もうそばにいるのはやめました。



前方に倒れかけた体をきつく抱き寄せられた。



「まっ、円……っ」



身をよじらせても、胸をたたいてもびくともしない。


離れたいのに離れられない。

離してくれない。



「俺は寧音が好きだ」



うるさい雨音の中でも鮮明に聞き取れてしまった。


好き。

それはずっと欲しかった2文字。


でも……本当に?




「……そ、そういう、冗談は……」


「冗談じゃねぇよ。ウソでもねぇ。本当に好きなんだ」


「忘れられない人がいるって……!」


「お前のことだよ」




……え?

どういう意味?



「小4のときバイオリンのコンクールでバイオリンを奪われたことがあって、そこを助けてくれた女子のことがずっと忘れられなかった」



小学4年生のころのコンクール……バイオリン……。


身に覚えがあった。



『バイオリンさん、大丈夫だった?傷は……ないみたいだね。よかったぁ』



あのバイオリン、円のだったの……?



「その女子がお前だって気づいて……いや、ちがうな。気づく前から好きだったんだと思う」



じゃあ、本当に。

円はわたしを好きなの?


信じていいの?


じわじわと涙があふれてくる。



「寧音」


「っ、」


「俺のそばにいろよ」




言葉とは対照的に声色はか細くて、らしくなく頼りない。


すがりつくように震える腕を力ませてる。



「わ、たし……っ」



力の抜けた手で円の濡れたシャツのすそをつかんだ。



「わたしも、そばにいたい」



涙をこらえられなかった。



灰色の表面を閃光がてんめつする。


すさまじい音がまた鳴り渡る前に抱きしめ返した。



強く、強く。

冷たい感触もどうでもよくなるくらい。


ほんのわずかな隙間も埋めた。



「円が好き……。どうしても『好きだった』にできなかった」


「『だった』なんかつけなくていい。ずっと好きでいろよ。俺もずっと変わんねぇから」



耳をくすぐる低音が心地いい。


雨もまったく気にならない。



自惚れじゃない。

フリでもない。



今日からわたしは本物の彼女なんだ。


円のそばにいていいんだ。



「好きだよ」



甘いささやき。


涙がこぼれるのに口角は上がってしまう。



うん、わたしも好き。

その返事は泣きじゃくりすぎて声にならなかった。



でもいいの。


きっと円には届いてる。





見慣れた扉。


円の家の前。



インターホンに伸ばした指をパッと引っ込めた。



「き、き、緊張する……!」



土曜日の正午すぎはやけに太陽がさんさんとかがやいているのに、緊張のしすぎでちっとも暖まらない。


久し振りの円の家っていうのもあるだろうけど、客としておじゃまするのが初めてだからそわそわしてしまう。



しかも!今日は!

円の家でおうちデートだし!!




きっかけは両思いになってすぐ。

雨が弱まってきたころ、ハルくんが遅れて駆けつけた。


わたしと円が付き合うことになったと打ち明けると、ハルくんははがゆそうにした。



『……姫は、もう、前に進めてるんすね』


『ハルくん?』



けれど一瞬で笑顔になった。




『なんでもないっす!よかったっすね!』


『ありがとうハルくん。迷惑かけてごめんね』


『謝らないでください!それに迷惑をかけたのは僕のほうっす』


『そんなことないよ!』


『僕、今日は家に帰るっす。わがまま言ってすみませんでした。姫を捜してる途中に親から電話がかかってきて、めちゃくちゃ叱られました。姫に迷惑かけるな、って。それに学校のテストも近いし、執事の勉強もほったらかしにしてたら守りたい人も守れないぞ、って』


『わたしもだよ!昔のクセでついハルくんになんでも任せちゃって……』


『……いえ、今の僕は力不足だって、痛感したっす。姫にまた会えてよかったっす。家に帰ってしっかり修行し直してきます!』




力不足なんてことないと思うけどな。

今でも十二分に優秀だよ!



ハルくんってストイックというか、向上心が高いというか。


そこもハルくんのいいところだよね。



ハルくんがなっとくできるまで頑張ってほしいな。


テストに執事の勉強に…………って、ん?

テスト!?




『ま、円……』


『ん?』


『うちの学校もテスト近かったりする……?』


『ああ、再来週だな』


『!?』


『……まさか、知らなかったのか?』




完全に頭から抜けていた。


そうだ。文化祭が終わったらテストというものがあった。



コツコツ勉強をしてやっといい点をとれる典型的な努力型なのに、委員会で忙しすぎて全然勉強できてない!やばい!!




『……来週、俺んち来るか?』


『え?』


『勉強、やべーんだろ?』


『い、行くっ!!』




これってデート!?

デートだよね!


勉強してなくてよかった!
……っていやよくはないけど。


初デートだよ!やったね!


内心はしゃいでると、ハルくんが笑顔で円に近づいた。



『もし姫を泣かせたらようしゃしねぇっすから。それに……あきらめる気ねぇっすよ』



なにやらボソボソと耳打ちをしていたようだけど、あのときなんて言っていたんだろう。


ためしに円に聞いてみてもだんまりだった。




そんなこんなで

一難去らずにまた一難突撃してきたのが一度に片付いてからまたたく間にデート当日。



彼女として初めての円の家。


同居人としてではなく、彼氏の家に訪問する。



「ど、ドキドキする……!」



もはやこれはドキドキじゃない。

ドックンドックンだ。


彼氏。彼女。
なんてすてきな響き!!



「あっ、念のため身だしなみチェックしとこ!」



今日のためにこっそり練習してきたヘアアレンジのあみこみ。


唯一持ってるフリルとリボンがかわいらしいワンピース。


穂乃花ちゃんに教えてもらったナチュラルメイク。



……よし!髪型とメイクは崩れてない。


ワンピースはどうかな。


前は『似合わねぇな』ってけなされたんだよね。

勇気を出して再チャレンジしてみた。


お父さんとお母さんは絶賛してくれたけど……今になって不安になってきた。



「わああまた似合ってないって言われたらどうしよううう」



――ガチャリ。



「家の前でなに騒いでんだ」


「ま、円!?」



右往左往していたら、扉から円が顔を出した。


しょっぱなから呆れられてる!?




「……そ、そんなにうるさくしてた?」


「すんげーうるさかった」


「ウソ!」


「ほんと。玄関にいたからよけいにな」





じ、自覚なかった……。

反省します。


……ていうか、円、玄関にいたの?



「円、なんで玄関にいたの?」


「え!?」



円の顔がみるみる赤くなっていく。


……もしかして。



「わたしのこと、待ってたの?」



また呆れられるのを覚悟で赤面を覗き込む。


あ。

耳たぶまで真っ赤だ。



「な、なわけ……ねぇ、だろ」



冷たくも迫力もない。


プイとそっぽを向いた横顔は、しくじったかのようにしぶくなってる。



ドキドキとかドックンドックンとかそういう次元を超えて、キュンてした。




「好き!大好き!」


「……知ってる」


「円は!?」


「…………」


「ねぇ!円は!?」


「……うぜぇ」




しょうがないじゃん!

好きなんだもん!あふれちゃったんだもん!


ときめかせた円が悪い。


視線だけをわたしに移した円に負けじと見つめ返す。



「……ほら、入れよ」



早々に逸らされてしまった。


さすがに伝えてくれないか。

不器用だから想定はしてたけど。


言ってほしかったなぁ。


敗北感を募らせながら円の家に踏み入れた。



「おじゃましま……」



す、と言い切る寸前


うしろから温もりに包まれた。




ふわりとかすめる石けんの匂い。


突然ホールドされた体がピシリと固まる。



「ま、ま、円……!?」



抱きしめられるなんてまったくの想定外!




「好きに決まってんだろバーカ」


「!!」


「あんな騒いでるひまあんならさっさとインターホン鳴らせよ。待ちくたびれただろ」


「……ご、ごめん、なさい……」




次はわたしが赤くなっちゃうよ。


甘い。
甘すぎる!

胸やけしそう。


こんな円、知らない。



あぁ好き。


1秒前よりもっと好き!



ほどかれていく腕を惜しんでいると、円が手に持ってる袋に気がついた。




「なんだよそれ」


「手土産だよ。ケーキ作ってきたの」


「寧音が?」


「もっちろん!」


「……食えんのか?」


「失礼な!ハルくんにレシピを聞いて作ったんだからおいしいはず!」




ハルくんがわたしの家を去るときにちゃっかり教えてもらったんだ。


お嬢さまのときは、誕生日ケーキはハルくんが作ってくれていた。


ハルくんお手製のケーキを上回るものはない!



「ハルくん、ね……」



なんでちょっとムッとしてるの?


そういえばレシピを聞く理由を知ったハルくんも急に機嫌をそこねたっけ。





「円?」


「……なんでもねぇ」



なんでもないって顔じゃなかったような……。



「そのケーキはあとで食べようぜ」


「うん!」



袋ごとあずかった円は「先に俺の部屋に行ってろ」とうながすと、キッチンのほうへ向かった。


指示されたとおり、円の部屋に行く。



「お、おじゃましまーす……」



木製の扉を開ければ、円の匂いが漂う。


白と青を基調とした部屋。

整理整頓されていてきれい。


同居中でさえこの部屋にはあまり入ったことがない。


こんなふうにちゃんと入ったのは2回目。



「……あ、バイオリンだ」



こんにちは、円のバイオリンさん。

また会えたね。


音楽に関する本やCDの並ぶ棚の上に、丁重に置かれたバイオリン。



カーテン越しに照らす光が、バイオリンの上をすべる。


まるで挨拶を返してくれたみたい。



「座っててよかったのに」



ケーキを冷蔵庫にしまってきた円もこの部屋にやってきた。



「バイオリンに夢中になっちゃってた」


「……いいバイオリンだろ、それ」



大きくうなずけば、自慢げに微笑まれた。


円の宝物をエンディングのステージで弾かせてもらえたのはきちょうな経験だったなぁ。




文化祭の思い出を回想しながら、ローテーブルの前に腰を下ろした。


カバンの中から教科書とノートと筆箱を取り出す。



……なんてムードのない。


いやいや!
数学の教科書があっても立派なデート!


勉強会デートだ!!



「この前はやべーっつってたけど、寧音ならそこそこできんだろ?」


「そこそこできても難しいところはできないじゃん!勉強をあと回しにしてた分、基礎をしっかりたたきこんで応用問題も解けるようにならなくちゃ!」



目指せ100点!

学年順位もさらに上を狙うぞ!



「……幼なじみのやつと、似てるな」


「え?ハルくんと?」



似てるかな?

わたしもだいぶ向上心が強めだけれども。


ハッとした円はくしゃりと前髪をかき上げてうつむいた。



「……わりぃ、今のなし」


「へ?」


「忘れてくれ」



なしってなにが?

似てるって言ったこと?なんで?


疑問しかなかったけど、円の表情がくもっていたから訊くのはやめておいた。



「自分からあいつの話題出してどうすんだよ」



ちっぽけな独白は、教科書を開く音に吹き飛ばされた。


ちょうど開いたページに、わたしと円が以前先生に注意されて黒板に解答を書いた問題がけいさいされていた。