会社から上田と戻った自宅。

車を正門から入れた所に圭介が立っていた。


「お帰りなさいませ」といつも通り、柔らかくそしてしなやかに頭を下げると、俺と歩幅を合わせて歩き出す。


「…どう?」

「面目ない。全く状況が掴めない上に、他に気をとられてる間に咲月ちゃんを伊東さんに小夜ちゃんの部屋に連れてかれた。」

「そっか…ありがとう、圭介。後で諸々報告するよ。」

「俺もちょっと確かめたい事があるんだよね。」

「確かめたい事?」

「うん…俺も後で報告する。リビングについて行けないけど、いい?」

「ああ、こっちはいいよ。大丈夫だから。」


玄関の所で、「また後で」と圭介と別れ、リビングへと足を踏み入れた。

そこには、ソファにくつろいでいる父さんの姿。


「…ただいま。」

「おっ!瑞稀、戻ったな。お前に凄い土産があるぞ!」

「…薮に聞いた」

「あ~言っちゃったのか。驚かそうと思ったのにな。」

「や、驚いたけど。」

「そうか!だったら良かった!」


ははっと上機嫌な笑い声がリビングに響いた。


「どう言う事…?」

「どう言う事も、こう言う事もないだろう。小夜ちゃんが嫁に来てくれると言ってくれたんだぞ!もっと喜びなさい。」

「…俺は小夜と結婚なんてするつもり無いけど。それは大学の時に言ったはずだけど。」

「その事なら、小夜ちゃんに事情は聞いたよ。」

「は…?」

「瑞稀!」


続きを聞こうと一歩進もうとしたら、バタンと大きな音がして開くドア。
それに反応して振り向いた数年ぶりの懐かしい笑顔が俺に抱きついて来た。


「お帰りなさい!今日からここで私、暮らすの。よろしくね?」

「…何言ってんの?小夜、よく考えなよ。俺だよ?俺と結婚しろって言われてんだよ?」

「わかってるよ?私、瑞稀と結婚する!」

「瑞稀、小夜ちゃんはね、本当はお前を好きだったんだよ。
だが、私の言った一言で妙な責任感を覚えてしまってね。結果的にああ言う事になってしまった。」


「すまなかったね」と父さんが俺達二人に眉を下げて苦笑い。


「小夜ちゃんは、あの時、俺が『後継ぎは真人に』と言ってしまった事で、『鈴木家の為に真人と結婚しなければ』と思ってしまったらしい。
今回、過去のお前の言動を謝罪して、もう一度結婚を考えて欲しいと話をしに行ったら教えてくれたよ。」

「ごめんね?瑞稀…私、やっぱり鈴木家の…お父様やお母様の役に立ちたかったの。」

「それが分かった今、問題は解決だろう?
今現在、社長と言うポストに就き、ゆくゆくは谷村グループの会長になるであろう今のお前なら。
お前が社長になってから、会社は安定し、業績も上がってる。皆、文句は無いだろう。
当日は無理だが、お前の誕生日が過ぎてすぐに役員会があるだろう?そこで発表するつもりだ。」


父さんの言葉に、目を見開いた。
“発表”って…。


「父さん、落ち着いてよ。」

「何だと?」

「どう考えたって時期尚早でしょ。
だって、“あの話”はどうなるんだよ。ちゃんと上役の人達には話してあるの?プランが変わるって…。」

「それについては、臨時役員会を中旬頃に開く予定だ。まあ、反対するものは居ないと思ってる、俺は。」


…完全におかしいと思わざるを得ない。
なぜなら、父さんは、独断で何かを決めるタイプじゃなく、思いついたことは、今までどんなに些細なことでも役員達に相談してきたから。

じいさんの頃から会社に身を捧げて来た重役の人達を重んじていて、必ず何かをする時は意見を聞いてから自分の考えをまとめる。

確かに咄嗟に驚くような事を思いつく人だけれど、重役の人たちに意見を言われると「なるほど」と柔軟に対応する。そんな父さんだから重役の人たちも、父さんを本当に慕ってくれて、グループが父さんを盛り立てようと一つにまとまって来たんだから。
今まで谷村グループは目立った争いも無く、安定していたのは紛れもなく、父さんの力だと俺は思っている。


だから…どう考えてもらしくない、これは。


「…父さん。何があったんだよ。」


眉間に皺を寄せる俺に、不満を覚えたのかその表情から笑顔がスッと消えた。


「『何かあったか』それを知りたいのは私の方だ、瑞稀。」


そのまま、ソファへと背中をゆっくり沈める。


「お前は、冷静に物事をきちんと判断出来るヤツだったのに…。」


少し目頭を抑え顔を一度覆うと真っすぐ俺を見据えた。


「…鳥屋尾は借金まみれの前の家を解雇されて、そこの当主の紹介で薮経由でここに来たらしいな。」


一瞬強く跳ねた鼓動


「…最近、谷村家に多額の金が舞い込んで来た。借金の返し元は『佐野智樹』
どうやら、父さんが個人的に金を貸していたらしい。
家と土地を売り払ったと聞いたが…相当な旧家だったらしく、借金が全額返済出来る程の価値は恐らく無い。
また、『佐野智樹』自身、画家でかなりの実績があるらしいが、それでも高値で売れても数百万…。」


鼓動が徐々に強く早くなる中


「…結論を言うと、誰かが、その借金を肩代わりしたって事になる。」


それとは裏腹に頭の中が冷静に回転し始める。


…落ち着け。
バレた所で、あれは俺の金だし、なんら『谷村家』にも会社にも負担も迷惑もかけてない。

全ては『俺自身』が判断してした事。
全ては『谷村家の次男』ではなく『谷村瑞稀』が大切な人を守りたいって一身でした事。


「それが、俺だって言うの?」


まだ疑いの段階である可能性も示唆してそう聞いた俺に、父さんは往生際が悪いとばかりに、またフウと溜息をつく。


「…佐野智樹が借金を背負う事になった経緯。それを考えれば答えは自ずと出て来る。」


経緯を…父さんが知っている?


また大きく鼓動が強く跳ねた。

いや、でもあれは本当にごく一部の人間しか知らない事なはず…。


「…何で父さんがそれを知って…。」

「伊東が一部始終知っていたよ。
父さんが絡んでたら知っているだろうなって思って聞いてみたらね。
『時が来るまでは他言無用』との遺言を律儀に守っていたらしい。
まあ…それを言わなかった所で谷村家に影響は無かったしな。」


父さんは、太腿に肘をついて手を組むとそこに顎を乗っけて少し口元を隠す。
未だに目線は一寸たりとも俺から逸れなかった。


「…だが、お前が当人に腑抜けになった今は別だ。」


以前、あのパーティーで向けられた冷たい目線。


「…情けない。佐野智樹の策略にお前も薮も見事にひっかかって。」


策…略…?


ふっと柔らかく笑うあの人の姿が脳裏を過った。


『咲月ちゃんは世の中で一番可愛いから』


…違う。
そんな“策略”なんて軽々しい言葉で片付くもんじゃない。


あの人は…心底咲月を愛してた。
だから…いつだって、自分よりも咲月の事を優先しようと一生懸命だったんだよ。


あの人を否定されて、俺はよっぽど頭に血が登ったんだって思う。
父さんの目線は冷たいままだったけど、『恐い』という感情は皆無だった。


「…俺は、この家にも会社にも何も迷惑かけてない。
佐野智樹の借金の為に俺が支払った金は、ネームバリューは一切使わずに、俺自身の力で稼いだ金だし。」

「そう考える事がもう腑抜けになってる証拠だろう。それに気が付かないのは更に質が悪い。」

「……。」

「自分が苦労して稼いだ金を一時の感情で消費する。そんな愚かな行動をするなど経営者としてもってのほかだ。
お前は冷静さを失ってる。女に溺れて、周りが見えなくなってるんだ。」

「だからって、それが小夜との結婚には繋がらないでしょ?
それにさ、全部知ってんだったら言わせてもらうけど、じいさんの手紙が出て来たんだよ。
そこには、俺と咲月の結婚を望んでるって言う様な内容が書いてあった。
筆跡鑑定でも何でもすれば?あれは絶対じいさんの文字だから。」


眉間にしわ寄せて睨みつけた俺にまた飽きれる様に父さんが背中をソファに凭れさせた。


「それももちろん、伊東から聞いてるよ。
だが、弁護士も通していないただの紙切れに過ぎないからな。口約束と同じで、正式な遺言とは認められない。取るに足らない出来事だ。
それに小夜ちゃんは全部受け入れた上で嫁に来てくれるんだぞ?」

「や、だからさ・・・」

「瑞稀、私は大丈夫よ?また昔みたいに、瑞稀が私を好きになってくれるってわかってるもの!」


小夜が離した身体を再び強くくっつける。


「私、ずっと瑞稀、が好きだったよ?」


そう言って俺を潤んだ目で見上げた。


それが昔の小夜そのもので、けれどその変化ない事に、嫌悪感を抱く。

…昔の俺なら間違いなく、舞い上がって、簡単に受け入れてたって思う。

それ位、小夜が好きだった。
他に何も見えない位夢中だったんだなと今は思う。


…でも、俺はもうあれから随分と時を経たんだ。
あの頃と同じにはなれない。


腕を掴むと、力を込めてその身体を引きはがした。


「…悪いけど、何をどう言われても、小夜と結婚はしない。」

「そんなに意固地になる事もなかろう。
小夜ちゃんもあの時の事はずっと悩んでいたらしいし、お互い和解したらいいだろ。
それにほら、鳥屋尾さんには希望するなら、ここにこのまま務めてもらうぞ?
小夜ちゃんが『メイドとして優秀ならそのまま務めさせてあげて欲しい』って言ってくれたんだ。
ここでずっと働くなら、お前が肩代わりした金だって返済は保留に出来るしな。」

「や、だからさ…「譲歩してやってんだ。これ以上、私を困らせるな、瑞稀」


父さんの目がまた冷たく光った。
有無を言わさない、その表情と言葉。


ねえ…父さん。

何で?
どうして俺はあなたに『ワガママ』を言う事が許されないの?
どうして、俺には『思い通りのイイコ』を求めるんだよ。


いつだって、昔からずっとそうだ。

マコが何しても「しょうがないな」と目を細め、頭を撫でる。
けれど、俺が失敗をすると「何で、お前がこんなミスを」と呆れる。


心が苦しくて、急激に孤独感に襲われたら、咲月の温もりにどうしても触れたくなった。


…分かってくれ、これだけは。
この息苦しさから解放してくれるのは、咲月しかいないんだって。


「母さんは…?知ってるの?この事。」


息苦しさを感じたまま、かろうじて開いた口
だけどもう、まともに父さんと目線を合わせる事は出来なかった。


「あいつにはまだ話をしてない。全てを知っているのは私と伊東と、小夜ちゃんだけだ。
まあ、役員会の前には話すよ。」


母さんに話さず、小夜には話した…。
何でも母さんには話してきた、父さんが…。

答えは自ずとわかる。
母さんは咲月を気に入ってる。だから、真実を話して、意見を言われるのが煩わしかったんだ。


「…そんなに咲月が気に食わないわけ?何?メイドだから?」

「そうは言ってないだろう。ただ、死んだ父さんも、自分が潰した会社の娘を嫁にって言うのはやはり心苦しいだろ?鳥屋尾さんにも、そんな身売りみたいな事は失礼だろ。」


そんな事…建前だ。
父さんは、ただ、『谷村家にそぐうか、そぐわないか』そこを物差しにしただけ。


「…大体、本当に佐次郎じいさんが潰したかだってわからないよね、咲月の父さんの会社。」

「風間家の方らしいけどな、実際に会社を立ち上げたのは。偶然が重なって、知らぬ間に出来ていたらしい。
お前は会った事があったか?いとこの廉太郎おじさん。
彼は突然が好きだったからな。じいさんもよくそれで頭を抱える事があった。思い立ったが…タイプでリサーチ不足の尻拭いを俺もよくやらされていたよ。
だが、まあ…その勢いがあったからこそ谷村グループはここまで大きくなれたのも事実。
だから、じいさんも、廉太郎おじさんを責める事も出来ず、責任を感じていたんだろう。
そんなじいさんの想いを汲んで鳥屋尾さんにはこのままここに留まってもらって面倒を見ようと思っているんじゃないか…。」


『風間』…ね。

そういや、じいさんがぼやいていた事があった。

『お前は捻くれた所はあるが、慎重でいい…ゆくゆくの為に、風間の家の跡取りとも仲良くしてあげるのだぞ?』って。


少し考え込んだ俺に「お前もしつこいな」って飽きれる様に紅茶に手を伸ばす父さん。
その頑なな態度に、これ以上今の父さんと話しても無駄だと悟った。


じいさんや父さんが守り続けて来たこの『谷村グループ』の品位を落とす様な事はしないつもりだけど。

ごめん、父さん。

どうしても咲月を手放せと言うなら、俺は多分、あなたの望む『イイコ』になるのは無理だと思う。