ぽんは雛乃の変化について、憂慮していた。
はっきり言えるのは――雛乃は‟人型の男”と今まで触れ合ったことがなく、その雛乃が‟人型の男”である天満に難なく触れたこと。
触れられようものなら声もなく失神するのに、天満には普通に触っていたし、普通に話もしている。
…ただしなんだかいつも顔が赤いし緊張しているようには見えるけれど。
「つうわけで、おらはものすげえ驚いたんでさあ」
「そうなんだ。…もしかしたら前世で男にとても嫌な思いをさせられたのかもね」
「?前世…でやすか?」
「なんでもないよ」
雛乃は不安を抱くことのない環境に置かれたことで、随分穏やかになった。
びくびくすることもなく、また朔の命で常に誰かが雛乃を視界に入れている。
雛乃はそれに気付いていないが、特に天満は暁と三人で時を過ごすことが多く、万全の状態で見守っていた。
「雛が天様には心を開いてるように見えるんで、天様…雛をよろしくお願いしやす」
「うん、見守ってるよ」
安心したぽんが日頃の雑事をこなすためにその場を去ると、天満は鍛錬の休憩中に暁と共に庭の一角に作っている花畑で遊んでいる姿を目を細めて見ていた。
「天ちゃーん!お花の冠作ってあげるね!」
「じゃあ僕も暁に作ってあげようか」
天満はとにかく器用で、もたもたしている暁よりも早く紅色の花冠を作ってその小さな頭に乗せてやった。
大喜びした暁が焦りながら作っている間にもうひとつ花冠を作ると、それを雛乃の頭にぽすっと乗せた。
「え…これ…下さるんですか?」
「うん、似合ってるね。可愛い」
「!あ…あり、ありがとうございます…」
自然に雛乃を褒めて顔を真っ赤にさせた天満のたらしっぷりに、気配を殺して居間から見守っていた朔は、口元を押さえて笑いを噛み殺しながら、にやり。
「あれはやっぱり俺たちの弟だな。雛乃が溺愛されて寵愛されるのも時間の問題か」
「そうですね、奥手と思われがちですけど、うちは溺愛体質ですから天満も例に漏れないでしょうね」
長兄と次兄がにやにや。
にやにやしすぎて妻たちに気味悪がられても、にやにやし続けた。
天満には妻が居る――
だが屋敷内にその姿もなければ、誰も妻の話題を口にしない。
あれから雛乃の頭の中はそのことばかりで、けれど誰にも尋ねることができずに悶々としていた。
「雛乃さん、ねえ雛乃さん、聞いてる?」
「あっ、えっ?す、すみません…」
芙蓉と柚葉と朧の茶会に招かれた雛乃が上の空になってしまって慌てていると、芙蓉は柚葉と顔を見合わせて、意地悪げににたりと笑った。
「もしかして…頭の中は天満さんでいっぱいとか?」
「!?ななななな、なんでそんなこと…!」
「だって天満さん、麗しいもの。朔たちの前では無邪気になるし、でも戦闘においては凛々しくて…。私だったら天満さんが終始傍に居たら好きになっちゃうもの」
「芙蓉ちゃん、それ主さまの前で絶対に言わないでね…」
天満を好いている女が多いことも理解していた。
けれど本人は目も合わせずほとんど会話もしない。
会話をしてくれるのは彼女たちか、暁か、自分かといったところだ。
そんな奥ゆかしい天満に本当に妻がいるのか――?
とうとう我慢できなくなった雛乃は、きょろりと辺りを見回した後、ずいっと芙蓉たちに近付いて座り直した。
「あの…天様は…その…奥方がいらっしゃるのでは?」
とても言いにくそうに打ち明けた雛乃に対して、芙蓉と柚葉は口を濁してやや表情を曇らせた。
「まあ正確に言えば…‟居た”ということ位しか私たちには言えないわ」
「居た?それはその…離縁なさったという?」
「離縁ではないのよ。死別なの」
「え…」
――ああそれで、と合点がいった。
天満の美貌にいつもやや翳りがあるのはそういうことか、と理解できた。
理解できたと同時に――
胸が焼けるように痛くなって、両手で押さえて俯いた。
芙蓉たちは、それ以上天満についての情報を明かさなかった。
胸を押さえて俯く雛乃の膝にそっと触れた柚葉は、ふわふわの癖毛を耳にかけて小さく微笑んで雛乃をやんわり促した。
「天満さんに直接訊いてみるといいですよ、きっと教えてくれますから」
「でも…そんな…差し出がましい…」
「そんなことないわよ、天満さんあなたには優しいから、大丈夫」
――確かに天満は優しくしてくれるし、特別扱いしてくれている節はある。
だが女がはしたなく過去の話を根掘り葉掘り訊いてもいいものかと思い悩んでいた雛乃は、ぼんやりしたまま茶会を終えて暁の元に戻った。
「あ、雛ちゃんどこ行ってたの?天ちゃんが心配してたよ!」
「僕もだけど、暁の方がずっと心配してたよ」
縁側で天満の膝に座ってご満悦だった暁は、雛乃に駆け寄ってぎゅっと手を握った。
…天満は朗らかで太陽のように温かくて優しい。
妻を失うまではきっともっと明るかっただろうに、時折見せる翳りがどうしても気になる。
この際――はしたないと思われても気になるものは気になるのだから、訊くべきだと自身を鼓舞した雛乃は、暁が髪に挿していた藤の花の形をした髪飾りを指した。
「それも…奥様の形見なんですか?」
天満が一瞬ぎょっとした表情をしたのを雛乃は見逃さなかった。
未だにその美貌を直視することはできないが、それでも何度もちらちらと上目遣いを様子を窺っていると、天満は暁に木刀を投げてよこすと、池の方を指した。
「素振りの練習をしておいで。僕はちょっと休憩するから」
「うん!」
言われた通り素直に池の方に箸って言った暁を見送った天満は、ひとつ息をついて隣をぽんぽんと叩いた。
「誰から訊いたのか想像がつきますけど、訊きたいならここにどうぞ」
「あ、あの…はい…」
おずおずと天満に隣に座った雛乃は、天満が小さな声で‟どこから話そうかな”と呟いたのを聞き逃さなかった。
「最初から…最初から教えて下さい…」
「…長い話ですよ」
「構いません」
あなたが、気になるから。
天満の告白は、雛乃の想像以上に過酷なものだった。
妖は病で命を落とすことはほとんどないため、一体死別とはどういうことなのかと思っていたが――まさか夫に殺されてしまうなんて。
そして愛しい女を目の前で失ってしまった天満の心情を慮ると涙が止まらなくなって天満を困らせた。
「…楽しい話じゃないからあまり話したくなかったんですが」
「すみません…どうしても気になっちゃって…」
「でも朔兄に暁を任せてもらえたことで、失った娘だと思って慈しんで育てています。そうすることで正気を保っていられるんだと思う」
――羨ましい、と思った。
そんな風に誰かを心から深く愛して、こんな男に愛された女が羨ましかった。
「というわけで、妻子とは死別なんです。…泣かせてしまいましたね」
「いえ…無理に訊いてしまってごめんなさい…」
手拭いで顔を覆っている雛乃の肩を抱きたかったが、池の方で素振りをしている暁がじいっとこちらを見ていることに気がついて、やめた。
「いつか話そうとは思ってましたから。こうして暁と僕の傍に居る以上絶対耳に挟む話題でしたからね」
「寂しく…ないんですか?」
目を真っ赤にしながら立ち上がった天満を見つめた雛乃は、少し黙り込んで小さく笑ったその笑みに見惚れた。
「時々すごく寂しくなりますけど、僕には暁や朔兄たちが居ますから大丈夫」
「わ、私も…私も居ますから…」
思わず目を見張った天満は、ゆっくり暁の居る方に歩きながら雛乃に小さく手を振った。
「ありがとう。いつか頼りにするかも」
「頼りないかもしれませんが…頼りにして下さい」
ははっと声を上げて笑った天満の背中を見送った。
あの手に触れたい、と思った。
触れてほしい、と思った。
はじめて、そう思った。
その日から、雛乃は徐々に天満の心に寄り添おうと努力した。
何せ相手は目が潰れそうなほど眩い美貌の持ち主――傍に居るだけで緊張して、目を合わせることも満足にできない。
目が合うとぱっと逸らしてしまう――それでも天満は何ひとつ文句を言うことなく笑っていた。
どこか懐かしそうな表情を浮かべて、笑っていた。
「暁様は本当に天様がお好きなんですね」
「天ちゃん?うんそうだよ、だーい好き」
「まるで本当の親子のようで見ていると和みます」
「親子?違うよ、天ちゃんは私の未来の旦那むぐむぐっ」
団子を頬張りながらさも当然のように絶対誤解される発言をしようとした暁の口を慌てて塞いだ天満は、半ば羽交い絞めしながら作り笑顔で叱った。
「こら、妙なことを言うんじゃありません」
「天ちゃ、息!息ができないぃ!」
身体に回った天満の腕をばしばし叩いた暁は、解放してもらうと胸を張って背筋を正した。
「天ちゃんは私が守るの!天ちゃんに近付く女の人とか、天ちゃんを苦しませる悪い夢とか!」
「悪い…夢?」
回数こそ減ったものの、天満は未だに悪夢を見続けていた。
その度に暁が部屋を飛び出て天満の元へ向かうため、一体何事かと心配していた雛乃は、そこではじめて理由が分かって眉を潜めた。
「ずっと…見てるんですか?」
「まあ…そうですね。でも回数は減ったので」
「でも天ちゃんすっごい苦しそうなの。どうやったら見なくなるのかなあ?」
「君がすぐ駆けつけてくれるから大丈夫だよ。ほら、口の端に餡子がついてる」
天満に頼られてにこにこしている暁が可愛らしく和んだものの、天満の顔色が時々悪いのはこういうことかと分かった雛乃は、暁と同じように胸を張った。
「わ、私もすぐ駆けつけますから!暁様、私も呼んで下さいね」
「うん!一緒行こ」
ふたりで暁の頭を撫でて、愛でまくった。
雛乃が屋敷に来て半月が経った頃――ぽんの家族が幽玄町にやって来た。
自分がそうだったように命からがら逃げて来たのかと思ったが、ぽんの父母はぴんぴんしていて、目を丸くしながら庭に下りてふたりに縋り付いた。
「お父さん!お母さん!よく無事で…!」
「ああ雛や、お前こそよく逃げ延びた!私らは安倍晴明様の式神のおかげで無事にここまで辿り着くことができたんだよ」
「そうだったんだね、本当に良かった!」
ぽんも加わってもふもふの三匹とひとりが輪になってわちゃわちゃしているなんとものどかな光景だったが、会話は結構不遜なものだった。
「で、あの…あの方は…」
「お前が逃げた後血眼になって捜し回っていたようなんだが、家の矜持に関わると父親から止められていたらしいんだ。私たちはその隙に逃げて来たんだよ」
喉に棘が刺さったように、ずっと気になっていた。
あの男はどこまでも追って来る――そんな確信があって不安で胸が押し潰されそうになっていたが、それを和らげてくれたのは、天満と暁だった。
「雛ちゃん良かったね!私ももふもふしていいっ?」
「駄目」
傍の天満に窘められた暁が頬を膨らませた時、それまでずっと黙っていた朔が居間を指して中へ促した。
「よく来た。話があるから中に入れ」
「は、ははっ」
畏まって深く頭を下げたぽんの父母の手を取って立たせた雛乃が一緒に中へ入ろうとすると、朔がそれをやんわり止めた。
「俺たちだけで話すから、雛乃は暁を見ていてくれ」
「?は、はい…」
だが天満は朔に呼ばれて中に入り、珍しく障子まで閉めて外部から断絶したのを暁とふたり顔を見合わせて首を傾げた。
「なんだろうねえ?」
「さあ…。悪い話じゃなければいいのですが…」
――そしてぽんの父母もがちがちに緊張していた。
圧倒的な存在感を放つ朔、輝夜、天満に見つめられて、身を縮めて文字通り小さくなっていた。
ぽんの父母は朔たちと対峙して身を縮こまらせてひれ伏していた。
本来朔と会うには様々な手順があり、そしてすぐに会えるというわけでもなく、用件次第では会えないこともあるという。
妖を統べる家の、それも最も実力があると言われている三兄弟に見つめられて戦々恐々だったものの、朔はにこっと笑って緊張感を和らげた。
「赤子だった雛乃を拾い、よくここまで育ててくれた。感謝する」
「…?は、はい…」
いくら鬼族の子とはいえ、鬼族の始祖とも呼べるべき家の者に感謝される覚えはなく目を白黒させていると、朔は天満にちらりと視線を走らせた。
「詳しく調べてみたんだが、あの娘はうちの家と縁のある者だったんだ。ずっとずっと、捜していた。死んでいたらと思うとぞっとする」
ぽんの父は、雛乃が赤子だった時のことを思い返していた。
真新しい産着に包まれて、まだへその緒のついていた状態の雛乃は敷き詰められたやわらかい草の上に置かれていた。
懐には真っ赤な髪飾りが入れられていたが、それはさしたる情報ではないと思い、その場で話さなかった。
「そ、そうでございましたか…。あの娘はそれはもう可愛くて、狐狸族の手前どもで育てるのは骨が折れましたが、いい娘に育ってくれました。そうですか、主さまのお家と縁が…」
「だからお前たちには本当に感謝している。鬼脚の家の者と揉めているそうだが、これからはうちがお前たちを保護する。住処を提供するからそこでぽんと共に暮らしてくれ」
――思ってもない好待遇に恐れ戦いたぽんの父母たちは、それを断ろうと口を開きかけたが、それよりも先に天満が口を開いた。
「雛乃さんは次期当主の暁付きの傍仕えになりました。うちで手厚く保護しますし、誰にも触れさせません。あなたたちにはいつでも会えるように取り計らいます。他に安心できないことは?」
「あ、安心できないだなんてそんな!雛を…雛乃をよろしくお願いいたします!」
天満の声色に籠もった本当に大切に思う心を感じたぽんの父母は、またひれ伏して娘の幸せを願った。
「すみません、横から出しゃばってしまって」
「いや、構わない。暁と雛乃に関してはお前に一任しているから」
ぽんの父母を退出させた後朔に頭を下げた天満は、片手で口元を覆って赤くなっている顔を隠した。
「なんか僕、やっぱり雛ちゃんのことになるとむきになってしまって…」
「そんな雛乃とは仲は深まったのか?手でも繋いだか?いや、それ以上のことを…」
「な、何もしてませんよ!」
汗って顔の前で手を振る天満は兄弟の中で最も奥手であり、雛乃――雛菊以外の女とはほとんど接する機会を持って来なかった。
雛菊が死んでから時がかなり経ち、芙蓉と柚葉には若干心を開いている感はあったものの――
「何もしていない…?だが雛乃はお前の顔を見てぽうっとしているし、気があるんじゃないか」
「そうですよ、お前は女子の方から告白させるような男気のない男なのですか?私たちの弟はそんなに度胸のない男だったとは…」
「ちょっと待って下さい、僕だって迫りたいですよ。い、いや、迫りたいっていうか…もうちょっと時間を置いた方がいいかなと思って…」
「雛乃は可愛いからお前がもたもたしてるうちに知らない男に奪われるかもだぜ。そうなるとまた同じことを繰り返しちまうぞ」
雪男の忠告が胸に刺さった。
確かに前回はそれで取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
雛乃を大切にしたいと思う気持ちが強すぎて強く出られない自分が居るのは確かで、兄弟や雪男の助言はとてもありがたく、無視のできないものだった。
「そうですね…もうちょっと強く出てみます。そうしなきゃいけないと僕も思ってたから」
「お前に強く出られたら、どんな女でもすぐ落ちるだろう。応援するから頑張れ」
はにかんだ天満の頭を三人でぐりぐり撫でた。
ふたりはもう恋に落ちているも同然――
後は、きっかけのみ。
兄たちから背中を押された天満は、暁の部屋に戻ってふたりが遊んでいるのを見ていた。
自分から見ると、暁と雛乃の方がよっぽど親子のように見える。
天満自身としては暁を鍛錬しなければならなくて厳しく接しなければならないことが多いが、雛乃は思う存分甘やかしているし、顔つきは全然違うのに何故か親子のように見える。
見ているとなんだかとても穏やかな気分になってふたりを見ていると、暁がさっと近付いて来て膝に乗って身を乗り出して来た。
「ねえ天ちゃん」
「ん、なに?」
「雛ちゃんがここに来てひと月が経つでしょ?何かお祝いしてあげたいんだけど、何がいいかなあ?」
「そうだねえ…」
雛乃は着の身着のままの状態でここまで命からがら辿り着いたし、お洒落をしている姿をほとんど見たことがない。
お洒落をすればまた一段と可愛らしくなるはずなのに、と思っていた天満は、暁の耳元でこそこそ内緒話をした。
「柚葉さんにお願いして何か作ってもらったらどうかな?例えば耳飾りとか簪とか」
「!それいいね!天ちゃん天才!素敵!かっこいい!」
「ふふふ、褒めてもお菓子位しかあげないぞー!」
脇をくすぐると可愛い声を上げて転げ回る暁に目を細めた雛乃は、天満の笑顔を目にして顔が赤くなるのを感じながら、視線を落とした。
「ああそういえば雛乃さん、幽玄町はまだ散策してないのでは?」
「!あ、え、ええ…そうですけど別に出歩かなくても構いません」
「この町は安全ですから妙な輩は入って来れません。よければ僕が案内しましょうか」
「え…い、いいんですか?」
「いいですよ、そうと決まれば今から出かけましょう。暁はお留守番だからね」
えー、と残念そうな声を上げた暁の頭を撫でた天満は、自然に手を伸ばそうとして引っ込めた。
――まだ雛乃には触れたことがない。
触れたいと思うけれど、男に対して恐怖心を抱いている雛乃の心が近付くまで、自ら触れることはやめようと決めていた。