「……っていう事件があったんだ」
次の日、診療所が閉まる直前に黒いスーツを着た男性にしては低めの身長の人物がやって来た。京は驚くことなく椅子に座り、男性の話を聞く。
男性の名は、末良昴(すえよしすばる)。警視庁の刑事でよく京を訪ねてくる。犯人の心理を京に教えてもらうためだ。
「捜査したところ、遺体は赤坂巴(あかさかともえ)だと判明した。バーのホステルをしている。死因は沼マムシに首筋を噛まれ、その毒によるものだ」
「沼マムシですって?日本にいるはずのない蛇じゃない」
沼マムシは、主にアフリカ東部から南部にかけての地域に生息している。日本にいることなどありえない。驚く京に、末良刑事は続ける。
「遺体を調べたところ、首筋には被害者の血液の他に豚の血液が混ざっていた。さらに胃の中からは体を一時的に麻痺させる薬も見つかった。つまり、何者かが被害者の体の自由を奪い、首に血を塗って蛇に襲わせた可能性が高い!」
末良刑事の推理を聞き、京は犯人の人物像を推測し始める。
「体の自由を奪っただけで、被害者に意識はあった。そして生きたまま蛇に襲われた。つまり、犯人は被害者に対して苦痛を感じてほしかった。犯人は被害者を憎んでいたかもしれないわ」
「なるほど」
末良刑事と遼河が同時に言う。京は立ち上がり、「事件現場を見せて」と支度を始めた。
事件現場となった廃墟は、診療所から四十分ほどの場所にあった。周りは木々に囲まれ、荒れ放題だ。
「不気味ですね。本当に幽霊が出そう……」
遼河は怯えるが、京は気にすることなく「事件のあった部屋はどこなの?」と末良刑事に訊ねる。
「こっちだ」
末良刑事に案内され、京と遼河は黄色のテープをくぐる。そして、埃の積もった廊下を歩いて事件のあった部屋へとやって来た。
「ここ、綺麗にしていれば絶対に立派な豪邸ですよね」
遼河がキョロキョロと部屋を見回す。部屋の広さは二十畳ほどで、家具などはない。埃の積もったフローリングが広がっている。
「ここに巴さんは亡くなっていた。部屋の中を沼マムシが動いていて、まずは沼マムシを捕獲することから始まったんだ」
末良刑事がそう言い、京は部屋を観察する。すると換気口を見つけた。京が換気口を覗くと、隣の部屋につながっている。
「えっ?この換気口、意味がないんじゃ……」
京と同じように換気口を覗いた遼河が驚く。京は末良刑事の方を見た。
「この隣の部屋は?」
「特に何もなかった。見るか?」
末良刑事に案内され、京は隣の部屋も見る。しかし、末良刑事の言った通り埃の積もったフローリングがあるだけだった。
赤坂巴の事件から数日。捜査は難航しているようで、何度も末良刑事は京のもとを訪ねてくる。
しかし、京の仕事は犯人像を推測することだけだ。事件の捜査に加わることはできない。京は自分の仕事をこなす日々を過ごしていた。
その日は、診療所での診察ではなく診療所に行けない人のところへ行くサービスの日だ。京と遼河はとある一軒家へと向かう。
「大きな豪邸ね……」
京と遼河の目の前には、道行く人が羨むであろう白い壁の豪邸が建っていた。京が呼び鈴を押すと、家の主人はすぐに顔を出す。
「初めまして。駿河雅彦(するがまさひこ)です。ミステリー作家をしています」
疲れ切ったような笑顔を男性は見せた。顔は青白く、体は痩せていて不健康であると誰もがわかる。しかし、京は微笑んで言った。
「芥川京と申します。駿河さんの小説、読ませていただいています。複雑なトリックにいつもわくわくします」
「ありがとうございます。立ち話も何ですから……」
駿河雅彦に案内され、京と遼河は彼の自室にあるソファに腰掛ける。客間などで話をしないのは、駿河雅彦本人が「ここで話したい」と言ったためだ。
「よかったらどうぞ」
駿河雅彦は、紅茶とクッキーを持ってやって来た。紅茶などを京と遼河の前に置き、自分も椅子に腰掛ける。
「……すごい数の本ですね。全部ミステリー小説だ」
遼河が壁際に置かれた本棚を見る。本棚には、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」や赤川次郎の「ひまつぶしの殺人」、アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」や湊かなえの「告白」など多くのミステリー小説があった。
「幼い頃から推理小説が好きで、この職に就いていなかったら探偵になっていたんじゃないでしょうか」
駿河雅彦はそう微笑み立ち上がると、本棚から一冊の本を取り出す。それは、シャーロック・ホームズの本だった。遼河の目が駿河雅彦の持つ本を見つめる。
「すごい……。全巻揃っているんですね」
京の呟きに、駿河雅彦は「ミステリーの中でも、ホームズが一番好きなんです。全巻集めました」と嬉しそうに言った。
ミステリー小説についてしばらく話した後、京は駿河雅彦のカウンセリングを行った。駿河雅彦は、六ヶ月以上様々な出来事や活動に対して不安や心配を抱えているそうだ。
「全般性不安障害ですね。お薬をお出ししておきます。しばらくカウンセリングを続けましょう」
京がそう言うと、「はい。ありがとうございます」と駿河雅彦は頭を下げる。
次回のカウンセリングの日を決め、京と遼河は駿河雅彦の豪邸を後にした。もうすでにお昼だ。
「お腹空きましたね。どこかで食べて行きませんか?」
「そうね。近くにお店はあるかしら」
遼河の提案に京は賛成し、近くにあったレストランで昼食を取ることになった。
レストランは新しくできたばかりのようで、店内は多くの人で賑わっている。
「うわ〜!綺麗ですね。おしゃれだ」
キョロキョロとレストランの中を見て遼河が言う。すぐに席に案内され、それぞれ注文をした。
「レストランで食べるの、久しぶりです」
「たまにはこういうのもいいわね」
京と遼河は料理が運ばれてくる間、楽しく話をした。普通の会話はカウンセリングとは違い、自分自身のことを話していい。京にとってリフレッシュになる。
「お待たせしました、オムライスです」
「ありがとうございます」
先に、遼河の頼んだ料理が運ばれてきた。京は「先に食べてもらって大丈夫よ」と微笑む。
「いいんですか?じゃあ、お先にいただきます!」
遼河はそう言い、スプーンを手にする。スプーンを上からギュッと握るように持った。上手持ちだ。京はその様子を眺めていた。
遼河がオムライスを半分ほど食べ終えた頃、京の頼んだハンバーグが運ばれてくる。京もナイフとフォークを手にし、食べ始めた。
「おいしい!」
「ですよね?」
二人でそんなことを言いながら食べていると、京のスマホに電話がかかってきた。末良刑事からだ。京は席を立ち、トイレへと向かう。
「はい」
「先生、今大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。どうされましたか?」
「実は……」
末良刑事の言ったことに、京は目を見開いた。
昼食を急いで食べ、京と遼河は事件現場へと向かう。末良刑事からの電話は、「また殺人事件があった」というものだった。
レストランから二十分ほどしか離れていない住宅街。紫陽花が植えられたその一軒の家の前には、パトカーが何台も止まり、何事かと野次馬が集まっていた。
「先生、こっちだ」
末良刑事が手招きをし、京と遼河は野次馬をかき分けて黄色のテープをくぐる。
「亡くなったのは、森山礼司(もりやまれいじ)。会う約束をした友人が家に来たところ、リビングで亡くなっていたそうだ」
末良刑事の後ろに続き、京と遼河はリビングに入る。そこには男性の遺体が転がっていた。相当苦しんだようで、その表情から京は思わず顔をそらしてしまう。遼河は無表情で遺体を見つめていた。
「死因は?」
京の質問に、「死因は解剖をしないとわからない。しかし、おそらくワインに毒が入っていたんだろう」と末良刑事はあごに手を当てながら言う。
テーブルの上にはワイングラスが置かれていて、そのグラスの中には半分ほどワインが入っている。ワインボトルもその近くに置かれていた。
「あれ?これは……」
遼河がテーブルに近づく。テーブルの上にはメモ用紙が残されていた。赤いペンで「RACHE」と書いてあった。どこかで見たことのある単語に、京はどこで見たっけと考え込む。
「亡くなった人のダイイングメッセージなんですかね?」
遼河が言うと、「なら普通犯人の名前を書くだろう」と末良刑事は言った。
「知らない人物に殺されたとか?」
「顔見知りでなかったら、わざわざ毒殺なんてすると思うか?」
末良刑事と遼河が推理合戦を繰り広げている間、京は部屋を観察していた。争った形跡などなく、モダンな家具が置かれている。
謎のメッセージを見た場所を京が思い出したのは、森山礼司の死因を末良刑事が教えに診療所にやって来た時だった。