「ところで、お二人は何か、ご用事が…。」


波田さんが少しだけ顔つきを引き締めた。


「もしや、何かお口に合わない物が…。」
「そう言う事じゃないよ!波田さんの料理、超美味かった!ね、瑞稀?」
「うん。いつも通り、最高でした。ごちそうさまです。」


二人の褒め言葉に嬉しそうに目を細める。
今度は坂本さんが首を傾げた。

「では…。」


すると、伊東さんがふうとため息を吐き、その白ひげを少し揺らす。


「お二人とも…というか、真人様がどうしても鳥屋尾さんにお会いしたいと聞きませんで。
今は夕飯の後片付けと、夜の仕度の用意で忙しいからとお話したのですがね。」


瑞稀様を見たら、また眉を下げて私の頭をポンポンって撫でた。


「…仕方ないでしょ。この人、一回言い出すと言う事聞かないから。」


…真人様は分かったけど、何で瑞稀様まで付いて来たんだろう?


持ち帰った仕事がかなりあると、上田さんがさっき話していた。
だから、話す時間はないだろうなって諦めていたのに。


『息抜きの時間は作るつもりですので』


そうは…上田さんは言ってたけれど。
貴重な休み時間にわざわざ厨房に来るほどお腹が空いているのかな?

少食な瑞稀様にしては珍しい…。


「あの…瑞稀様は、今日は上田さんと徹夜でお仕事になると伺っております。お夜食やお茶のご用意でしたら、薮さんに仰っていただければ、ご用意し、お運び致しますので…」


私が首を傾げたら何故か皆揃って苦笑い。


な、何だろう…


「咲月ちゃん、やっぱり、小夜子さんの部屋、今日は咲月ちゃんは初対面だし、勝手が分からないから、私が代わりに行くわ。」

「うん、咲月、そうして貰いな?」


瑞稀様が坂本さんの提案に乗ると、伊東さんが、一つ頷く。


「では、私が坂本さんと一緒に行って、小夜子さんにお茶を入れましょう。旦那様と奥様の分は…。」

「伊東さんが小夜子さんの所から帰って来たらすぐに出せる様に、私が準備しておきます。」

「ありがとう、波田さん、頼みました。」


何故か、てきぱきと決まって行く仕事分配に焦る私。


「あ、あの…私も仕事を…。」

「何言ってんの!咲月ちゃんには、一番大事な仕事があるでしょ?」


真人様がニカッて笑ったら、皆含み笑いしながらそれぞれ仕事に取りかかり始めた。


一番…大事な仕事??


意味が分からなくて、眉間に皺を寄せたら、瑞稀様に『行くよ』って腕を引っ張られる。


そのまま、厨房の裏口から出たお庭
倉庫の裏まで引っ張られて連れて来られた所で、突然、抱き寄せられた。


「み、瑞稀様…。」


こ、こんな所、小夜子さんに見られたらマズいよね。

確かに、瑞稀様とは話をしなきゃいけないから、願っても無いチャンスだけど…それに、仕事があるなら、早く戻らないと。


少し力を入れて身体を離す。


「あ、あの…お仕事にお戻りになって下さい。」

「嫌です。」


い、嫌?!
瑞稀様らしからぬ、返答…。

力が緩んだらまた抱き寄せられて元の瑞稀様の腕の中に身体が再び収まった。


「…ねえ、まだ、あれ、二つ残ってるよね?」

「あ、あれ?」

「そう、咲月がフリスビーとインディアカで惨敗した…」


『負けた方が勝った方の言う事を何でも一つ聞く』


「……さあ、何の事を仰られているのか、とんと。」

「もっと上手くしらばっくれなよ。何だよ、『とんと』って。」


私のヘタクソな返事にふはって笑う瑞稀様にキュウッて気持ちが苦しくなった。


私…ちゃんと離れられるかな、この人と。



不意に緩んだ腕の力。
瑞稀様の顔が近づいて来て重なる唇。

それに、甘さを覚えて、キュッと胸が締め付けられた。


ほらね?
誘惑に負けて、気持ちが揺らいでいる。


「…残ってる二個のうちの一個使う。」


少し湿った風が横から吹いて来たら、フワリと瑞稀様の髪を横になびかせる。


「俺の事、信じて。」


また腕の中へと硬く閉じ込められた。


「俺は咲月を裏切る様な事は絶対にしない。」


痛い程に締めつける腕が身体じゃなくて、心の中を苦しくさせる。


「俺は小夜とは結婚しないし、咲月と別れるつもりもない。」
「で、ですが…。」


脳裏によぎる、小夜子さんの嬉しそうな顔。
思わず、また力を入れて、胸元を押した。


「小夜子さんは瑞稀様とのご結婚をすごく喜んでおられます。
私にも、気軽に話かけて下さって…気を遣ってくれてるんです。」


まあ…話す内容が内容だから、正直、キツいけど、きっと小夜子さんなりに考えた共通点がそこだったんだって思うし。


「……。」


腰を支えて完全に離れる事を許さない瑞稀様。


「こんな風に会っていたら、小夜子さんに申し訳ないです。」


その表情が、少し悲しげに見えた。


「…小夜には俺との結婚、諦めてもらうよ。
もちろん、小夜がなるべく傷つかない様に考えるよ?
その辺の配慮はちゃんとなるべくする。」

「で、ですが…旦那様も、先方ももう、お決めになった事なのでは。
何より、小夜子さんは瑞稀様の事を本当にお好きなんですよ?そ、その…昔から。そんな事なさっては…。」

「じゃあ、咲月は俺の事本当に好きじゃないの?」

「わ、私は…。」


『好きに決まってるじゃないですか』


喉まで出かかった言葉を思わず飲み込んだ。


ちゃんと…離れないと。


「…私の気持ちは今は関係ありません。」

「関係あるだろ。むしろ、そこが重要だと思うけど。」


お願い…。
お願いだから、そんな風に言わないで。

口を閉ざしたまま、俯いたらぼやける視界。
頬を瑞稀様の丸めの手のひらで、優しく覆われて、目尻をクッと親指で拭かれた。


「…確かに小夜とは幼い頃から知ってる仲だし、正直、付き合ってた時期もあるよ。
だけど、俺は過去に戻る気なんてサラサラ無いし、今の俺が俺だから。」


だけどまた、すぐ目頭が熱くなって視界がぼやける。


「…俺には咲月が必要なんだよ。」


溢れ出た雫が瑞稀様の手を濡らし、優しく重なる唇。


「…どうしたら、好きって言ってくれる?」


口角をキュッとあげて微笑む瑞稀様に気持ちがグッと引寄せられて思わず、自ら抱きついた。


私を躊躇いなく受け入れてくれる腕
抱き締めてくれた先で耳元を掠めるふふって柔らかい笑い声

今日一日、何度も、何度も頑張らなきゃって張ろうとしてた気持ちが、一気に緩んで、余計に涙が溢れた。


「咲月…大丈夫だから。何も心配しなくて平気だから。」


「ね?」と背中を擦ってくれる掌が緊張をどんどん緩ませる。


…やっぱり私、瑞稀様を忘れるなんて絶対に無理だ。


離れ…たくない。


「俺を信じて?」


優しく強く抱き締めてくれるその温もりに、ただ、ただ、頷いた。