愛溺〜偽りは闇に堕ちて〜




「…っ、もう嫌…」


目を閉じて心を落ち着かせようと努力する。
しばらくの間、洗面所の前でしゃがみ込んでいた。


「……よし」

ようやく落ち着いたと思い、立ち上がった私は部屋へと戻ろうとした。


けれど───


「あ、川上さ…」
「……っ!?」

平然としている瀬野に名前を呼ばれただけで、先ほどのことを思い出してしまい、一瞬にして恥ずかしさが戻ってしまう。

瀬野の顔が見れない。


全てを諦めた私は、部屋の入り口で先ほどと同様しゃがみ込んだ。


「……川上さん?」

「全部あんたのせいだから…私は何も知らない、本当に全部瀬野が悪くて…」

「川上さん、落ち着いて。
顔真っ赤だよ?」

「……っ、うー…」


恥ずかしさの限界なんてもうすぐそこ。
ここまできたら、プライドなんか捨てて。


「瀬野……こっち、来て…」

相手を頼るほかない。
一度だけ瀬野を見上げた後、腕を組んでそこに顔を埋めた。


「……本当に川上さんは狂わせるね」


瀬野はすぐに私のそばまでやってきて。

そして私を抱きしめる。
優しく包み込むように。


すかさず彼の胸元に顔を埋めて、私からもギュッと抱きついた。




「もー、そんなかわいいことしないで」
「うるさい…この操り野郎」

「ふはっ、ひどいこと言う。
そんな能力、俺にないのに」

「ある!私の意思じゃなかった…!」
「うん、そうしておこうか」


彼が小さく笑う。
なんだか楽しそうな笑いに、私の恥ずかしさが増して行く。


「俺さ、もうすぐで川上さんと過ごすのも終わりだから、いろいろ考えてたんだよ」

「……何を」


私の頭を優しく撫でながら。
落ち着いた声で話す瀬野に耳を傾ける。


「川上さんをどう攫おうかなって」
「なっ…!」


そのようなことを平気で言ってのける瀬野に、返す言葉もなくなる。

攫うって、なんてことを考えているのだ。


「だって川上さんとの関係を断ち切れると思う?」
「……思う」

「俺は無理だよ、そんなの。
だから攫おうって」

「いきなりぶっ飛びすぎ」
「結構本気だよ。このまま連れ去ってもいいくらい」


少し強めに私を抱きしめて、そのように話す瀬野。
それなりに本気のようだ。


「ねぇ、ダメ?
俺のそばにいてよ、川上さんがいい」

「……ダメって、言ったら?」
「攫う」

「本当にバカ」


私が素直にそれを受け入れると思ったのか。
ネタバラシをされても余計に拒否するだけである。


「攫われるくらいなら自分の家がいい」
「それだと川上さんと過ごせなくなるから意味ないよ」

「……だから、あんたも居ればいいじゃん」
「えっ…?」


瀬野にギュッとくっついて、離れないようにする。
恥ずかしくて今の顔を絶対に見せたくない。




「この家に、あんたも」
「俺も居ていいの?」

「攫うとか変なこと言い出すから」
「ここに居ていいなら、俺は川上さんを攫わない」

「当たり前でしょ」
「うん、約束するよ」


嬉しそうな声。
瀬野が今、笑っているのだろうと簡単に想像がつく。


「じゃあもう寝るからベッドに運んで」
「えっ、それってもしかして誘ってる…?」

「やっぱ自分で行く…わっ」


瀬野が余計なことを言うから、自分の足で移動しようと思ったけれど。

その前に瀬野が私を抱きかかえてしまう。
いわばお姫様抱っこというものだ。


「本当に強引」
「ただ川上さんを離したくないだけだよ」


相変わらずニコニコ笑う瀬野には余裕しかない。
やっぱり瀬野との関係を断ち切れなかった。

軽々しく私の体を持ち上げて、ゆっくりとベッドの上に下ろされる。



「じゃあ俺も寝ようかな。
電気、消すね」

「……うん」


明かりが消え、周囲が暗くなる。
暗闇の中で瀬野が隣にやってきた。


「寝れるかな、今日」
「……眠たくないの?」

寝るって言ったくせに、なんてことは言えない。
私自身も眠気がやってこないのだ。


「うん、実は目が冴えてる」
「ふーん、そう」

「冷たいね、川上さん」
「……どうして欲しいの?」


瀬野の方を向くようにして横になれば、彼も私に体を向けていて。

暗い中で瀬野と目が合うのは変な気分だ。


「さっき、キスしそびれたからさ」


瀬野の手が伸びて、私の頬に触れる。
それはまるで合図のようだった。

ゆっくりと近づいてくる瀬野に私は───


抵抗することなく、目を閉じてそれを受け入れていた。





私たちが並んで歩くだけで視線を感じ、注目を浴びているのがわかる。

もし私が地味で暗い人間だったら、妬まれていたことだろう。


とはいえそこそこの人気がある私にすらも、何人かの女子からは妬みの視線を向けられている。



冬休みが明けて早1週間。

私たちが“付き合った”という噂は既に学校中に広まっていた。


すべては相手の男、瀬野のせいである。


冬休み明けの学校初日。

一緒に行くことになった私たちは、案の定周囲から騒がれていた。


私だってもう少し警戒しとくべきだったかもしれないけれど、誤解が生まれることは最早諦めていたのかもしれない。

正直、そこまではどうでもいい。
問題はその後の瀬野の行動だ。


教室へ着くなり、クラスメイトに見せつけるようにして私の肩を抱き寄せたかと思うと、『付き合うことになったんだ』と言った瀬野。

そこからはもう否定の余地もなく、瞬く間にその嘘が広まってしまった。





美男美女カップルだとか、ビッグカップルだとか。
本当にどうでもいいことで騒ぐものだ。

その日から1週間経った今でも、熱は冷めない様子。


早起きしてまで毎日早く行くべきだったのだろうか。
そんなの体への負担も大きい。

とはいえ私のせいではないと思いたい。


「お似合いだなぁ…」
「素敵なふたりだね」


なんて、羨望の眼差しを向けられることもしばしば。
本当に学校というものは居心地が悪い。


いつも以上に話しかけられる上に、冬休みはほとんど自分を作っていなかったせいか、ニコニコニコニコ笑い続けることに疲れを覚えてくる。

そろそろ表情筋も限界だ。




授業中が最も平和な時間だった。
けれどもうすぐ昼休みがやってくる。

本当に気が重い。
これも全部瀬野のせいである。


こればかりは一生恨んでやる。

瀬野の余計な一言のせいで私はこんな苦労を…一方で彼は楽しそうなのだから余計腹が立つ。


4限目の授業も終わりに近づき、時計を見るとあと5分でチャイムが鳴ろうとしていた。

どうにかして“付き合った”という嘘を消せないだろうか。


もちろん無理矢理な方法はあるのだが、私の好感度がガタ落ちするかもしれない。




やはり瀬野は私の上を行く。
本当に腹が立つと内心イライラし始めたその時。


ブレザーに入れてあるスマホが振動した。
授業も終わりかけということで、何となく嫌な予感がする。

気のせいだと思いつつ、念のため瀬野の席に視線を向けると───


「…っ」


瀬野と目が合ってしまった。
最悪だ、見るんじゃなかった。

彼は私と目が合うなり微笑んできた。


たまたま先生が黒板に文字を書いていることをいいことに、自分のスマホを出して指差してきた。

どうやら先ほどの振動は瀬野からの連絡だったようだ。

できれば見たくない。
けれど、無視すればまた何かされそうだ。

諦めてスマホを手に取り、中身を見る。
それは瀬野からのメッセージだった。


【昼休み、一緒にご飯食べよう。
この間行った相談室で待ってる】


誘いのメッセージだったけれど、一応指定された場所が周りの目が気にならない“相談室”ということで、ここは素直に受け入れるのが妥当かと考える。

もし断れば、直接誘ってきそうだ。
それでも素直に従うのは嫌だったため、返信はしない。




チャイムが鳴って授業が終わると、まずは沙彩に声をかける。


「沙彩ごめん!今日違うクラスの友達とお昼食べてくるね…!」


実際にこれまでも何度か1年の時に同じクラスだった女子とお昼を食べたことがあったため、沙彩は疑うことなく了承してくれた。

さて、ここからどう怪しまれずに教室を後にしようか。


とりあえず瀬野とタイミングをずらそうと思い、彼の席に視線を向けたけれど、すでにその姿がなくなっていた。



「いつの間に…」


人気者である瀬野のことだ、必ず声をかけられたことだろうに。

これはもう相談室に行くしかなさそうだ。
今日で2回目の相談室。


4階に行けば、やっぱり誰もいなかった。
本当に安全地帯だと言える。


そこから相談室の前に立ち数回ノックすると、中からドアが開けられた。


「来るの早かったね。
返信がないから来るか不安だったんだよ」

「強制の連絡に返信なんていると思う?」
「厳しい返しだなぁ…ま、いいや。中入ろう」


誰かに見られる前に、と続けて私の腕を引く。
なんだか密会をしているかのようだ。




「じゃあ一応、鍵閉めとこっか」
「また?今日はあんたが危険だからいい」

「こんなところで手を出したら、バレた時大変なことになるよ。そんなリスクは負いたくないから安心して大丈夫」

「じゃあどうして鍵閉めるの?」

「たまにいるんだ、ここって何の部屋だーって言ってドアノブを回す生徒が」


つまりここにいることがバレたくないということか。
確かに相談室にいるとなれば、あらぬ誤解を生みかねない。


「でもまあ、鍵さえ閉めればここが一番安全だからね。学校で会うなら相談室かなって。食堂や教室だと嫌だろうから」

「当たり前でしょ。
お弁当の中身も同じなんだし」

「一回バレてみたい思いはあるけどね」
「怪しまれた時点であんたのお弁当はないから」

「ふは、やっぱり厳しい」


中央にある長いテーブルの上にお弁当を置く。

もちろん瀬野とは隣同士ではなく、テーブルを挟んで向かい合う形で座る。


念には念を、ということである。




「本当に最悪だからね、今の事態。
どうするつもりなの?」

「んー、このまま?」

「ふざけないで。
私の好感度を下げずに別れたことにしてよ」

「嫌だよそんなの。俺はこのままでいいと思ってるし、なんなら“事実”にしてもいいんじゃないかなって」


にこにこと嬉しそうに笑う瀬野に、負けじと睨み返す。

いきなり何を言い出すんだこの男は。


「私が瀬野と付き合うなんて有り得ない」
「俺の彼女になってよ、川上さん」

「…っ、そ、んな軽く言われて受け入れるはずがないでしょ!」


流されるな自分。
あくまで冷静に、冷静に。

「本気だよ、俺」
「私には本気に見えない」

「うーん、でも俺たちって恋人みたいなことたくさんしてるよ?なんなら夫婦…」

「何?家から追い出されたいの?」
「それは嫌だよ川上さん。そんなこと言わないで」


ここまで言わないと黙らないのだから、本当に面倒である。


「そもそもあんたの欲求不満が爆発してるだけでしょ、毎度毎度」

「でも川上さんがキスを受け入れてくれた時は嬉しかったな」

「……っ!?」


そんな1週間以上前の話をまだ出してくるのか。
あれも瀬野に流されただけであり、私の意思ではない。