涙はとうに乾いていた。
「ハルくん、わたしになにか用だったの?」
「あ、そうだった!」
ハルくんの眼差しが凛々しくなる。
「姫!」
「なに?」
「僕を姫のそばにいさせてください!」
思考回路がうまく働かない。
ええと……どういう意味?
「必要な物も持ってきたっす!24時間姫を守れるっすよ!」
「に、24時間!?」
「また今までみたいに姫に仕え……」
「ちょっ、待って!!」
ハルくん、ストップ!
その大荷物に、24時間守る宣言……。
もしかして。
「……ハルくん、家は?」
「あ、安心してください!しばらく帰らないってメール送っといたんで!」
安心できないよ!!
それってつまり家出じゃないの!?
「ね、寝泊まりは……」
「もちろん姫のところで!ベットとか布団はいらないっすよ。寝袋持ってますから。いや、姫を守るためなら寝なくても……!」
そこは寝て!?成長期でしょ!
……ってそうじゃなくって!
やっぱり家出だった!
しかも一方的に家族に連絡を入れただけの!
ハルくんの忠誠心がさらに強まってる……。
一難去らずにまた一難。
雨が降っただけでなく、台風も来ちゃったみたいです。
『先に謝っておくよ。弟が迷惑かけたらごめんね』
昼休みにナツくんがいたわったり謝ったりしたのって、このことを示唆してたのかな……?
チラリとリビングに座ってるハルくんを一瞥してため息をついた。
「はい、お茶」
「ひ、姫!こういうのは僕がやったのに……」
「いいの。ここはわたしの家なんだから、お客さまをもてなすのは当たり前でしょ」
ローテーブルにコップを2つ置いた。
温かいお茶から湯気が立つ。
お茶をこうして淹れるのにも慣れてきた。料理をするよりずっと簡単。
「姫……今はこんなところに住んでるんすね」
「狭いでしょ?」
「はいっす。……あ、いえ!」
「あはは。いいよ気にしないで。わたしも最初そう思ったもん」
アパートの一室。
昔の豪邸と比べたら玄関もリビングもキッチンも……どこもかしこも狭すぎる。
和風なおもむきのあるこの家は、歩くとギシギシ鳴るし、すきま風は吹くし、隣の家の生活はよく響くし、お世辞にも住みやすいとは言いがたい。
だけど、お父さんとお母さんが一緒だから。
わたしには十分なの。
「旦那さまと奥さまは……?」
「仕事だよ。夜遅くまで働いてる」
「そう……すか」
「わたしも仕事してるんだよ」
「え!?」
「近くの商店街でね。あさってもバイト」
びっくりした?
へへ、すごいでしょ。
楽器店に勤めてると教えると、姫らしいとほめられた。
「わたしも毎週働いてるし、家事だってする。もうお嬢さまじゃないから」
毎日の支度からお茶の淹れ方まで、失敗しながらこなしてきた。
オムライスは今じゃ一番の得意料理だし、ニキビは定期的にできちゃう。
わたしはもう
どこにでもいる平凡な女子高生なんだよ。
「それでもわたしを守りたいって思う?」
「守りたいっす」
即答だった。
迷いのないハルくんに、言葉がつっかえる。
「僕にとっての“姫”は、姫しかいないんす。初めて会ったときからずっと、お嬢さまじゃなくなったって……姫が僕の“生涯の主”っす!」
わたしだってそうだよ。
わたしの専属執事は、これから先もハルくんだけ。
『おひめさま』
『……は、はい』
『ぼくにきみをまもらせて?』
『うん。わたしのこと、まもってね』
あの出会いのときのままだったら。
わたしが本物のお姫さまだったら。
そんなたらればはむなしくなるだけ。
「……また、出会えるかもしれないじゃん。新しいお姫さまに」
「無理っす」
また即答!?
「実は親に連れられて、八文字家が世話になってる財閥の家になん件か行ったんす。挨拶程度でしたけど皆いい方でした」
「なら……」
「でも無理だったっす。まったく心が動かなかった。むしろ姫に会いたい気持ちが大きくなってたんす」
「ハルくん……」
「やっぱり僕は姫じゃなきゃ意味がないんす」
ローテーブルをはさんで向かい合って座ってるハルくんは、テーブルをドンッ!とたたいて前のめりになった。
迫力ある声音とは裏腹に、表情はひどく苦しそう。
「で、でも……今ウチに執事をやとえるお金はないし……」
「お金なんかいらないっす!ただ姫のそばにいられたら、それだけで僕は……!」
――そばにいたい。
わたしにも、いるよ。
脳裏を占めるのは、どうしたって好きな人。
円の顔。
そばにいてほしいのは
そばにいたいと望むのは
やっぱり、まだ、円なんだ。
どうして円じゃなきゃだめなんだろう。
あきらめようと頑張っても、どんどん好きになる。
『俺が恋人のフリをやる』
「好き」を傷つけられたのに、「嫌い」にはならない。
……なれたら楽だったのに。
「ひ、め……?」
「え?」
「なんで泣いてるんすか」
「あ……っ、あれ?どうしたんだろ……。お、おかしいな。あは……っ……ごめん、ね」
さっき引き締めた涙腺が、再度ゆるんだ。
笑ってみたらまたひと粒あふれた。
ハルくんがうろたえながら親指でそうっと目元をなぞる。
「姫……。姫は誰を想って泣いてるんすか……?」
なぜかハルくんも泣きそうになっていた。
*
「はい、できたっす!!」
「おおー!」
1日の中でもっともふぬけた形相になる、朝。
寝起きに加えてむくみや腫れやクセなどもろもろ調子の悪かった姿が、たったの10分で見ちがえた。
鏡に映るわたしに感げきする。
湿気で大爆発だった髪がとぅるんとぅるんのさらっさら!
赤く腫れた目も昨日泣いたなんてウソみたいにぱっちり!
「さっすがハルくん!」
「これくらい朝飯前っすよ!」
結局ハルくんは昨日ウチに泊まった。
しかも本当に寝袋で眠っていた。
お父さんとお母さんは久し振りにハルくんに会えてよろこんでいた。
わたしだって家出じゃなかったらよろこんでたよ。
朝起きたらハルくんは先に起きていたし、なんならひととおりの家事を代わりにやってくれていた。
ハルくんの作ってくれた朝食おいしかったな。
そのうえこうしてわたしの支度も手伝ってくれて。
こんなに優秀な執事とずっと一緒にいたんだなぁ。
お嬢さまだったときは当たり前すぎて特別に思っていなかったけど、改めて見てみるとわりと優良物件なんじゃないの!?
見た目よし!腕よし!
仕事は早いし、勉強熱心。
センスもあって、主人思い。
頑張り屋で、かわいいところもある。
カンペキすぎる……!
ハルくんが挨拶に行かなくても、引く手あまたなんじゃ!?
それでもハルくんは
『ぼくにきみをまもらせて?』
幼いころの約束を守ろうとしてくれるの?
「ネクタイも結びますか?」
「あっ、ううん!これはわたしがやる!」
お肌と髪のケアをしてくれただけで十分頼りすぎなのに、ネクタイまで頼ったらだめな気がする。なんとなく。
これじゃあわたしの世話を焼く人が円からハルくんに変わっただけだもん。
自分がやらなくちゃ。
すでにいろいろ頼っちゃってるけど。
「で!……き、た?」
「姫……じ、上手っす!」
な、ななめになってる……。
ハルくんのフォローが沁みる。
まあ形はわたしにしてはいいほうだし、上出来上出来!
ポジティブにいこう!
ななめのネクタイを力技で真っ直ぐに正した。これでよし。
「じゃあ学校行ってくるね」
「僕がしっかり学校までお送りしますのでご安心ください!」
朝食をとってるお父さんとお母さんにそう言うと、ハルくんが元気よく敬礼をした。
え!?わたし初耳なんだけど!
「ははっ、それは安心だ。晴澄くんも気をつけるんだよ」
「いってらっしゃい」
微笑み合うお父さんとお母さんに「いってきます」と告げて家を出た。
……ハルくんと一緒に。
「姫!今日も雨が降るようなので傘をどうぞっす!」
「あ、ありがとう……」
用意しゅうとうすぎる!
ハルくんの言うとおり、くもり空。
今にも雨が降り出しそう。
ハルくんがいてくれて心強いけど……。
「ハルくん……学校まで送るってほんとに?」
「もちろんっす!男に二言はありません!」
あってもいいだよ?
と思うのはわたしのわがままだろうか。
「ハルくんが学校に遅れちゃうんじゃない?」
「大丈夫っす。この時間なら余裕で間に合います」
「……ならいいけど……」
「あっ、もしかして車の送迎がよろしかったっすか!?すみません、すぐ手配するっす!」
「ちがうちがう!手配しないで!!」
タクシーを呼ぼうとしたハルくんを急いで止める。
わたしが公立学校に入学して半年をすぎたんだよ?
もう徒歩での行き方は熟知してるよ。
けねんしてたのは登校する方法じゃない。
ハルくんと一緒にいる時間が長くなるほど、またハルくんの存在が当たり前になっちゃうのが怖いの。
「……あのさ、ハルくん」
「なんすか?」
「やっぱりわたしたち……」
「?」
「……わたしたち、一緒にいたら前に進めないんじゃないかな」
ためらいながらも伝えると、ハルくんの表情から感情が抜け落ちた。涙をこらえるみたいに下唇をきゅっと締める。
「ま、前に、って……」
「――あっ、竜宝さん!」
遠くから声をかけられた。
あっという間に学校付近まで来ていたようで、周囲はブレザーの制服姿だらけ。
わたしを呼び留めたのも、そう。
「昨日の……」
昨日の昼休みに告白してくれた2年生の先輩だった。
あ、昨日と同じ。
先輩の顔、赤い。
「俺、昨日はすごく物分かりいい優しいフリしてたけど……やっぱあきらめらんなくて」
『そっか。ちゃんと振ってくれてありがとう』
あのセリフは、笑顔は、虚勢だったんだ。
……あぁ、ほら、思ったとおり。
わたしには好きな人がいるのに
好きな人じゃない人から「好き」をもらい続けたら
困ってしまう。
どう応えるのが正解かわからなくて。
傷つけたくなくて。
「好き」はうれしいのに……うれしいだけ。
円もこんなに困ってた?
……困らせちゃってた?
「姫」
「っ、は、ハルく……!?」
言葉を探していたら、ハルくんに腕を引かれた。
否応なしに歩かされる。
「え、ま、待って!」
先輩の制止をスルーして、ハルくんは足を速めた。
「ハルくん!」
「……あいつ、なんすか」
わたしの腕をつかんで早歩きしながら聞いてきた。
ハルくんの背中しか見えなくて、感情を汲み取れない。
「先輩だよ。昨日……その……こ、告白してくれて……」
「…………」
「え、えっと……わ、わたし今モテ期なんだよ!すぐ終わるだろうけど……手紙もたくさんもらうし!」
「…………」
「恋人のフリでも誰かに頼もうかなって考えてるくらい。……なーんちゃって。……あはは、は、は……」
もう!なにか言ってよ。
ハルくんどうしちゃったの?
怒ってる?
腕をつかむ力が強くなった。
……絶対怒ってるでしょ。
「待って!!」
わたしの腕をつかんでるハルくんの手をにらんでいたら、今度は正面から制止がかかる。
ハルくんがブレーキをかけた拍子に、ハルくんの背中に鼻をぶつけた。
「いたた……」
ハルくんの背中越しに前方をうかがってみれば、走って先回りした先輩が先をふさいでいた。
「きみが誰か知らないけど、俺は竜宝さんに話があるんだ。その手離してくれない?」
ハルくんの手が離れる気配はない。
な、なにこの一触即発しそうな雰囲気は……!
ハルくんと先輩、さつばつとしてない!?
「は、ハルくん、手を……」
「嫌っす」
離れるどころか力む一方。
ちょっと痛い。
「なにごと?」
「修羅場?」
「あの子、エンディングの子じゃん」
「やば。イケメン」
ついでに野次馬の視線も痛い……!!
「ねぇ、ハルくん!」
「僕が、」
やっとハルくんの手がゆるんだ。
腕を握っていた手が下がっていく。
手のひらと手のひらが重なり、指と指の間にハルくんの太い指が交わった。