お部屋を後にして、長い廊下を少し早足で通り階段を降りた。



……身体が小刻みに震えている。


掌にハンドクリームを塗ってもらった感触を思い出したら、触れられた掌がやけに熱を持つ。



私…ご主人様に恵まれてるのかもしれない。



前のお屋敷のご主人様もすごく優しかった。

物心ついた時からずっと、 あの柔らかい笑顔が大好きで。子供の時は無礼が分からず、よく、抱きついてたっけ。その度にお母さんに怒られて。泣いてる私をいつも智樹さんが慰めてくれていた…


昔の思い出が瑞稀様との先ほどのやり取りを中和して少し落ち着きを取り戻す。階段を降りきった所で、玄関ホールの掃除をしている坂本さんを見つけ、思わずマフラーを外した。


「坂本さん、お疲れさまです。お掃除、代わります」

「あら、いいのよ!ここは私がやるから。それより、今のうちに休憩とってらっしゃい?瑞稀様、また午後、お出かけになるらしいから、支度のお手伝いあるでしょ?」


……恵まれているのはご主人様だけじゃない。
先輩にも恵まれている。
細やかに仕事を手早くこなしてく坂本さん。メイドとして勉強になる所がいっぱいあって、まだまだな私にきちんと教えてくれる。


「まったく…執事がネクタイ結べないなんてね?まあ、薮君はそこがいいのよね。完璧じゃない所が。」


もちろん、仕事に対しては厳しいけれど、こうして優しく、穏やかだ。


坂本さんに敬意と感謝を込めてお辞儀をして、休憩室に向かった。


恵まれた環境に身をおけること。全ては雇ってくださった谷村家…ひいては、許可を出してくださったらしい、瑞稀様のおかげ。

いつか、この感謝の気持ちを瑞希様にお返し出来たらいいな…


『咲月は新しいお屋敷で新しい主人に仕えるわけだから。』


不意に智樹さんの言葉が過ぎった。


持っていたマフラーに視線を落とす。


『うん、やっ ぱ似合ってる。』


そこに浮かぶ瑞希様の優しい笑み。


チクリと胸が音を立てた。


…“智樹さんはご主人様ではないから”と割り切って会いには行ったけれど、智樹さんの言うとおり、やっぱり私のした事は瑞稀様に対して失礼にあたるのだろうか。でも、ただのメイドに対して、瑞稀様はそのような事を気になさるのかな…?

もし、知ったら不愉快な思いをなさるの…かな。








「失礼致します」


お着替えの為に再び訪れた瑞稀様のお部屋。


先程の事もあってか、緊張が少しだけほぐれていて微笑む瑞稀様に、少しだけ笑顔を返す事が出来た。

もしかして、私がいつも緊張している事に気が付いていてしてくれた事なのかもしれない。
瑞稀様ならばあり得る話だと今は思う。

そう考えた先で、感謝の気持ちと一緒にまた少しだけチクリと痛む胸。


「…ねえ、ちゃんとさ、休みの日は休みなよ?」


それを感じながらネクタイを結ぶ為に瑞稀様の目の前に立ったら、そんな言葉が降って来た。


「まあ、俺が言えたギリじゃないんだけどね?
休みの日 に咲月が働こうが、休もうが、自由だし。でも、慣れるのは少し時間かければ出来る事でしょ?身体壊したら元も子もないわけでさ…。」


瑞稀様、気にかけてくださってる…私の身体の事まで。
主人として、きちんと従業員の事を考えていらっしゃる…。


嬉しくてネクタイを結ぶ手を止めて瞼を少し俯かせたら、鼻の奥がツンとした。


「や…ちょっとね?この二ヶ月で一昨日初めて出掛けたって聞いたもんでさ…。」


けれど、同時にズキズキと明らかに痛む心の中。


『俺はもう咲月のご主人様でも何でもない』


私…自覚が足りなかったのかな。

智樹さんは私にとって大切でかけがえのない人で。智樹さんにこのまま会えなくなるなんてそんなの嫌だってそう思った。

確かにそれは本音だし、今でも変わらない気持ちだけど。

会いに行く事は、時期尚早だったのかもしれない。
きちんと、谷村家のメイドとして、坂本さんのように立派におつとめ出来る様にもなっていないのに、前の主人に後ろ髪ひかれて…。

瑞稀様の優しさが心に染みて嬉しいさと苦しさが共存する。けれど同時に智樹さんに会ってはいけないのかと思うと寂しさも相まって、説明のつかない感情の高ぶりを覚えた。

そして、目元から溢れ出て来たもの。


「…咲月?」


俯いたまま動かない私を不意に瑞稀様が覗き込んだ。


「って、あっ…や…」


途端に少し驚いて慌て出す。


「も、申し訳ございません…ちょ、ちょっと…。」


急いで離れて背を向け、頬を伝い始めたそれをハンカチで拭った。


ご、ご主人様の前で泣くなんて。失礼極まりない。
とにかく、落ち着こう…。


大きく息を吐き出して『申し訳ありません』と振り返ろうとした瞬間、フワリと温もりに身体が包まれた。