そのとき、「夏瑛、見てごらん」

 自転車の横で、ハンドルを握ったままじっと下を向いている夏瑛に向かって靭也はそう言うと、手にしていた懐中電灯でそっと木の幹を照らした。

「……!」

 信じられないほど、美しい光景だった。

 羽化の瞬間。

 幼虫の背に、まるでファスナーをおろしたように、まっすぐに亀裂が入った。

 透き通るような薄緑色の蝉が少しずつ、少しずつ殻を脱ぎはじめる。

 西洋絵画に描かれた天使のように、内側から光を放っている。

 土中とは様子が違う外界を、不思議そうに眺める無垢なふたつの黒い瞳。

 八分ほど殻から出ると、ゆっくり、ゆっくり、スローモーションのように羽が開きはじめた。

 ようやく開ききったとき、それまで必死に耐えていた涙が夏瑛の頬を伝っていった。

 一度零れた涙はとめどなく溢れ、止めることができなかった。

 あまりに美しい光景に。悲しい、わたしの恋の結末に。

 靭也はしゃくりあげる夏瑛のそばにいた。

 ふたりともただ黙ったまま、これから短い生をせいいっぱい生きるであろう蝉の誕生を見つめつづけた。