何とかバレンタインが無事に終わって、日常を取り戻した3月半ばを過ぎた頃の晴れた日。

再び『旅』へと出発される奥様の荷造りを奥様の部屋でお手伝い。


「今回は半年位かしらね…。
主人は忙しいから、イタリアからフランスに渡ったら、ニースで少し私だけ長く滞在しようかと思っているの。読みたい本が溜まっているから…。」


そう言って机に置かれた革製のブックカバーのついた本を嬉しそうに触った。








ホワイトデーの後、伊東さんから教えてもらった。

瑞稀様は奥様にブックカバーと栞をプレゼントしたと。


…恐らく、あのカバーと栞がそうなんだろうな。


優しい表情をされている奥様を見ていたらとても嬉しい気持ちになった。



「それから、これ。」


奥様から差し出された一冊のお菓子作りのレシピ本それを受け取る。



「これは…」

「かなり薄汚れててごめんなさいね。
それ、私がここにお嫁に来る時に持って来た本なの。よく瑞稀と真人が幼い頃はそこから選んでお菓子を作ったわ。
瑞稀は甘いものが苦手だったから、その黄色い付箋が付いてるものしか殆ど食べなかったけれどね」


付箋の所を開いてみたら、奥様の字で『砂糖を10グラム減らす』とか、『塩を少しだけプラスする』とか書き込まれてた。


きっと何度も作ったんだろうな…瑞稀様の好みに合う様に。


「あなたにあげるわ」


驚きで、ドキンと強く鼓動が跳ねた。


「い、いえ…この様な貴重なものは頂けません…。」


だ、だって…奥様が瑞稀様の事を考えて一生懸命に見ていた本だよ?
そんな大切なものを私が頂くなんて…。


本を持つ手が震えた私を奥様はクスリと優しく笑う。


それはいつもお菓子作りをされている時の表情で。


「今は私が作るより、あなたが作った方が瑞稀は喜ぶでしょ?」


その言葉に心が掴まれて苦しくなった。


「…やはり頂けません。これは奥様と瑞稀様の大切な想い出の品ですから」


お返ししようと差し出したら、それを掌で押し返される。


「…あなたも頑固ね。
まあ、でなきゃ、私が最初にあれだけ言ったのにここに踏みとどまって呑気に私とお菓子作りなんてしてないわね。」


そう言って楽しそうに小首を傾げた。


「これは瑞稀の為にやることよ?瑞稀がちゃんと無理なく『美味しい』とあなたに言えるものを提供してあげて欲しいって言う私の願い。
決してあなたの為じゃないわ。」


……確かに。このレシピを見て作れば、瑞稀様の好みに合った美味しいお菓子をお作りすることは出来るけれど。


改めて本に目を落とした私に微笑む奥様。


「…本当に瑞稀が好きなのね。」
「え?」
「あなたは“瑞稀の為”と言った時の方が表情が良くなるもの。」
「っ!」


身体が内から熱を持った。


「す、すみません、その…。」


思わずギュウッて本を抱き締めて俯いたら、奥様はふふっと瑞稀様に良く似た声で笑う。


「…『覚悟』の話など、改めて話す必要は無かったかもしれませんね、あなたには。」


そんな奥様の言葉に、抱き締めた本がやけにその存在を強調して重たさを感じた。


「鳥屋尾さん?」
「はい」
「瑞稀をよろしくお願いしますね?」
「…はい。」


奥様の仰っている『よろしく』の意味はわかってる。


けれど

この前話をされた時と違って、心は至って穏やかだった。


“覚悟”は、きっと最初から私の中にあったに違いない。


ただ、夢中になり過ぎて気が付かなかった、それだけの事。


「それから、鳥屋尾さん?私のお下がりでよければ少し洋服や装飾品を譲ります。」

「え?!」


目を見開いた私を奥様はクスリとまた楽しそうに笑う。


「…坂本さん、その話、あなたにしてなかったの?」

「さ、坂本さんですか?」

「そうよ?坂本さんがどうしてあんなに綺麗なスタイルを維持してるかわかりますか?」


そ、そう言えば坂本さん、スタイルいいよね…足とか腕とか、スラッとしてるし、ウェストもキュッとしている…。


「私も、不便な事に、どこに行くにも同じものを何度も着ると言うのが中々出来ない身なんです
特に公の場などは、一度着たらもう着ないものも沢山あって。リサイクルに出す前に、失礼を承知で坂本さんに聞いてみたら、大喜びしてくれてね。
…ただ、当初は私の方が少し細身だったから入らなくて。そこから頑張ってダイエットをしたみたいよ?」


…私、入るかな。

奥様も坂本さんも背はさほど変わらない。
けれど…細さが。


「まあ…坂本さんに少しスタイルキープの秘訣を聞いたらいいわ。」


真剣に悩みだした私を奥様は含み笑いをしながら、そう言った。