もうそばにいるのはやめました。




『もしかしてあなたたちはコンクール参加者ですか?』


『そうだけど?』

『だったらなんだよ!』


『バイオリンを愛していないあなたたちにバイオリンを持つ資格も、コンクールに参加する資格もありません。そのバイオリンを返して、さっさとお帰りください』



顔は見えないけれど、声だけ聞けばなんとなく察した。


女子は俺以上に怒ってる。



俺以上にバイオリンを愛してる。



『さ、さっきからなにさまなんだよ!』


『資格がどうのって……お前こそそう言う資格ねぇじゃんか!』


『言うことをきかないのであれば、わたしから審査員やコンクールの運営者にこの件を伝えて、強制的に棄権にさせてあげてもいいんですよ?』



ほとんど脅しじゃねぇか……。


でも自信を持ってああ言えるってことは、参加者じゃなくて運営側に近い立場なのか?



『おい、やばくねぇか?』


『……チッ』



扉に耳を当てたら、男子たちのコソコソ話を拾えた。



『か、返せばいいんだろ!』



男子たちの足音が消えていく。


うわあ、すげー。

男子2人を女子1人で片付けやがった。



『バイオリンさん、大丈夫だった?傷は……ないみたいだね。よかったぁ』




俺もほっとした。


体の弱い母さんの笑顔が少しでも見たくて、父さんに初めてわがままを言って買ってもらったのがあのバイオリン。

母さんの好きなクラシックを俺が演奏してよろこんでもらうんだ。



元気になってほしいんだ。



『すてきなバイオリンだなぁ……』



だろ?

俺が選んだバイオリンなんだからな!



『ちょっと弾いてみちゃお』



なっ……!?

俺のだっつってんだろ!


助けてくれたのは感謝してるけど、それとこれとは別。


俺のバイオリンで弾いてもいいのは俺だけだ!



ちょっと待ったー!
と扉に手をかけた


直後


悪口を浴びてくさっていた耳に

優しい音色が流れこんだ。



『……なんだ……この、音……』



今まで聴いたことがない。

こんなにも胸が震える音。



どこまでも音が伸びて、楽しそうにはずむ。



おだやかでいとおしげで。


それでいて力強く、心臓をわしづかみにする。



こんな演奏は初めてだ。

じわり、涙が浮かぶ。


こぼれる涙を拭うのも忘れて、ためらいがちに扉を開けた。


ほんの少しの隙間から覗き見る。



小さな背中。


窓から差し込む光に透けた、ひだまりみたいな色の髪。


その真っ直ぐな髪は、軽やかに指が動くたびにふわり、と揺らめく。




『……きれい……』



ドキドキした。


あの子になのか、あの音になのか。



名前の知らない感情に戸惑った。



ただただ見惚れていた。

聴き惚れていた。



――パッヘルベルの「カノン」を奏でる、顔も名前もわからないあの子に。




『姫ー!!』


『あっ、ハルくん!』



演奏が途絶えた。

……もう少し聴いていたかったな。




『こんなところにいたんすか!』


『ちょっと迷っちゃって……』


『奥さまも捜してましたよ?』


『え!?お母さん審査員じゃなかったっけ!?』


『だから焦ってるんじゃないっすか!』


『ご、ごめんなさい……!』




たった今走ってきた小さな男子に怒られ、女子はしゅん……と縮こまる。


さっきの威勢はどこへやら。

でも、かわいいな、って思ってしまった。




『そのバイオリンはどうしたんすか?』


『あ、これ?これは……ひ、拾ったの!』


『拾ったぁ?』


『う、うん!えらい人に落とし物届けなきゃ!』




あ、ごまかした。

あんなに脅しておいて、今度はかばってやったのか?


失笑しかけて口を押さえた。



変なやつ。


……そんで、優しいやつ。





『とりあえず戻りますよ!』


『はーい!』



2人がいなくなってから、ゆっくりと扉を開けた。


さっきの女子、誰だったんだろう。



『……って、やば!俺も行かねぇと!』



控室に戻ると、部屋に閉じ込めた男子2人がいた。


まだ帰ってなかったのか。


目が合うとにらまれたから、思い切りきつくにらみ返してやった。

気まずそうに逸らされる。


勝った!!



控室を見渡しても、さっきの女子らしき人物はいなかった。


キョロキョロしていたせいか、スタッフがバイオリンを届けに来てくれた。探してると思われたのだろう。



俺の大事な宝物。

やっと手元に戻ってきた。



タイミングよく俺の番が回ってきた。


ステージの真ん中に立つ。


両親も観てる。

審査員には有名なバイオリニストもいる。


あの女子もどこかにいるのだろうか。



……緊張する。


だけどあの女子みたく、俺も楽しく演奏したい。



まぶたを閉じて想起する。


最悪だったはずの今日が最高になるように奏でよう。



気づいたら緊張は消えていた。






教科書を盾にしながら指先をいじる。


絆創膏だらけ。
傷がいっぱい。


いつもきれいにケアされたお嬢さまの手は、今はどこにもない。


昨日は2か所やっちゃったんだよね。

これでも少ないほうだ。



10月に入り、文化祭が近づいてきた。



メイド執事喫茶の準備も本格化し始めた。


教室のうしろには準備の名残が追いやられている。



わたしは当日接客をする予定。

だから自分用のメイド服を作ってる。


……それでこのありさま。



お裁縫って料理以上に難しい。


手縫いは針の先端が指に刺さるし、ミシンは布も縫い目もがたつくし。



衣装作り以外にも委員会の仕事もある。


予想以上に毎日忙しい。


でもいいの。

望んでいたことだから。



恋愛のことを考える余裕なんかないのが、ひどく気楽。



「竜宝!」


「は、はひっ……!」



しまった!油断してた!


はじかれたように顔を上げる。



う、うわぁ……。

先生の笑顔、真っ黒……。



今は昼休み前の数学の授業。


担当はわがクラスの担任。


怒るとめちゃくちゃ怖い。



「この問題やってみろ」


「は、はいぃぃ」



ぼーっとしてたのがバレたんだろうな。


教壇前でもうしろでも、注意されるのはどこの席も変わらないんだ。とほほ。



黒板に書かれた問題は2つ。


前に出てどっちも解けばいいのかな?



「相松!お前も解け!」


「……っす」



わたしが立ち上がったと同時に、先生が名指しした。


ドクン、と脈を打つ。


めずらしい。
円もぼーっとしてたの?

なにを考えてたんだろう。


今でも挨拶すらまともにできてないわたしのこと、ちょっとは考えてくれてたりする……?



……あぁ、ほら、また円のこと。


いいかげん変わんなきゃって。

ダメだって。


何度も言い聞かせてるつもりなんだけどな。


仕事中は忙しくても、ささいなきっかけでぶり返す。


同じクラスじゃなかったら、席が遠かったら、そのきっかけ自体少なかっただろうに。



うじうじしてる自分が嫌い。

未練たらたらなところがやだ。


告白する前まで、恋してる自分が大好きだったな。




「できたか?」


「……はい、解けました」


「俺もできました」



黒板の前で並んで立ってるだけで、心臓がドキドキうるさい。


黒板に書いたわたしの字、すごく汚い。

逆に円の字はきれい。


わたしだってもっと上手に書けるもん。


字が下手くそなのは円が隣にいるせいだよ。




「……うん、2人とも正解だ」


「さっすが学年トップの2人だな~」


「彩希うっさい」



勉強が得意なのは、お嬢さまだったときの英才教育のおかげ。


でもわたしより円のほうが頭がいい。

同居してたとき、円と勉強会したこともあった。



『円、この問題って……』

『あー、俺もそこ悩んでた』

『このXってこうなる?それとも引っかけ?』

『俺も最初そうなったけど、これにかけたら……』

『わあ!すごい!円、天才!?』



円の教え方が好きだった。


円との勉強が大好きだった。



わたしが笑うとつられて笑みがこぼれる円を、できることならずっとそばで見ていたかった。



「問題が解けるからって授業中上の空になるなよ」


「はい、すみませんでした!」



反省してます!

授業集中します!


ペコペコしながら謝り、席に戻る。



一歩踏み出したとたん、視界がぐらついた。



「……っ、」



あれ?どうしたんだろう、わたし。


よろけた体に力を入れようにも全然力が入らない。



やばい。倒れる……!



「寧音!」


「……ま、どか……?」



お腹あたりに力がこもる。


……わたしの力じゃない。

円のだ。



円がわたしの体に片腕を回して支えてくれたんだ。


腕が離れて、自力で踏ん張ってみるが、再びめまいが起こる。


そしたら今度は

体が浮いた。


……え?浮いた?



「こいつ体調悪いみたいなんで、保健室つれて行きます」



「きゃー!」やら「わー!」やらクラスメイトが騒ぐ。


えっ、えっ。

待って。これって。


お、お姫さま抱っこというやつでは……!?




「ちょっ、円!下ろして!」


「体調不良のやつは黙ってろ」


「体調悪くないもん……!」


「ふらついてたやつがなに言ってんだ」




どれだけ平気だとうったえても、円は保健室へ向かう足を止めてはくれない。


そばにいるのをやめたのに。

もう頼りたくないのに。


どうしてこんなことするの。



ひどいよ。


また好きになっちゃったじゃんか。




保健室に到着すると、ベットまで運んでくれた。


もうひとつのベットで横になってる生徒に熱があるようで、先生はそっちにかかりっきりになっていた。



「こっちの子が落ち着くまで、よければその子についていてあげて?」



先生はそう言うと、辛そうにせきをする生徒のほうへついてあげた。




「……円、あ、ありがとう……。いいよ戻って。授業あるでしょ?」



わたしは大丈夫だから。

そばにいなくていいよ。


突っぱねたのに、円はベットをカーテンで囲むとベットに腰かけた。


ギシリとスプリングが鳴る。



「な、なにしてるの?戻っていいってば」


「お前が寝るまでここにいる」



……どうして。


円の目尻がやるせなく垂れ下がった。



「どうせ委員会の仕事を張り切りすぎて、寝不足とか貧血になったんだろ」


「……ち、ちがうよ」


「ちがくねぇだろ。今朝から顔色悪かったじゃねぇか」



え?

今朝から?



「……もしかしてずっと気にかけてくれてたの?」



さっき先生に指名されたのは、上の空だったんじゃなくてわたしを心配してたから?


ねぇ、否定してよ。

そうしないと、また自惚れちゃうよ。



「……気にするだろ。目の下にでっかいクマあるし」


「えっ!」



とっさに目元を手で覆う。



「手も絆創膏ばっかだし」


「あっ!」



わたしの手に円の指が優しく触れる。


ちょっと冷たい。

この温度がいとしい。


泣きたくなるほどに。



『こほっ、こほっ』

『おかゆ作ってやったぞ』

『ああっ、近づかないで!風邪うつしちゃう……』

『俺の心配してる場合じゃねぇだろ。ほら食え』

『んっ!……おいしい……』

『当たり前だ』

『ありがとう』

『礼もいらねぇよ。こういうときくらい甘えろ』



もうそばにいるのはやめました。

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