。

確かに聞こえてくる。飛行機の音なんかじゃない、ついさっき聞いたことがある。

そう、それはまるでこの世のものとは思えない美しい歌声の様な――


【ドゴッ!】


凄まじい轟音立てて何かが目の前に着地した。

「な、何⁉」



アスファルトを割って沸き上がった砂埃が薄くなっていくと同時に、その全容が露わになる。

その正体は、先ほどのおぞましい聖女の怪物だった。

しかもさっきの個体よりも一回り以上も大きい。聖女というよりは触手を背負ったクリーチャーだ。

「あ……あ……」



恐怖のあまり言葉を失って立ち尽くす時雨さんを、聖女の怪物はガラスの様に無機質な目で見下ろす。

その触手が蛇の様に動くのを見て、僕は彼女の手を引いた。

「こっちだ!」



ゴオンッ! とアスファルトが抉れる音を背にして僕は彼女を連れて走り出す。

そのままビルとビルの隙間に駆け込み、角を曲がって狭い路地裏へと逃げ込んだ。

「はぁ……はぁ……どうして今更あの化け物が……!」



必死でパニックを抑える時雨さんに早口で告げる。

「多分、『システム』がこの街の住人に『今すぐ街から避難しろ』とでも通達して人払いをしたんだ。ある程度人目さえ消えれば、『システム』はいつでもあの怪物を差し向けるつもりだった……そういうことだと思う」



そして、それは同時に絶望的な事実も内包している。

それはこの街が無人になった以上、あの怪物は今から無限に押し寄せてくるということだ。

つまり、まだ先鋒の一匹しか来ていないうちに強行突破するしか生き残る道はない。

その時、路地裏の頭上で何か重々しい音が鳴り響いた。

「こ、今度は何⁉」

「ウソだろ。こんな狭い路地に入って来れるわけが」



だが、金属質の衝撃音はどんどんこちらに近づいてきて――

やがて暗がりからおぞましく蠢く聖女が現れた。



背中から更に無数の触手を生やし、両脇の壁へ突き刺して這い寄る様は巨大な蜘蛛の様だ。
「いやああああああああ! こっちに来ないでッ!」

「時雨さん! そっちはダメだ!」



時雨さんが悲鳴を上げて走り出すも、直線上に逃げた為怪物の触手は容易く時雨さんの足を捉えた。

太ももを切られ、時雨さんが倒れてうずくまる。

深い傷ではないが、次の一撃で確実に仕留める為わざと足を狙ったのだろう。

聖女の怪物が咆哮とも歌声ともつかぬ奇声を上げ、二本目の触手が迫ってくる。

僕は時雨さんに駆け寄って抱き起すと、一か八かで右に飛んだ。

ドンッ! と激しい衝撃と共に触手が地面を抉る。

その場所は、時雨さんが倒れていた位置と寸分違わぬ位置。

「――やっぱりか」



僕は再び時雨さんを抱き起こしながら呟き、それから触手が抉った地面からコンクリートの鋭利な破片を拾いあげる。

さっきは何も考えずに避けたわけじゃない。ある事実を確かめたかったのだ。

横で時雨さんが足を押さえながら震える声で呟く。

「始君……この足じゃ私は走れない。だから私を置いて逃げて。それが貴方の為よ」

「時雨さん、何を言ってるの?」

「私がここで大人しく殺されれば、怪物は始君には何もしてこないはず。だって『ターゲット』は私だもの」



そう言って、時雨さんは自虐的に笑った。

「絶対に死ぬわけにはいかないんじゃなかったのか」

「確かに言ったわ。でもそれは誇り高い『時雨鏡花』の話。虫けら呼ばわりした人間を巻き添えにしなきゃいけないような『クズな私』なら死んだ方がマシよ。だから」

「簡単に死ぬなんて言うなよ!」



僕は腹が立って来て、破片を持った片手を痛い程握りしめた。

「世の中には自由に生きることも死ぬことさえも許されない人間もいるんだ。『消える』ことしか出来ない人間だっているんだ。時雨さんは少なくともそうじゃないだろ⁉」

「な、何の話よ……?」

「どんなに苦しくても、例えどんな困難が待っていても――時雨さんにはこれから先もちゃんと生きてもらう。それが」



僕はコンクリートの破片を思いきり振りかぶると、


「僕から時雨さんに対する、唯一の復讐だ」


思いきり聖女の怪物の顔面目掛けて投げつけた。

「グルエエエエエエエエエッッッ!」



破片は触手に容易く弾かれる――ことはなく、正確に怪物の剥き出しの顔面に命中した。完全に予想していた通りに。

顔面を手で覆い、聖女の怪物は周りの壁を粉砕しながらゆっくりと退却し始める。

それを見届けて手を差し伸べる僕に、彼女は唖然とした表情で問いかけた。

「い、今のは何……⁉」

「何って?」



「時雨さんに言われた通り、とっておきの魔法を見せたんだよ」