広大な宇宙を無数の糸が絡み合い、ほどけて、また繋がっていく。
糸はどこまでも続いていく。
過去。現在。未来。
そんなものは遠大な糸の前では記号に過ぎない。
時に糸は形を変える。でもそれは彼女が手を触れた時だけだ。
誰も触れない限り糸は決してほつれない。結ばれることもない。
それはきっと神が定めたルール。触れられざる法則。
本当にそうだとしたら、その糸を自在に操れる私は――きっと『悪魔』なのかな。
その時彼女はふと気づく。
自分以外で糸に触れた存在が現れたことに。
貴方は一体誰? どうしてそんなことをするの?
私と違って貴方は自由なのに。そんな苦しいことをする必要はないのに。
このままじゃ貴方まで『悪魔』になってしまう。
でもそれじゃあ可哀そうだよね。
そうだ! じゃあこう名付けましょう。
これならきっと、貴方も喜んでくれるよね。
糸を操る『悪魔』を邪魔する者――だから、貴方は『天使』。
「夕立始(ゆうだち はじめ)君。そろそろ起きないと体育の授業に遅れるわよ?」
夏の訪れを感じる穏やかな日差しが差し込む教室で。
淑やかな少女の声に、僕は飛び起きる。
「し、時雨さんっ……⁉ 僕に何か用ですか?」
「何を慌てているの? 誰にも起こしてもらえない誰かさんを見ちゃったら、放っておけないでしょ?」
そう言って、整った顔立ちの黒髪少女は少し悪戯っぽく笑った。
窓から差し込む陽光を背に笑う彼女は、太陽よりも眩しくて――僕は思わず目を逸らす。
「あ、ありがとうございます……! さ、先に行っててください、時雨さんまで遅れちゃうので!」
「そう? 念押ししておくけどサボりはダメよ?」
人差し指をコツンと僕の額に当てると、言の葉と甘い残り香を残して彼女は去る。
額に残る感触にドキドキして、そっと右手を当ててみる。
僕なんかを起こしてくれる寛容な生徒は時雨さんくらいだ。
なぜなら僕は『魔女』なのだから。
コツコツ……
静まり返った廊下を歩きながら僕は物思いに耽る。
二千三十一年。
『未来視の神』である『ラプラス』が支配するこの世界で、僕は『魔女』という体質を持って生まれた。
何も魔法が使えるわけじゃない――むしろその逆だ。
テストは常にビリ。人間関係も上手くいかず、その上とにかく運が悪い。
言うなれば生まれながらにして不幸の塊、RPGで言うと常に『呪い』状態にかかっている様なものだ。
その原因は全て『ラプラス』というこの日本を統治する『神様』のせいだ。
この世界には『因果率』というパラメータが存在する。
神様である『ラプラス』の『お告げ』通りに行動すれば上昇し、逆らえば低下する。
普通の人間なら『ラプラス』に逆らわない限り『因果率』が下がることはない。
ところが僕は生まれつきこの『因果率』が上がらない体質で、まさに『呪われている』のだ。
『因果率』が低いということは『神様』の作ったシステムに従っていないということだから、当然様々な弊害が発生する。
『テストの点数が悪い』『人間関係が上手くいかない』『運が悪い』というのも、神様の未来予知カリキュラム通りに僕が行動しない弊害だ。
他にも僕の様な『魔女』にはいくつかのペナルティが課せられる。具体的には、
・『因果率』が低い者は『神様』に逆らう犯罪者予備軍とされ、警察のブラックリストに載る。
・定期的な尋問や進学する高校の指定、東京二十三区外への行動の制限等、多くの自由を奪われる。
・就職先を選ぶことが出来ず、高校卒業後は『魔女』専用の特別収容施設で囚人と同様の扱いを受ける。
聞いただけでお先真っ暗、最初から人生ゲームオーバー。
有体に言えば、僕は最初から『神様』に見捨てられた存在だった。
まあそれでも、今日は『彼女』と初めて話せたのだから案外世の中捨てたもんじゃない。
『魔女』だからって僕は人生を諦めていなかった。
生まれつきハンディキャップを背負っている人は大勢いる。僕の場合、それがたまたまこの特異体質だっただけだ。
諦めずに前向きに生きていれば、いつか神様だって振り向いてくれるはず――
【ピコンッ】
すると、『神様』からお告げが来た。
僕は反射的にポケットから『ライプラリ』を取り出し夢中で起動する。
この携帯端末型装置はあらゆる情報――そう、未来さえ閲覧できる。
だからその意味を込めて『ラプラス』と『ライブラリ』をもじりって『ライプラリ』と名付けられた。
この携帯端末型の装置を通せば誰でも『神様』と繋がり、尋ねることが出来る。
ケンカした友人と仲直りする方法も。自分に向いている職業も。……好きな女の子に告白して成功する確率も。
長方形の液晶パネルをタッチすると画面が明るくなり、中央にライトグリーンのツインテールをした少女が幾何学模様のエフェクトと共に出現してニッコリと笑う。
「ライプラリへようこそ、ご主人様。今日はどんな未来をお探しですか?」
『ライプラリ』に標準搭載されているナビゲーションメイド『メイ』。
いかにも若者受けしそうな露出の多い青のコスチュームと、文字通り人間離れした精巧な顔立ち。
見た目は完全無欠な美少女……なのだが、お節介な上にデリカシー皆無なので(所詮AIということだ)僕は嫌いだった。
「今届いたお告げ、見せてくれ」
「あ、あの恋愛相談の件ですね! ご主人様もそういう年頃ですもんね! メイも混ぜて下さいよ~!」
「何でお前が知ってるんだよ」
「ご主人様の性事情……いえ諸事情を知っておくのはメイの大事な役割ですから」
彼女はその青い目を☆マークに輝かせる。
「恋バナみたいなノリやめろよ。大事な相談なんだから」
「ちぇっ……面白そうなのに」
途端、掌返しで舌打ちしながらメッセージボックスを適当に掻きまわす。
該当するメッセージを呼び出すと、メイは『後で私にも結果を教えて下さいね。さもなくば学校のアドレス全部にばら撒いちゃいますから☆』と恐ろしい脅迫を残して消えた。
彼女の妄言を綺麗に忘れて、ゆっくりと箱型のメッセージボックスをタッチする。
箱が勢いよく展開され、中から『神様』への相談内容とそれに対するお告げが書かれたテキストメッセージが飛び出してくる。
『予測申請:二千三十一年七月二日、16:00に学校の屋上で時雨鏡花に告白した場合の成功確率』
対する『神様』からのお告げは酷薄なものだった。
「成功確率……0%。警告:更なる因果率低下の恐れ有。行為の中止を推奨」
僕は一瞬だけ顔を硬直させ……ふと、口元から笑みをこぼした。
勉強も人間関係も何もかも上手くいかなくて。
挙句の果てに神様にまでこんなことを言われて。
それでも、どうして僕は笑っていられるのだろう。
決まっている。最初から分かっていたことだから。
僕は明日、時雨鏡花(しぐれ きょうか)さんにフラれる。
容姿端麗、成績優秀、財閥の令嬢でありながら誰にでも優しく接する理想の美少女……
そんな彼女に、スクールカースト最底辺の自分が惚れてしまったのは愚の骨頂だろう。
本当は、『神様』に相談するまでもないことだった。
だけどこうして実際に『お告げ』を突き付けられたことで僕はかえって吹っ切れた。
警告なんて知ったことじゃない。明日、時雨さんに告白してものの見事にフラれてやろう。
それがこの全知全能の『神様』とやらに対する細やかな反逆だ。
「ご主人様~。そろそろ行かないと体育始まっちゃいますよ?」
「え? ……うわっ、すっかり忘れてた!」
僕はライプラリを切ると、慌てて廊下を走り出した。
「夕立始(ゆうだち はじめ)君。話ってなんでしょうか?」
夕日を背に振り返りながら、時雨さんは風になびく優美な黒髪を抑えた。
屋上で好きな女子生徒と二人きり。
『神様』のお告げで結果は分かり切っていても、自然と鼓動が高鳴るのを抑えられない。
「あ、えーと……あの、ご迷惑じゃなかったですか?」
「大丈夫よ、ちょうど外の風に当たりたかったから」
「それは良かった」
「それで話とはなんでしょう? 昨日、折角起こしてあげたにも関わらず授業に遅刻したことへの言い訳ですか?」
「そ、それは本当にすみませんでした……つい二度寝してしまって……」
「フフッ……そんな面白い言い訳は初めて聞きましたよ?」
つい下手な嘘をつく僕なんかにも、時雨さんは笑顔で接してくれる。
本当に天使の様な人だ。
「でも、ここに来てもらったのはそのことじゃなくて……その、大した話じゃないんですけど……」
「そう? その割には汗が凄いですよ。これをどうぞ」
そう言って彼女は綺麗な花柄のハンカチを差し出してくる。
「え⁉ そんなとんでもない……!」
「遠慮しなくていいのですよ。良かったら差し上げます」
「あ、ありがとうございます」
ヒマワリの様な笑みを浮かべる彼女の前で、ボーッとしながらハンカチを受け取る。
何だか妙な展開だ。
彼女も流石に、こんな場所に二人きりで呼び出された理由は薄々察しているだろう。
だとしたら、これから振る相手に対してこんなに親切にするだろうか?
いや……きっと時雨さんはどんな相手に対してもこうなのだろう。そうに決まっている。
だから悲しい希望を抱いたりしちゃダメだ……!
僕は深呼吸し、眩しい程に美しい彼女の顔を真っすぐ見つめた。
「時雨さん、あなたのことが好きです。付き合って下さい!」
時の流れが、急に重くなった様に感じた。
時雨さんは表情を変えることなく僕を見つめ返して……そして、ゆっくりと薄紅色の唇が開いた。
「ごめんなさい」
ガクッ、と肩が落ちる。
分かっていたことでも、実際に直面するとやっぱりショックだった。
しかし、彼女の言葉はまだ続きがあった。
「私、夕立君のことを誤解していたみたいです。こんな正面から堂々と思いを伝えられるほど意思が強くて、男らしくて――」
え? そんなバカな。
これってまさか――
早鐘の様に打つ胸を抱えて顔を上げた僕に、時雨さんはいつもと変わらぬ表情と声で告げた。
「――そして、この私に求愛しようなどと考えるほどに愚かだったなんて」
鳴りやまない『ライプラリ』の着信音と、閉め切られた部屋。
フードを被ってベッドに横たわったまま、何日が経ったんだろうか。
虚ろな目が見つめる先には、机の上の花柄のハンカチがある。
どうして捨てられないのだろう。
あの日僕の想いを踏みにじり、学校中に言いふらし――挙句、生徒を扇動してイジメにあわせ、自分を不登校にまで追い込んだ張本人に貰ったものをなぜ。
「時雨さん……?」
あの日。
聞き間違いだと思った僕が声をかけると、彼女の顔から静かに表情が剥がれ落ちた。
別人のように冷たい表情を浮かべた彼女は、僕へ嫌悪感剥き出しの眼差しを向けて吐き捨てる。
「分からないのですか? 貴方の様な不燃ゴミに告白されるのがどれほど屈辱かということが。そうね、こう言えば理解できるかしら……まるで罰ゲームで告白するターゲットに選ばれた、クラスで一番冴えないモブ女の様な気分よ」
「そんな……違う……時雨さんはそんなことを言う人じゃない……」
「貴方に私の何が分かるんですか? ……ああそうね、少なくともこの告白が失敗することは分かっていたはずよね?」
そう言って、時雨さんは『ライプラリ』が入っている僕のポケットの膨らみを睨んだ。
「それでも貴方は実行した。正直言って、ここまで私を怒らせた虫けらは貴方が初めてよ」
「ど、どういう意味ですか……?」
「貴方には罰が必要ってこと」
そう言って――時雨さんは微笑みながら耳元に顔を近づけ、蠱惑的で危険な声色を紡いだ。
「とびきりきついオシオキが、ね」
凍り付いたままその場を動けない僕を残して、彼女は歩き出す。
そして屋上のドアを開け、ふと思い出した様に時雨さんはこう言い残した。
「そうそう、そのハンカチは気にしないでいいわよ――いつも一束は持ち歩いているから」
――失敗すると分かっていても、何かが変わると思っていた。
『神様』に逆らってでも思いを伝えることに意味があると思った。
事実、全ては一変した。
好きな女の子にフラれ、その本性を目の当たりにし、そして学校中を敵に回すという形で。
僕は……努力することすら許されない人間なんだね。
何かを変えたいと願って行動を起こすことが善だなんて、最初から間違っていた。
こんなことなら『魔女』の烙印を押されたまま目立たぬよう、ひっそりと生きるべきだった。
それでも、僕は自分が小さな努力したという事実を否定したくなかった……だからきっと、時雨さんに貰ったハンカチを今でも捨てられないんだ。
僕はゆっくりと体を起こすと、ハンカチと『ライプラリ』をポケットにしまった。
行こう。
どうしても捨てられないのなら……僕のこの体ごと捨てに行くしかない。
行き先は昨日から決めていた。
最後まで稚拙だった僕の、最後の稚拙な願い。
終わる時くらいは、誰よりも高い場所へ。