私を嘲笑う甲高い声からも、止むことのない雨のように容赦なく向けられる言葉たちからも。
逃げたいと、毎日のように願う日々だった。
こんな命なら、もう欲しくはない。神にでも何にでもくれてやる。
深夜一時。
静寂に包まれた最寄り駅に辿り着いた私は、懇願するように線路の先を見つめるばかり。
じいっと立ち尽くす私の視界に、列車は眩い光を灯した──
──十三時間前。
田舎町の県立高校に通う三年生の、私、橋本七海は、ただ俯きながら一点を眺めていた。今は八月下旬。夏休みも残すところあと指折り数えるほどで、今日は休暇中最後の登校日だ。
そんな私の目の前には、何十枚もの紙切れ。その一つ一つに、ご丁寧にメッセージが書いてある。全ては確認しきれていないが、そのどれもは、きっと喜ばしい内容ではないだろう。
「きゃはは、お前らもほんと懲りねえなあ」
ガタイのいい男子生徒が、にまりと口元を歪めながらとある女子二人組に視線をやる。彼女たちは悪びれた素振りも見せず、大きく高笑いをした。
「だって、こいつが学校にくるんだもん。あれだけいびってもこうして登校してくるの、ある意味すごいよね。特別な皆勤賞あげたいくらい」
一人の女子生徒がそう言うと、彼女の側にいた友達も揃えて口を開く。
「いや、もうあの紙が皆勤賞の賞状代わりでしょ」
その言葉に、さっきの男子生徒が「確かにな」と豪快に吹き出した。他のクラスメイトもただならぬ様子に気付いているはずなのに、何も言ってこないし、それどころかこちらを見ようともしない。
……まあ、それももう慣れっこなのだけれど。
「ほらほら、お前ら席につけよー。もう十二時だし、このSHR終われば返してやるから」
ガラッと一際大きな音を立てて教室の前側の扉から入ってきたのは、担任の先生だった。先生は立っていたままだった彼女たちに注意を促し、ちらりと私の机に目をやる。
けれど、先生はすぐに目を逸らし、何事もなかったかのように教壇に立ち話を始めた。その対応に、……やっぱり、と落胆しなくなったのは、いつ頃からだっただろう。
クラスカースト上位にいる彼女たちに誰もが怯えているのは、もう分かりきったことだった。
教室の端っこ、窓際の席。ここが私の定位置だ。ゆるりと視線を机から宙に浮かせ、なんとなく外を眺めてみる。そこには真っ青な空が広がっていて、鳥が二羽、優雅に青々しいプールを泳いでいた。
私がこうしていじめられるようになって、早何ヶ月が経ったのだろうか。澄み切ったブルーを茫然と眺めながら、考えてみる。
一ヶ月、二ヶ月、……ああ、今月で四ヶ月目か。今年の五月からだから、なかなかしぶとく耐えた方?それとも、世の中にはもっと長きに渡って執拗ないじめを受けている人がいるのか。いや、きっといるだろう。
私はゆっくりと目を閉じ、深呼吸をする。
思えば、きっかけはとても理不尽なことだったように思う。
私には高校二年の終わりまで、小夜という友達がいた。幼い頃から人とコミュニケーションをとるのが苦手で、地味に毎日を過ごしていた私にできた、ようやくの友達。
けれど小夜のお父さんの転勤が決まり、三年生に上がるのを節目に隣町に引っ越してしまったのだ。
もともと高校に入学してからは小夜と行動を共にしていたから、小夜が転校した後、私は〝一人ぼっち〟になった。簡単な挨拶を交わすクラスメイトはいても、同じ机を囲んでお弁当を食べる友人はいないし、週末に遊びに誘える子もいない。
でも、高校に進学する前の私も同じような感じだったから、特に気にしてはいなかった。友達が側にいる楽しさを知った分、少し寂しさが生まれただけで。
そんなこんなで毎日を過ごしていたある日のこと。平穏だった私のクラスでいじめが始まったのは、ゴールデンウィークがあけた頃。
標的は私ではなく、吹奏楽部に属している女子生徒だった。何をきっかけにいじめが勃発したのかは分からないけれど、気付いた時には、彼女はクラスカースト上位の女子たちに嫌がらせをされるようになっていた。
毎日毎日、心ない悪口を浴びせられ、机の中にゴミを入れられ、教科書を隠され、そういったことをされているのを見ているうちに耐えきれなくなったのは私の方で、私は彼女を助けたいと思った。
だから、彼女をいじめていた女子たちにとうとう言ってしまったのだ。
『あの、……もうそろそろ、辞めてあげたらどうかな』
私は多分、この先一生忘れないだろう。この台詞の後、私に向けられた、噛み付く悪魔のような視線を。いじめのターゲットが、私にすり替わった瞬間だった。
そして私の予想通り、翌日から私は執拗ないじめを受けるようになった。
靴を隠されたり、教科書がズタズタに破られていたり、クラスメイトの前で悪口を叩かれたりと、そのどれもは昔ながらのやり方だったけれど、私の心を蝕んでいくには十分だ。
私が勇気を出して助けたあの女の子も、掌を返したように私を無視し始める。また、いじめられるのが怖いからだろう。
気付けば私は常に地面に視線を落とし、いつまた悪口が飛んでくるのかとビクビク怯える日々。
助けてくれる人も何もない、お父さんを早くに亡くし、母子家庭で懸命に頑張って私を育ててくれているお母さんにも、悲しませたくないからという気持ちが勝って言えない。小夜に連絡をしようとしたこともあったけれど、彼女にも余計な心配をかけたくないという思いがあり、結局連絡はできなかった。
……本当に、滑稽だ。クラスの中でただ一人孤立し、空気のように生きていかなければならない。まるで地獄と化したこの教室に、私の居場所なんてとっくにない。
「……えー、これでSHRは終わりだ。新学期、気をつけてこいよ。課題も忘れずにな」
いつの間にか担任の話は終わりを迎えていたようで、その台詞を聞いた後、そそくさと立ち上がり帰りの準備を始める生徒たち。
私も小さく息を吐き、目の前に散らかる紙切れをしまおうと手を伸ばした。何十枚もあるこれに書いてあることなんて、下までわざわざめくって見なくてももう分かりきっている。
「橋本さん、あの紙持って帰るのかな?」
「えー?まさか家で今までのやつもコレクションしてるとか?うけるんだけど」
「本当それね。まあ、私らはもう帰ろうよ。あんなやつがいる教室にいつまでもいたくないし」
先生がいなくなった後の教室で、また彼女たちの悪口が耳に届く。私は聞こえないふりをして、彼女たちの姿が見えなくなったところで、無心で淡々と紙をスクールバッグの中に詰め込んだ。
──カサッ。その中の一枚を手に握りしめたとき、それに書いてある文言が私の目に飛び込む。
《死神列車にでも乗って、早くいなくなればいいのに》
死神列車……?
一時は首を傾げた私だったけれど、すぐにその意味を理解した。そういえば、クラスメイトたちが噂していたのを聞いたことがある。
死神列車とは、本当に死にたいと願っている者だけに見える特別な列車のこと。
その列車を目にするには時間の条件があり、全ての運行が終わった深夜0時以降に最寄駅へ行けばいいらしい。もしもその時、自分自身が心の底から死にたいと思っていれば、明かりを灯した列車が自分の待つ駅に停車し、そして、あの世に連れて行ってくれるというのだ。
あくまでこれは女子高生が浮き立って持ち出した噂話で、まるで都市伝説のような話だ。信じる方が馬鹿らしい。
……そう、思ってはいるものの、少し試してみたいと思う私もいるのは確かで。夏休みも、残すところあと僅か。休みが終われば、私にはまた地獄の日々が毎日のように待っている。
今日のような登校日だと、一日、はたまた半日耐えればなんとか乗り越えられるが、これが新学期だと別だ。冬休みに入るまで耐えなければいけないと思うだけで、激しく憂鬱な気分に苛まれる。
いつ自分へのいじめがエスカレートするのかも分からない恐怖。最近は、ニュースでも、行き過ぎたいじめの末、対象の相手を殺めてしまったというものも目にした。
そんな苦痛を強いられて生きるくらいなら、誰かに自分を消されながら殺されるくらいなら。自分から、自分を守るための死を選んだ方が、何倍も、何十倍も幸せだろう。
そう思えば思うほどに、死にたいという気持ちが募るばかり。
ふと外を見れば、さっきまでの晴れていた空とは打って変わって、雲が太陽を隠し、翳っている。それがますます、私の心を曇らせた。
このままここにいても正常さを失うばかりだし、今は一旦自宅へ帰ろう。考えるのは、その後でいい。どうせ死神列車は、深夜にしかこないんだし。
そう考えた私は、ゆったりとした足取りで家路を辿った。
自宅へ着いてからの私は、なんとなくお昼ご飯を食べる気にもなれず、制服のまますぐさまベッドに仰向けになり、ボーッと無機質な天井を眺めていた。
お母さんは週五日看護師のパートをしていて、今日も十九時頃まで仕事で家にはいない。
一人ぼっちの空間はとても静かで、私が小さく呼吸をしている音だけを拾う。学校での一人と、ここでの一人。比べるまでもなく、今の方が何倍も心地いい。
私はゆっくりとまぶたを伏せた。
脳裏に浮かぶのは、私をいじめている彼女らの顔ばかり。思い出したくもないのに、ふとしたときに彼女たちの存在を感じてしまう。そして、どうしようもない息苦しさを覚えた私は、毒を吐き出すように何度も荒い呼吸を繰り返すのだ。
手足に冷たさを感じ、後に顔までもが痺れてくる。目の前のものが霞み始め、意識が一瞬飛びそうになったのを自覚し、ああ、またか、と頭の隅で思った。
間違いなく、これは過呼吸の症状だろう。もう両手では足りないほど過呼吸を起こしてきた私だから、すぐに分かった。ベッドサイドに置いていた小袋に咄嗟に手を伸ばし、それを自分の口に当てる。
すると袋は音をたてて膨らんだりしぼんだりを繰り返し、数分そうしているだけでいくらかは意識を正常に取り戻すことができた。
「……おさまったかな」
まだ顔の痺れは残るものの、たどたどしく喋れるくらいには回復したみたいだ。慣れたくもないのに、すっかり過呼吸時の対応にも慣れてしまったなあと苦笑する。
私が過呼吸を起こすのは、決まって一人のとき。クラスメイトの前やお母さんの前では、自分でも知らず知らずのうちにストッパーをかけているのかもしれない。そのストッパーを唯一外せるのが、きっと一人の時間なのだろう。
私はもう少し呼吸を落ち着けられるように、寝転んだままでゆっくりと深呼吸を繰り返す。
気付かないうちに涙が滲んでいたみたいで、目の端から一粒の滴が流れ落ちた。
「……つらい、なあ」
涙と共に溢れたのは、紛れもない、私の本音。
「しんどいなあ。いつになったら、落ち着いて学校に通えるようになるんだろう。新学期になったら、みんな私に挨拶してくれるようになったりしてね」
なんて、ありもしない未来を想像して、言葉にしてみるけれど。
「そんなわけ、ないか」
すぐに撤回せざる終えなかった。
だって、何がどうなったってあり得ない。きっと私のことを助けてくれる誰かが現れてくれない限り、私へのいじめはこれからもずっと続いていく。
そのことが、幸せな未来よりも先に安易に想像できてしまったから。
「……なんで、私なんだろう」
そうポツリと呟いてから、諦めたようにやんわりと頬を緩め、大きく一つ欠伸をする。
呼吸を乱した後は、なんだかいつも眠くなってしまう。今も、気を緩めれば布団の中で眠りに落ちてしまいそうだ。
いや、お母さんも夜まで帰ってこないし、寝てもいいか。私を咎める人もいないんだし。
そう決めた私は、眠気に逆らうことなく目を閉じる。叶うことなら、このまま目が覚めなければいいのに。
その瞬間、ふと死神列車のことを思い出した。……そうだ。もし、この後生きたまま目が覚めてしまったら。今夜、死神列車を探しに行こう。あんなのただの噂話に過ぎないが、本当に死神列車が見つかればこっちの勝ちだ。
もしも、もしも列車が来なかったとしたら。その時はまた、別の方法を考えるまで。
少しでも今の世界から解放されることを思えば、久しぶりに心からホッとした気持ちで眠りにつけた。
「──み、……なみ……七海!」
「……っ」
あれからどれだけ時間が経ったのだろうか。
ここは天国……?
ぼんやりとする頭で考えたのも束の間、私の瞳にはどうやら自室の天井が映っている。耳に届いた私を呼ぶ声は、紛れもなくお母さんのものだった。
「こら、七海。いつまで寝てるのよ。……しかも制服のままじゃない。シワになるから、早くハンガーにかけて着替えて降りてきなさい。お夕飯、もうできたわよ」
私の部屋にちらりと顔を覗かせたお母さんは、私を見るなり眉間にしわを寄せた。申し訳ないと思いつつ、適当に返事をし、私はベッドからのそりと身体を起こす。
お母さんがリビングに戻った後、今が何時なのかを知りたくなり、枕の横に置いていたスマートフォンを手にした。暗くなった部屋の中で明かりを灯した画面は、十九時前を指している。
……もう、夕飯はできたって言っていたけれど。いつも十九時頃に仕事を終えて帰り、その後ご飯を作ってくれて。食事はだいたい二十時頃からだから、今日は少し早めに帰れたのかもしれない。
こんなにも長い間寝ていたことにも驚いたが、何より昼ご飯も食べていない私のお腹は空腹に耐えきれず、キュルルル、と根をあげる。
「……ふう、着替えるか」
お腹も空いているし、制服のままでいたんじゃ、きっとまたお母さんに叱られる。私はとりあえず服を着替え、夕飯を食べにリビングへ向かうことにした。
部屋着になり、制服をハンガーにかけながら、それをまじまじと見つめてみる。二年間と半年、身につけていた制服だ。白い半袖シャツにはところどころに薄い汚れがあり、スナップ式のリボンは少しだけほつれている。