夜からニューヨークでの大きな会議
それを思ったら、緊張で押しつぶされそうで、ほとんど眠れず朝を迎えた。


いつもそう。


大きな会議なんかの前はいつも全身の震えが止まらなくなって。
圭介が『安眠効果がある』ってハーブのお茶を前日夜に出してくれて、少し他愛無ない会話をしてくれて。涼太も「部屋の香り、かえてやるよ」と俺のいる時間に花を届けてくれたりしてくれる。

それで少しは平静を保てるんだけど。


『失敗は許されない』


谷村グループの跡継ぎとしてその中枢の会社を引き継いで。
元々、兄貴に全ての愛情を注いでた両親初め、重役達は、俺に『最低でも成功』と言うボーダーを敷いてる。

言われている訳じゃないけれど、それはわかっている。
俺はあくまでも『繋ぎ』だからね、兄貴が継ぐまでの。『繋ぎ』に失敗は許されない。引き継ぐものはちゃんと発展させて引き継がないと。父親も、じいさんもそうして次に引き継いて来たけれど、それとは意味が違う。『より良い形』を兄貴に渡して貰いたい。それが上層部の考えだから。

失敗は…許されない。


でも、そんな重圧を背負うと決めたのも、俺が自分で決めた道。
それが…俺が兄貴の為に出来る唯一の事だと思うから。

あの人の為なら俺は頑張れる。
その位、あの人は俺に染み付いている。

だけど…ね。
覚悟は決まっていても、俺はやっぱりちっぽけだから。
事のデカさを前にどうしても萎縮する。虚勢を張り続けるって事が出来ない。
まあ、早い話が、俺が未熟だって事だと思うけれど。




結局今回も殆ど眠れずに夜が明けて、まだ圭介も部屋に来ない早朝。
ふと窓の外を見たら、咲月が寒い手を擦りながら、一生懸命屋敷の玄関周りを掃除してた。


本当に…よく働くよな、あの人。
もちろん、ベテランの坂本さんは全てにおいて、完璧なメイドだけど。その坂本さんがやったのと変わらないくらい、きちんと仕事をこなしている。

まあ、俺に対する態度は相変わらずシドロモドロだけど。


そこまで考えて、一度フッと短く息を漏らした。


この部屋で俺といる時、咲月は未だに一度も笑った事が無い。
俺がなんやかんや、ちょっかい出しても、戸惑ってばっかりだもんな…。


遠目から、圭介や涼太と話している咲月を何度か見かけた事があるけれど、楽しそうに笑ってる顔、結構可愛かったのに。


中腰が少しキツいのか、時々トントンっと腰を叩くその姿を見ながらフッと頬が緩む。


俺はこんなにあなたの事見て、笑ってるのにね。


「……。」


…ちょっと、会いに行ってみよっかな。
この部屋以外であまり会話をした事がないし、この二ヶ月位。


そう思考が動いた時には、咄嗟にダウンを羽織って外へと足を運んでいた。



庭に出て、丁度掃除を終えて屋敷の方へ歩いてる最中の咲月に足早に追いついて、腕をグイッと引っ張ったら、よろけて俺にもたれ掛かって来た。


「も、申し訳ございません!」


…またかよ。

勢い良く離れて体を二つに折り曲げる勢いで頭を下げる咲月に心の中でため息。

もう聞き飽きたって、あなたの『申し訳ございません』は。
まあ、いいけどね、その度に困らせる様な事頼んで楽しんでんのは俺だから。


案の定、執事がやるべき『給仕』を頼んだら、あからさまに戸惑いの表情。


それでも、「薮さんに習っておきます」と言ってくれる咲月に何となく満たされた。


それに味を占めて軽く聞いた上着の事。

そしたらさ…


「い、いけませんか…?」


また恐々としてる。

少しだけ歯の浮くような事、言ったら、また顔真っ赤にして気まずそうに俯いて困ってるし。
そこ、喜ぶとか笑うとかじゃないんだね。涼太に花を付けてもらう時、嬉しそうに笑ってるのに、俺の言葉はそんなに怖いのかよ。
主人とメイドってそんなに距離を置かなきゃいけないもんなわけ?
そう言っちゃなんだけど、今まで居た坂本さん以外のメイドなんて、みんな、やたらめったら俺に愛想だけはよかったよ?仕事出来なくて、坂本さんにこっぴどく怒られて、続かない人ばかりだったけど。

とにかく、ただ俺は普通に世間話したいだけなんだよ、今。
もっと…俺といる時も楽しそうにしてくれりゃいいのに。


溜息で吐いた息が白く形をつくっては消えていく。ズズッて少し鼻を啜ったら、冷たい空気で少しだけ鼻の奥が痛くなった。


「あの…そろそろお屋敷に戻られた方が」


…そうだね。何か、このまま居ても進展もなさそうだし。

でも、洗濯場に寄ってから帰るって言ってるし、このダウン貸す位、受け入れてくれるのかな。
ジャージよりは暖かいよな、どう考えても。


そう思った瞬間だったと思う。


ふわりと首に暖かい物が巻かれて


「お風邪をひかれたら大変ですよ?」


目の前には心配そうにその瞳を揺らす咲月。


ただの何の変哲も無い黄色いマフラー。

けれど…どうしてだろう。すごい暖かく感じる。



洗濯場へと去って行く後ろ姿を玄関に立ち止まって見送りながら、緩む口元を、巻いてくれたマフラーに埋めて、少しだけ瞼を伏せた。



…良かった、会いに来て。