あまり食欲が湧かず、夕飯を残した。
お風呂の準備をして、ただ殿下を待つ。
しばらくしてから開いたドアから入ってきた殿下は、やっぱり怒っているように見えた。
「…………」
「お待ちしておりました…」
「ハァ…」
「お風呂、ですよね…」
「あぁ」
いつも通り、殿下が先に入って、湯船の縁に頭を乗せている。
目を閉じて、眉間にシワを寄せて。
「失礼します…」
「なんだ、これは…」
「お顔にお湯が流れないように、考えた末の策です」
「気持ちいい…」
目の上に乗せたホットタオル。
少しでも、殿下の苛立ちが治まればいいのだけれど…。
いつも通り、髪を洗って、私も湯船に入る。
目の上のタオルを取った殿下は、それをポイッとその辺に放り投げた。
目が、見れない…。
怖くて下を向いてしまう…。
殿下の言葉を待っているのに、なにも話してくれない…。
泣きそう…。
私はこんなに泣き虫だっただろうか。
ここへ来てから、何度も涙を我慢している。
絶対、殿下のせい…。
「アリス」
「は、はい…」
「ご苦労」
「えっ…?」
「宰相に、なぜ真実を言わなかったのかと問い詰めたら、『あなたがキレそうなので』と言われた。まぁ、当たっていたな…。俺もまだまだだ…」
「セレスティーナ様は…どうなりますか…?」
「それは俺が決めることではない。宰相や陛下の判断に任せる。セレスティーナが処罰されようと、俺には止めることはできない。それに、どうでもいい」
そんな…。
殿下は、人として何かが欠けている…。
なにか大事なものが。
「殿下は…誰かを好きになったことはないのですか…?」
「ない。友人や家族、幼い頃からそばに居た者。それ以外に何があっても、何も感じない。どうせ、相手にもそう思われているのだから、思う必要もない」
「そうですよね…。私は家族にも、そんな気持ちにはなれないかもしれない…」
「なぜだ?不自由なく暮らしていたのだろう?」
「見せかけだけです。誰も私の言葉を聞こうとしなかった。父の言葉に、従うだけの存在で、周りも満足していたのだと思います」
だから、私の言葉を…誰かに聞いてほしい…。
殿下と私の違いは、そこに『意志』があるかどうか。
私は弱い。
弱かったのだ…。
「必要とされてみたいですね、誰かに…」
「寂しいやつだな、アリス」
「ははっ、そうですね」
お風呂から出て、魔導士の検査済のお水を口にする。
殿下は外でタバコを吸い、戻ってきてからお酒を飲んだ。
「お前を正妃にする」
「へっ⁉︎」
「話は以上。異論はないだろ?」
「ない、ですけど…」
「先に休む」
お疲れの様子の殿下は、先にベッドに入った。
眠る時は隣が基本なのだけれど…。
どうにも体が言うことを聞いてくれなくて。
ヒナが借りてきてくれた本をソファーでしばらく読んだ。
頭に入らない…。
正妃、か…。
勝ち取った気がしない。
消去法で私になっただけの話。
なんだか、私が他の2人を陥れたような気さえする…。
このまま正妃になって、私は殿下を支えることができるのだろうか…。
【フィンリューク】
結果から言えば、セレスティーナは後宮へ戻った。
俺の子どもがいるかもしれないと言うことと、やはり俺の体裁を守るため。
揉み消されたようなもの。
リタの話は、わからなくもないのだ。
好きでもない男のために殺されたり、自分が毒を盛ったかのように仕向けられるならば、持ち主に返してやろうと言う。
だけど、許せないのも事実。
「本当に、どうするのですか…」
「正妃をアリスに決めた。他の妃の所へは行かない。何事も完璧ではないか」
「『妻なんかお飾り』だとか、クズ…」
「本当のことを言ったまでだが?」
「アリス様の気持ちも考えてあげるべきでしょう…」
「なぜ俺が女に気を使わなければならない。女なんか、俺の立場にしか興味はないのだぞ。アリスだって、実家の父にいい報告ができるだろう」
「そういうことではございません…」
ジェードが最近口うるさい。
何が不満だと言うのだ。
父上にも正妃の件は伝えてある。
父が旅から戻ったら結婚式だということに決まった。
「では、行ってくる」
「お気をつけて」
父上と母上が旅に出た。
父上が不在になり、俺が代理で父上の仕事を引き継ぐ。
自分の仕事との両立はなかなか難しく、久しぶりに叔父が城にやってきた。
「ルイ様がお待ちです」
「今行く」
父上の2人目の弟であるルイは、俺の4歳上。
よく遊んでもらい、いろいろ学ばせてもらった。
今は公爵として、民の近くにいる。
主に叔父上…国王陛下の仕事を手伝っている、とても有能な家臣の一人なのだ。
「ルイっ‼︎」
「久しぶりです、皇子」
「やめてくれよ‼︎ルイー‼︎」
「なんだよ、そんなに僕が恋しかった?リューク」
「ルイが城から出てって、遊び相手がいなくなった…。遠乗りに行こう‼︎」
「仕事が山積みだと聞いたのだけど?」
とにかく、俺とルイは友達のような関係なのだ。
小さな頃はよくふたりで城の中で隠れんぼをした。
メイドから逃げ、勉強から逃げ。
秘密基地を作り、父上にバレてものすごく怒られた記憶がある。
「リュークがこんな仕事するようになるとはねぇ…」
「ルイが次の皇帝にって声も多かったのに、さっさと婿に行ったんじゃないか。だから俺が後継ぎやってんだ」
「僕より皇帝向きなのはリュークだよ。僕はほら、理想の楽園を作るのが夢だったしね」
ルイ公爵は、自分の領地に最近動物園を作った。
一般にも解放されていて、人気があると聞いたことがある。
フワフワした笑みを浮かべ、幸せそうに笑う姿を見ると、やっぱり安心する。
動物が好きすぎて、部屋の中をウサギでいっぱいにしていた時は…さすがに俺も引いたけど。
とても優しくて、大好きな一人。
「で、結婚生活はどう?」
「まぁ、そこそこ…」
「うまく行ってないわけね」
「いやぁ、さすがにムリ…。後宮なんて作ったのがバカだった…」
「ひとりの奥さんでも大変なのに、3人もムリだよ。兄上はよくやってるよ…」
父には側妃が3人いる。
ひとりは猫耳付きのハーフ獣人で、他の2人は文句も言わなければ自分の部屋から滅多に出ない。
公式の行事の時くらいしか姿を見せず、父上もあまり足を運ばないと聞いた。
「来たばかりの頃は大変だったらしいけどね」
「そうなのか?記憶にない」
「リュークは小さかったから。まぁ、あの兄上だから。黙らせることも平気でするよ。義姉上のこと、大好きだしさ」
「俺にそんな存在は一生できない」
「わかんないよ?突然恋に落ちたりするもんだ」
そうなのか?
俺は女が基本的に好きではない。
男が好きと言うわけではないし、身体を重ねることにも抵抗はない。
要するに、誰とでもヤれるけど、誰もが同じということ。
「今度会わせてね」
「気が向いたら」
「歪んでるねー。我が甥っ子は」
歪んでるのか?
そうかもしれない。
人を信じることに関しては、その感情が壊滅的に欠損してる気がする。
ルイと仕事に励み、父上の膨大な仕事量にヘトヘトになる。
こんなことを何年もやり続けたのか、父上は…。
そりゃあ、旅にも出たくなる…。
「そろそろお休みになられたらいかがです?」
「そうする…。終わりが見えん…」
「後宮へ向かいますか?」
「んー…、アリスは寝たのだろうか」
頭を洗ってもらいたい。
あの目の上のタオルは、本当に気持ちが良かった…。
治りかけの指を見つめ、しばらく会ってないことに気がついた。
「後宮へ行く」
「かしこまりました」
堅苦しい服を、早く脱ぎたい。
厳重な警備の後宮で、中に入れる男は俺と宰相。
入らないとは思うが、父上の3人だけ。
浮気防止らしいけど。
部屋の前には女兵士が交代でいるのだ。
アリスの部屋をノックすると、何も聞こえなかった。
やはり、寝ているのか…。
少しの期待は脆くも崩れ去り、静かに中に入った。
薄暗い部屋のベッドを覗くと、そこには何もなく。
ドアが開いていて、庭に出て立ち尽くしているアリスがいた。
何をしているのだ…?
夜空を見上げて、ふふっと笑って。
気味が悪い。
だけど、月明かりに透ける紫の長い髪はとてもキラキラしていた。
「アリス」
声をかけると、振り返ったアリスは表情を強張らせる。
あの日、あの、リタに剣を向けた日から、アリスは俺にとても怯えているのだ。
それがわかるから、会いたくなかった。
俺が怖がらせているとわかっているし、あの時の対応を後悔はしていない。
だけど、アリスは俺をとても恐れている。
「こ、来ないと思っていました」
「何をしていた?」
「流れ星がたくさん‼︎流れる日のようで…」
「見つけたか?」
「はい、3つも」
あの笑いは流れ星か。
空を見上げる余裕なんて、俺にはないな。
目の前の仕事を終わらせるので精一杯だ。