彼女が泣いている姿を、ようやく見ることができた。
お互いが高校生だったころに出会った彼女は、何も言わない子だった。
とはいっても、遊びに行けば見たい映画、食べたいものをはっきり主張するし、部内でも、自分の意見を言いつつも周りのフォローも忘れない、頼れる副キャプテンだった。
何も言わない、というのは彼女自身のことについてだった。わたしは彼女の生い立ちや悩んでいること、誰かに言いたいのに誰にも言えないことを何にも知らなかった。
否、言わせてあげることができなかった。
その分、笑顔でいてほしくて、必死だった。でもたまに見せる、寂しそうな表情は、わたしにはどう頑張っても、たぶんどうすることもできなかった。
だから、嬉しいのだ。彼女の泣き顔をみることが、できたことが。
三人で食事を交わしたことがあった。
彼女がお手洗いに行っている隙に、二人で話したことがあった。
その時わたしは彼に「泣かせたら許さない」なんて、どこかの誰かの親顔負けのセリフを言うことになったのだが、まさか感謝することになるとは思わなかった。
ありがとう。彼女の本当の心をみせてくれて。
ありがとう。ずっと、彼女のそばにいてくれて。
わたしには、絶対に与えられなかった永遠の形を、彼はいとも簡単に、彼女に差し出してくれた。
なんて、わたしにはそう見えるけれど、きっと簡単ではなかっただろう。頑固で自信のない彼女の相手は、相当長い戦いになっただろう。
純白のドレスに身を包んだ彼女は、メイクがぐちゃぐちゃになるくらい泣いた。もともと美しい顔立ちをしている彼女の瞳から流れる涙は、とても美しかったと思う。
そんな余韻に浸りながら、わたしは缶チューハイをもう一本開けた。窓から入り込んでくる夜風は冷たかったが、どこか、新しい季節の訪れを感じさせるものだった。
二人よ、どうか、永遠であれ。
もうすぐ春がやってくる。厳しい寒さを乗り越えたその先に、どんな世界が待っているのか。これからが楽しみで仕方がなかった。
雨が止んだ。長い雨だった。冬に降る雨は夏に降るそれよりもひどく冷たく感じて、嫌いだ。
街を歩く人々が一斉に、色とりどりの傘を閉じていく。
わたしも、その映像を演出している中の一人なわけで、だけれど、高校入学と同時に母に買ってもらった真っ赤なこの傘は、スカートの裾を濡らしている綺麗なお姉さんのものとは違って、すっぽりわたしを包み込み、水滴一つでさえはじいてくれていた。
それもそのはず。この真っ赤な傘は元々二人で入る用に作られたもので、それを華奢な女子高生が一人で使っていたら濡れるはずがない。
自分が濡れるのは気にならないが、今日、せっかくもらった餞別が濡れてしまうのは、もったいないと思っていたから、この傘を持って行ったよかった、と思う。
わたしは今日、この街を出ていく。
「那月は全然携帯触らないから、音信不通になりそう」
ついさっきまで行われていたソフトボール部による、「新田那月送別会」もお開きになるころ、わたしにそう告げたのは遠藤晴夏だった。
ハルとわたしはクラスは端と端で分かれていて、頭脳だって文系と理系、性格も真逆だというのに、同じソフトボール部に所属しているという共通点だけで、仲良くなった。
わたしとハルは、友人だ。そんな友人に別れ際こんなことを言われて動揺しない人間がいるだろうか。わたしは必死にフォローの言葉を探すも、そもそもハルの指摘が事実なわけなのだから、見つかるはずがなかった。
「わかった。なるべく見るようにする」
「メッセージは返さないでいいから電話には出て」
「努力します」
ちなみにハルから貰った餞別は、携帯カバーだった。これでいつでもどこでも一緒だね、と言われたのでさすがに愛が重いと思ったが、言えなかった。うれしかった自分も、相当愛が重いだろうから。
「わたしは心配だよ。那月のことが。那月は何にも言わないから、わたしみたいに遠慮もしないで踏み込んでくる奴がいないと、だめになっちゃう」
「ハルはわたしの親か何かなのかな?」
「もはや愛だからね、那月への想いは愛」
よくもまあ、そんな恥ずかしいことが言えるな。けどやっぱり、その言葉を聞いて照れてる自分にも引く。
さっきから言っているハルの言葉に間違いは何一つない。
多分わたしは携帯はほとんど見ないだろうし、ハルに対しても、言えないことがあったんだから、ましてやほかの人になんて言えるわけないだろう。
わたしが自信をもって友だちだ、と呼べるハルに対しても、家族が死んだことを伝えれたのは、ハルがぶつかってきてくれたからだった。
夏、母と姉が交通事故で死んだ。その日はわたしの部活の大会の日だった。
二人は買い物を楽しんだ後、帰宅途中で信号待ちのタイミングで突っ込んできた信号無視のトラックと正面衝突した。
姉をかばうようにした母は即死だったそう。姉は、救急車で運ばれた後、病院で息絶えた。
だというのに、よりによってトラックの運転手は一命をとりとめたらしく、何度も何度も、わたしに頭を下げた。
謝罪って、残酷だ、と。その時はじめてわたしは気づいた。
誰かに許しを請うなんて、なんて、卑怯な行為なんだと思った。
ごめんなさいと言われたら、許すしかなくなる。許さなかったら次は、その人が悪魔だ。それでもわたしにとってはあの日から、トラックの運転手は悪魔になった。
お金はもらった。彼も反省した。それでも心の底では一生彼を許せないわたしは、悪魔だってなんだってかまわない。
元々天涯孤独だった母には身寄りがない。しかし、運がよいのか悪いのか。わたしには、小学二年生の時に離婚した父がいた。
お金のこととか、裁判とか、お葬式とか。難しい手続きは全部父に任せた。その時、久しぶりに会った父は、やせ細っていた体に健康的な肉が戻り、顔色もよかった。
それもそのはず。父には新しい家庭があったから。
やっぱりわたしは、運が悪かった。
そんなこんなで一緒に暮らそうと言ってくれた父の申し出を断ることになったわたしは、それよりももっと、一緒に暮らしていいのかわからない人たちと暮らすことになった。
「で、どうせイケメンなんでしょ、その幼なじみ」
「そんな都合いいことあるか」
「写真! 一枚くらいあるでしょ見せてみろって」
生き別れた父ではなく幼いころから見知った幼なじみの家で暮らすことになった。
そう、ハルに伝えた日から彼女からの幼なじみの写真見せろ攻撃は止まらなかった。
最後だし、いいか。ついに折れたわたしは携帯のアルバムをずいぶんとさかのぼる羽目になる。確か、中学の卒業式の時、ようやく買ってもらった携帯で二人で撮った写真があるはず。
写真を見つけ、今よりも少し幼い自分と、記憶の中ではその状態でとどまった幼なじみをみつけ、緩んだ頬のままハルに携帯を差し出した。
「これは……」
「お気に召さなかった?」
「焦らされただけあるわ。この晴香サマが認めよう、那月の幼なじみは顔が良い」
「サマって。ハル、誰でもかっこいいって言うじゃんか」
「この顔を見てイケメンと認めないのは往生際が悪いぞ、那月!」
「うーん……子供のころから見てるとわかんなくなるんだって。でもまあ、この黒くて丸い頭は可愛いと思う、けど」
テレビに出てる男の人みんな格好いい、なんて言うようなハルの言葉は全く信用できないが、自分の幼なじみが褒められることに対しては、少しばかり鼻が高くなる。
わたしが今日からお世話になる七瀬家の家主である七瀬健一、通称ケンさんが声をかけてきてくれたのは、十月のことだった。
それまでは慰謝料や、わからないことは父に助けてもらいながらも、それでも一緒に住むことは頑なに拒否し、母と姉の面影のあるアパートに身を潜めていたわたしだったけれど、いつまでも頼ってられないと、父のバックアップを完全に断った。
そもそも、家庭の時間を割いてまで、元妻との間の子供の面倒を見るなんて、父からしたら面倒極まりないだろうから。
だから、父を完全拒否したわたしの元に続いて現れたのが、ケンさんだった。
ケンさんは父がかわいく思えるほど強引だった。一人で生きていくと決め込んでいたわたしを叱責し、押しに弱い(自覚済み)わたしへの一緒に住もうアプローチは激しく、ついに折れたころには転校の時期など、すでに高校に知らせていた。初めから、わたしがどんな返事をしようが一緒に住むことは決まっていたらしい。
そんなこんなで、冬休みも終わりを告げるころ。高校進学と同時に、交通の関係で引っ越してきたこの街とも、約二年でおさらばだ。
不満なんてものはない。勉強は好きだけれど縛られることが嫌いなわたしに進学校は向いていないし。昔近所に住んでいた子供、ってだけなのにこんなに親身になってくれている人の好意は、簡単に断れないし、というか断る暇もなかった。
「ま、那月が困ってそうな気配がしたら、いつでも連絡してあげるから、安心して」
ハルの言葉は、いつだって独特だ。
「そこは普通、困ったらいつでも連絡してきなよ、じゃないの?」
「だーから、遠慮ばっかの那月のために、わたしからしてあげるって言ってんの」
そして、いつだってまっすぐで、いつだってわたしのことを理解している。
ハルと話していると心がほわほわした。既視感。ハルのそばにいると、いつだって思い出す人が、ひとりいた。どうしてハルと、こんなわたしが仲良くなれたのかっていうと、たぶんハルが、あの人とよく似ているからだと思う。
「……ハル、ありがとうね」
「うん。わたし那月のこと大好きだからね。寂しいけど、那月の一番いい方向に向かっていってほしいって思うよ」
「なにそれ、男前すぎる」
「ま、地球の裏側まで離れてるわけじゃないからね。すぐに会いに行くから」
イケメン幼なじみにも、ちゃんとわたしのこと紹介しておいてよ。
そう、屈託なく笑ったハルの笑顔に、わたしは数泊おいて、うん、と短く応えることしかできなかった。
雨が上がった道を、のんびり歩いていく。雲の切れ間からは日の光が差し込んできて、もうすぐしたら綺麗な夕日がみれそうだった。
部活の仲間から貰った餞別は様々で、大きいものから小さいものまで、バラエティにとんでいた。
大きい荷物は大体送ったものの、今日手荷物をもって電車を移動する身としては、荷物が増えたことは単純につらい。けど、その分、嬉しかった。
どういう経緯でうれしい、なんて思っているのかはわからないけど、わたしにとって、高校での部活の仲間は特別だった。同級生も後輩も。
強豪だったおかげで周りからひがまれることもなく、みんなで高め合いながら楽しめた居場所だった。それも多分、ハルがいてくれたことがわたしにとっては大きいんだろうけど。
楽しかった思い出を振り返りながら歩いているとあっという間にアパートについていた。
角部屋204号室、そこがわたしたち三人の居場所だった。
この階段を上るのも、通路を歩くのも最後。わたしが出ていった後には新しい人が入ってくるんだろう。
それと同時に、きっと、わたしたちが暮らしていたことに対する「何か」も消えてなくなる。
部屋まで近づいていくと、ドアの真ん前で丸まっている、黒くて丸い頭を見つけた。それも、妙に見覚えのある。というかそもそも、わたしがその丸い頭を間違えるはずもなく。
「どうしたの、七瀬」
名前を呼んだ。
やはり、七瀬であった丸い頭はゆっくりと上げられ、その吸い込まれそうな奥行きのある瞳に、わたしが映る。
会うのは、母と姉の葬式ぶりだ。でも正直七瀬に会ったはっきりとした記憶はないので、わたしの中では約二年ぶり。そう、約二年ぶりに二人きりで顔を合わせるから、緊張しているのか、妙にわたしの胸は高鳴る。
なんで七瀬がここに。なんでわたしの家知ってるの。なんて、聞きたいことはたくさんあるし、すぐにでも話したいけれど、それよりも今は、七瀬からの言葉が欲しくて、じっと口を噤む。