遠くに光が見えてきた。
キラキラ、キラキラ。
空気を読んで星たちを忍ばせた、ぼんやりした夕闇を鮮やかに照らしている。
「わあっ……!」
近くで見るといっそうすごい。
きれいで、幻想的で。
まるで星空の中にいるよう。
うっとりしちゃう。
夢中になって円の数歩先を進んでいた。
一番奥までやってきて、円のほうに振り返る。
「ねぇ、円!」
すごくきれいだね。
来てよかったね。
そう続くはずだった声を喉の奥に押し戻してしまった。
なんて切なそうな笑顔で
わたしを見つめてるの。
この手をほどいたら、儚い光の世界に飲み込まれてしまいそう。
怖くなった。
手をぎゅっとした。
と同時に、その手を引かれた。
「ま、円……?」
空いてるほうの手をわたしの腰にまわされ、首筋に吐息がかかる。
ひどく頼りなげな弱さ。
黒い髪が人工的な星明かりを遮断する。
こんなところで抱きしめたら、また周りから注目されちゃうよ?
あ、でも、他のカップルもいい雰囲気だから関係ないね。
わたしたちもイチャイチャしてるように見えるのかな。
ちがうのにね。
これはイチャイチャなんて甘美なものじゃない。
ねぇ、そうなんでしょう?
あの笑顔で、この抱きしめ方で、それくらいわかるよ。
わかっちゃうよ。
「俺、さ……」
円の心臓、ドクドク鳴ってる。
聞くのが怖い。
「昨日父さんに……一緒に住まないかって、誘われたんだ」
「え……」
一緒に、って……。
「相松さんが、今、住んでるところってたしか……」
「……イギリス」
遠い。
どれくらいの距離か、すぐに例えられないほど遠すぎる。
こんなふうに手をつなげなくなる。
抱きしめることもできない。
またそばにいるのをやめなくちゃいけないの?
「それで、俺……」
「……やだ、よ……」
「……寧音、」
「行かないで、円……っ」
だめ。ちがう。
そうじゃない。
円と相松さんがやっとすれ違いに気づいたのに、わたしが引き裂いちゃいけない。
家族がそばにいるよろこびも、家族がそばにいない寂しさも知ってるんだから。
だから今からでも言ってあげなきゃ。
よかったね。
わたしは大丈夫だから。
そう背中を押すべきだって頭ではわかってる。
だけど
どうしても
そばにいたい。
「あーあ。泣いたらブスになるっつっただろ」
ポロポロこぼれる涙をひと粒ずつすくっていく。
すくいそこねた不透明な雫が、もらったばかりのマフラーにしみた。
「行かねぇから安心しろ」
「ま、どか……っ」
「大丈夫。寧音のそばにいる」
その「大丈夫」は本来ならわたしのセリフだったのに。
あぁ、またその笑顔。
させているのは、まぎれもなくわたし。
ゆっくりと微妙な距離をなくしていった薄い唇が、わたしの上唇にそうっと触れるとついばむみたいに下唇も合わさる。
なぐさめるような苦しいキス。
ファーストキスってもっと甘いものだと思ってた。
今日が終われば冬休み。
通常より早めに学校が終わる。
だというのにゆううつなのは、昨日のクリスマスデートを引きずってるせい。
気分に合わせて髪のクセとネクタイはいつもよりひどいありさま。
マフラーとリボンのバレッタをつけてくる気にはなれなかった。
冬休み前最後だからかやけににぎやかな教室に入った。
机にカバンを下ろすと、穂乃花ちゃんと武田くんに挨拶される。
それから、
「はよ」
円にも。
「お、おはよ……」
後悔。
その言葉が妙にしっくりきた。
後悔……してるんだろうな、わたし。
『行かないで、円……っ』
でもあれが正真正銘、本音だった。
失恋して一度そばにいるのをやめたときだってさんざん悩んで苦しんだのに、住む国がちがったらわたしどうなっちゃうんだろう。
ふと影が落ちてきた。
不思議に思って顔を上げる。
「!?」
円が正面にいた。
い、いつの間に!?
ドキッとして、ズキッとする。
心臓がせわしない。
「ま、円……?」
じっと見つめてどうしたんだろう。
わたしの顔になにかついてる?
それとも……昨日のこと?
見つめ合いが数秒続くと、じょじょに円の顔が近寄ってきた。
え?え!?
昨日のキスを想起する。
ま、ま、まさか……!?
こんなところで!?
思わず目を固くつむる。
当たったのは唇じゃなくて……おでこ。
「……へ?」
「熱はねぇみたいだな」
「ね、つ……??」
「なんか元気なかったから」
キスじゃなかった!!
心配してくれただけだった!!
勘違いもはなはだしい!
穴があったら入りたい……。
「げ、元気だよ!」
「顔赤いけど」
「こっ……これは、その……ちがくて……!」
両手で顔面を覆いながらあたふたすれば、円はいたずらっ子みたいに双眼を三日月型にする。
「なにか期待した?」
「っ!!」
「わかりやす」
「し、し、してないし!」
「否定遅ぇよ」
クツクツ喉を鳴らして笑われた。
わたしの前でだけ見せる特別な表情。
クラスメイトの女の子たちが「きゃー!」「かっこいい!」「かわいい!」ってひそかにざわついてる。
うれしくて、独り占めしたくもなって。
……なのにどうしてだろうね。
どんどん熱が引いていく。
「まあ元気ならよかった。俺ちょっと係の仕事行ってくるわ」
クセの激しい赤茶の髪をひと撫でされる。
なごり惜しげに手が離れた。
武田くんに声をかけた円は、2人で教室をあとにする。
「お前のほうこそ熱あんじゃね?」
「ねぇよ」
「俺には普段どおりなのな」
「は?」
「自覚症状ねぇのもやっかいだな~」
「さっきからなに言ってんだ」
「昨日なにかあったんだろ。プレゼント失敗した?」
「してねぇよ」
「あ、キス下手だったとか?」
「その口縫ってやろうか」
「アハハ、じょーだんだって~。竜宝さん相手だとお前ってとことん空回るよな。恋ってすげー」
「うっざ」
わかりやすいのは、円のほう。
大げさなくらい優しくして、無理してる。
無理、させてる。
きっとわたしが。
「相松くんって人前でべだべたする人だったっけ?まさかあたしへのけんせい!?」
「けんせい?」
「う、ううん!こっちの話」
けげんそうにしていた穂乃花ちゃんは、呆れ半分に一笑する。
「相松くんって独占欲強いよね」
「……たぶん、独占欲強いのはわたしのほう、かな」
意外そうに茶色い目がパチクリとまばたきした。
すぐに触れられる距離でいたかった。
そばにいてほしかった。
だけどそれは好きな人をしばりつけてるだけ。
お互いが苦しんでる。
こんなの本物の幸せじゃない。
「あたしには独占欲ないの?」
「え?」
「あたしも寧音ちゃんに独占されたいな」
かわいらしいおねだり。
はげましてくれてるのかもしれない。
「穂乃花ちゃんともーっと仲良くなりたいって思ってるよ?いつか親友になれたらいいなあって」
友だちや幼なじみはいるけど、そういえば親友という存在はいたことがなかったな。
「あ、あたしと?」
「うんっ!」
「!! あたしもなりたい!」
親友ってどうやったらなれるのかな。
恋人みたく気持ちがそろったらなってるもの?
関係って難しい。
ほのかちゃんと笑ってるほうが心がなごむなんて彼女失格だろうか。
*
午前中は学校。
午後はバイト。
バイトがあってよかった。
仕事に集中しているほうが、モヤモヤ悩まずに済む。
あっという間に午後8時。
閉店時間になった。
「竜宝さんお疲れさま」
「お疲れさまです!」
先週まで奥さんとケンカして痩せた店長は、今日はお腹を膨らませている。
仲直りできたんだなぁ。
一度頭を下げてから楽器店を去った。
街灯にともされた商店街を歩いていると、前方に見知った人影を発見した。
「ハルくん?」
「姫!」
紺のキャップをかぶったハルくんが、しっぽを振りながら駆け寄ってくる。
学校帰り……じゃないか。
学ランじゃないし。
「久しぶりだね」
「まさかこんなところでお会いできるとは!なにしてるんすか?」
「あそこの楽器店でバイトしてたの。その帰り」
「バイト先ってあそこだったんすね!」
「ハルくんは?」
「おつかいっす」
右手に持っていたビニール袋を軽く持ち上げた。
えらいねとほめれば、そんなことないっすとけんそんされる。
「……姫、元気ないっすね」
「ええ、元気だよ?」
ハルくんにまで指摘されるなんて。
そんなに疲れてるように見える?
「僕にウソは通用しないっすよ?」
「う、ウソじゃ……」
「姫が背筋を伸ばして笑ってるときは、たいてい強がってるかなにかを隠してるときっす」
さすが元専属執事。
わたしのことなんでも知ってるね。
わたし今もしゃんとしてた?
完全に無意識だった。
「なにがあったんすか?」
なにか、じゃなく、なにが。
断定的な言い方。
ハルくんには敵わないな。
「……相談、乗ってくれる?」
「もちろんっす!」
自分でなんでも解決できるようになりたいのにうまくいかない。
頼って、甘えて。
好きな人にも無理させて。
わたしってつくづく弱いなあ。
商店街を過ぎ、小さな公園に立ち寄った。
わたしとハルくんしかいない夜の公園はひどく静かで哀愁が漂う。
「……相松さんっておぼえてる?」
ふたつのブランコがギィ、と軋む。
「旦那さまの秘書だった人っすよね?その人がどうかしたんすか?」
「相松さんが、円のお父さんなの」
「円って……あいつ、すか」
あいつ。……うん、たぶん合ってる。
「円がね、相松さんに一緒に住まないかって誘われたらしくて」
「へぇー、よかったじゃないっすか」
なんて関心のない棒読み。
なぜかふてくされるハルくんは、帽子を目深にかぶり直した。
「でもわたし……行かないでって言っちゃった」
わがままだよね。
ようやく家族の時間ができるはずだったのに。
独りじゃなくなることを望んでいたわたしが、つなぎとめてしまった。
『大丈夫。寧音のそばにいる』
言わせてしまった。
なにも大丈夫なんかじゃないくせに。
「……姫はそれほどあいつのことが好きなんすね」
ボソッと息苦しそうに呟かれた。
大きな口が小さく震えてる。
「いいじゃないっすか!自分の気持ちに正直でいることはなにも悪いことじゃないっす」
一転して明るくなった。
ハルくんはいつだってその人なつっこい笑顔でわたしを肯定してくれるよね。
心強い味方。
今まで何度もわたしを導いてくれた。
「だけど……円の気持ちを無視しちゃった」
「だからって強がってもまた苦しむじゃないっすか。どっちにしろ後悔するなら、どっちもやっちゃえばいいんすよ」
どっちも……?
ハルくんはブランコから腰を上げた。
わたしの前に移るとしゃがみこむ。
「僕は今でも姫のそばにいたいっす。できることなら一番近くで支えて、守っていきたい」
大きな手のひらがわたしの手を包んだ。
握らずに添えるだけ。
それでもあったかい。
「この気持ちは姫にとって迷惑っすか?」
「ううん!うれしいよ!」
「でも姫が一番そばにいてほしいのは、僕じゃないんすよね?」
ヘーゼル色の瞳がゆらり揺れる。
白くなった指先をきゅっと丸めた。
ぎこちなくうなずけば、あどけない顔が悲しげに歪んだ。
ごめんね、と。
謝るのはなにかちがう気がした。
「あきらめないっすけどね!」
「ハルくん……」
ニィ、と白い歯を覗かせて笑うのはわたしのためだって、知ってる。
「姫のそばにいていい資格……というか理由を、今一生懸命探してるんすよ!」
理由を、探す。
そばにいる。
そう感じられる理由を。
「あきらめない限り、可能性は無限大っす!少なくとも僕はそう思ってるっすよ」
この苦しさや寂しさを受け入れられる理由があれば
わたし自身も円のことも想って、大丈夫になれるだろうか。
ううん、信じればきっと。