鎌倉山の奥地の老舗フレンチレストラン。
そこの個室に私達家族と小夜ちゃんが到着したら、程なくして鈴木グループ会長とその夫人、長女の蓉子さんが現れた。


「健ちゃん、待たせてごめん!おー瑞稀君!真人君も!久しぶり!小夜も元気か?」


陽気に挨拶する会長に、主人の笑顔は強ばった。


…大丈夫です。
どんな状況になっても、私が隣に居ますから。


そんな想いを込めて、テーブル下でその大きく厚い手のひらをそっと握る。


私の顔を一度見た主人の眼差しは、強いものへと変わった。



…不出来な親だった私達。
今までの経緯を消す事は出来ない。

そうであれば少しでも、息子の未来の為、谷村家の未来の為に、誠心誠意を尽くさなければ。


「…呼び立ててすまない、竜助。」

「いや、小夜子の様子も聞きたかったから、丁度良かったさ。
お前と飲む酒は美味いに決まってるしな!あ、昼間からは無しか?」


豪快に笑う鈴木会長を一度ジッと見てから、意を決して立ち上がる主人。
そのまま、床へと座り込み、頭を下げた。


「け、健…」

「すまない、竜助!小夜ちゃんと瑞稀の結婚、白紙に戻してくれ!」

「な、何を…。」


驚いて立ち上がる鈴木会長を尻目に、蓉子さんはその様子をただ無言で見守ってる。


「実は、瑞稀の事だが…。
本人の希望で会長を継ぐ件は一旦白紙に戻ってな。
現在の会社の社長の座も退いて、家を出る事になった。」


私の隣でガタンと椅子が鳴り響いた。
立ち上がったのは、驚愕の表情の小夜ちゃん。


「…ど、どうして?だ、だって…。」


瑞稀と真人から「黙っていて」と言われ、話せずに来てしまった事について、申し訳なく、その震える背中にそっと手を添えた。


「…何があっても、瑞稀の決心は変わらなかった、と言う事です。」

「なっ…。」


私の言葉に目を更に大きく見開く小夜ちゃん。
それだけ言えば、小夜ちゃんには充分伝わるものね…。


瑞稀と話した後、小夜ちゃんが鳥屋尾さんに、彼女にまつわる事を話してしまった事が、実は私達家族に筒抜けだった事も、その経緯すべてを知らないフリして、静観していた事も。

そして…どうあっても、瑞稀の鳥屋尾さんへの想いは変わらないって事も。


唇を噛み締めると力なく椅子へと座る小夜ちゃん。
きっと、小夜ちゃんは鳥屋尾さんが離れて行けば、瑞稀は諦めると思っていた。


…以前の私がそうであった様に。


だからこそ、小夜ちゃんは主人との約束を反古にしてまで、あの事を本人に話した。


けれど、瑞稀は小夜ちゃんがそう考えるであろう事をわかっていた。
その上で…敢えて、小夜ちゃんと話をした。


『それでは、鳥屋尾さんは傷つくのでは。あの子の性格からして、下手したら身を引いてどこかに居なくなるかもしれないわよ?
それに…小夜ちゃんはそれで納得するのかしら。』


瑞稀の話を聞いて、懸念した私達に、瑞稀は一言だけ


「…俺は信じてるから。咲月の事も、小夜の事も」


そう言った。


鳥屋尾さんの心のわだかまりを取ってあげる事を優先した瑞稀。
『条件をつけて借金を無かった事にして別れる』と言う方法は、少し乱暴な気もしたけれど、傷ついても尚自分を想ってくれる強さと、だからこそ、道理は通す、そんな頑な『意志』


…その位の芯を持つ女性でなければ、これからの『谷村瑞稀』と人生を共にして行くのは無理でしょうから。


そして、それが彼女なら…と瑞稀の一点の揺らぎも無い表情で、私も納得で来た。


そして同時に、人と人との絆や信頼関係は、過ごした時間の長さではないのだと。互いが共にする時間、互いの事を想い考える時間が、どのくらいかけがえのないものであるのか、そこなのだという事を、痛感させられた。

実際に、私も…。
戸屋尾さんと過ごす時間は、本当に心地よく楽しくて、瑞稀の事やメイドである事を抜きにして、彼女自身の事を考える時間が話せば話すほど増えていった。



「ど、どうしたんだ?瑞稀君…一体何が…。」


茫然としていた竜助さんが、ハッとして顔を歪ませる。


「まさか、小夜子との結婚をまた嫌がってお前とケンカしてそんな事態に?」

「…すまない。全て俺の責任だ。俺の安易な行動がこうした事態を齎した。」


再び頭を下げた主人の隣に私も並んで静かに頭を下げたら、その隣に瑞稀も並ぶ。

…真人も。

ただ、何も語らずに。
瑞稀の隣に。


そんな兄の姿を横目に捉えたかは定かじゃないけれど、瑞稀の琥珀色の瞳が光を放った。