事の始まりは、1981年の夏。
清水康則は、ある小さな株式会社の部長を
していた。
その会社の名前は、「キューブミニット会
社」。
昨年の1980年から1981年にかけて、日本で
はルービックキューブが大ブームとなり、
おもちゃ製品を作る会社の生存競争が始ま
っていた時代だった。
キューブミニット会社は他より規模
が小さかったため、その生存競争の離され
るか離されないかのすれすれにいつもい
た。
社員の給料も決して高くはなかった。
だが、康則はそれで良かった。
なぜなら、自分の息子が幸せそうだったか
らである。
清水康則の息子、清水秀樹は、生まれつき
身体に障がいがあり、どこに行っても人に
特別な目で見られがちであり、そんな息子
の事を知った時も康則は大変不安を抱えて
いた。
1970年代。まだバリアフリーなどの福祉が
あまりなかった時代。
10歳頃まで、秀樹は悩みに悩んだ。
人と同じ事が出来ない自分が嫌になり、何
度も泣き叫んだ。生きる希望を見つけられ
ず、時に「死にたい」と自殺を試みた程だ
った。