痛みと言うのは感じれば、どこまでも増してくるような気がする。

「我慢出来なければ呼んでください」

と、ナースコールのボタンを差し出したあの人、田嶋医師の顔がよぎる。
特別骨が折れている訳でもない。単なる打撲による痛みだと言っていたが、全身に針を刺されているような熱い様なそれでいて、寒気さえも感じる。
たまらず、ナースコールのボタンを押した。
「亜崎さんどうされました?」
インターホンから看護師の声がした。
「済みません体中が痛くて、たまんないんですけど」
「分かりました今行きますね」
ドアを開け病室に来たその看護師の顔を見た時、僕の胸は大きな音を放した。

美野里(みのり)
この世界には3人は、似た顔つきの人が存在すると言う事を訊いた事がある。
どことなく似ている。
今まで僕の中にしまい続けていた、何かがまた込み上げてきそうな感じ。
「どうかしました?」
その看護師が僕に問いかけた。
違う。
この人は普通に僕に話しかけている。
美野里は、彼女は。
富喜摩美野里(ときまみのり)、彼女は話す事が出来ない女性(ひと)だった。
高校時代同じ志を持ち、共に目標に向かい二人で小説に没頭した彼女。
僕らは二人であの時一つだったと思う。
人を愛すると言う事がどんな事なのか、いまだにはっきりとは分からないが、その時僕は、美野里を愛していた。
彼女がどんな障害を持とうが、彼女がどんなに周りから閉ざされた世界にいたとしても、僕は彼女の心の中にいつもいてくれたはずだ。
そして僕の中にも彼女、美野里の存在はとても大切な存在だった。
そう、とても大切な女性(ひと)で、ずっと一緒にいたかった。
出来る事なら僕の生涯を、彼女に捧げてもいいとさえ思っていた。

これが本気で人を愛することなんだと言う事を、教えてくれたのは彼女、美野里だったのかもしれない。
だけど、その時はまだ僕は本気で彼女のすべてを包み込むことは、出来ていなかったんだと思う。
いくら気持ちだけは本気だと、その気持ちがどんなに強きものだとしても、現実は僕の幼さを見逃さなかった。
それを言うなら、美野里の方があの苦境の中自分の道をすでに歩んでいたのかもしれない。

「亜崎さん、少し熱も出て来たようですね。先生から、点滴の指示がありました。痛み止めも入れてありますから、少ししたら落ち着くと思います」

ちらっと看護師の名札を見た。「鶴見明子(つるみあきこ)」と書かれたプレート、やっぱり美野里じゃない。
そんな事は分かっていたが、本当によく似ている。
「2時間ほどで終わりますから、終わりましたら呼んでくださいね」
にっこりと微笑んだその顔は、懐かしさでいっぱいになる僕の胸の中で静かに薄れていった。

うとうとして夢を見ていたんだと思う。
何だろう物凄く切ない想いが僕を包み込んでいた。

キラキラと光る噴水の水しぶき。夏の日差しにその水滴は一粒一粒輝いていた。
時折僕らを包み込む風は、美野里のあの(かお)りを僕の躰にまとわせた。
甘く、それでいてどこか悲しげな感じを(さそ)う香。
上手く表現は出来ないが、美野里からはそんな感じの香りがしていた様に思う。
美野里は泣いていた。

あの水しぶきの様な涙を溢れ出していた。
いつもあの自宅近くの公園のベンチで、彼女は一人涙を流していた。
そんな夢を僕は見ていたような気がする。

病室の天井を見つめながら、美野里の事を思い出していた。

富喜摩(ときま)の存在を意識し始めたのは、高校2年の始めの頃だった。
1年の時も同じクラスだったが、その時は彼女の存在は僕にとって、ただのクラスにいる人に過ぎなかった。

話す事の出来ない障害を持つクラスメイト。

入学したての頃は、同じクラスの女子たちと筆談で話をしていたようだった。だけど、そのめんどくささに次第にクラスの女子たちは、富喜摩との距離を置く様になった。

気が付けば富喜摩はいつも一人っきりで教室にいる。地味で根暗な女の子と言うイメージが植え付けられていた。まぁ確かに外見も、長く伸ばした髪は後ろで一本結い。黒縁眼鏡で、いつも何か分からないが本を読んでいた。
そんな彼女も、自分が避けられている事を自覚しているかのように、他の女子と交わろうともしなくなっていた。

ホームルームが終われば、すぐに富喜摩の席は空になっている。

一刻も早くこの教室と言う空間から逃げ出したい。そうとも思えるくらい彼女がこの教室から姿を消すのは早かった。
そんな彼女の行動を気にするクラスメイトは、この空間には誰一人いなかった。

逃げ出す様に学校を出る富喜摩の行先を僕は、知っていた。
学校帰り、電車を途中下車して立ち寄る西区図書館。
僕の家がある東区にも図書館はあるが、規模は西区図書館の方が充実していた。
たまに立ち寄るこの西区図書館で、いつも富喜摩の姿を目にしていた。
「彼奴いつもここにきているんだ」
そんな事を思っていても、僕は富喜摩に話しかける事は無かった。

あの時、富喜摩の秘密を知るまでは……。

僕も性格的には決して、表に出たがろうとするような性格ではなかった。目立つよりは、人の影にそっと隠れている方が無難と言う様な性格だった。
そんな僕の唯一の趣味は、小説? 小説とは到底呼べない様な、ただ文章を羅列したかのような文字の塊。
そんなものを無意識の様に書き綴っていた。

一つの物語として書き始めたきっかけは、読み終わった本の最後で目にした小説大賞の公募のページを目にした時からだった。
賞金が出る。
その賞金に目がくらんだと言えば、正直なところだろう。

とにかく物語を書こうと、いろんな本を読み(あさ)る為、図書館に通う回数も増えた。
図書館で富喜摩の姿を見る回数も当然の様に増えた。
それでも相変わらず僕は彼女に声をかける事も、何を読んでいるのかと気に留める事すらなかった。
彼女とは離れた席で黙々と本を読み、メモを取ったりノートに小説もどきを書き綴っていた。

そんなある日、ふと図書館で目にした富喜摩の姿に、いつもと違う感じを覚えた。その日、いつもは気にも留めない富喜摩の事が物凄く気になった。
本を読んでいない。ノートに書き込んでいる訳でもない。
いつしかじっとその姿を見つめていた。

耳の辺りから垂れ下がるコードの様なものが見えた。その先にある肝心の手元が仕切り版で見えない。
パソコン? いや、そんなに大きなものではないだろう。
まさか携帯で何かを書いているのか?
携帯で小説を書く人もいると聞いた事があったが、彼女も携帯を使って何かを書いているのか?
だとしたら何を書いているんだ? ただのメールかもしれない。友達へのメール? 富喜摩にそんな親しい友達なんていたのか?
それとも家族なのか?
彼女への好奇心は、高まるばかりだ。

やはりあのコードはイヤホンだった。彼女は耳からイヤホンを取り、その席から立ち上がりどこかに向かった。
トイレにでも行ったのか?
どうしても気になった。普段は気にも留める事なんかなかった彼女の席にゆっくりと体が動く。

そのディスクの上に置かれていたものは、最新型のモバイルパソコン。薄型でコンパクトなものだった。
画面は黒く消えていた。恐る恐るちょっと触れてみた。その瞬間ディスプレイが光り出し、画面に何かが映し出された。

その画面を見た時、僕は驚いた。
文字がたくさん書かれていた。いや、文字じゃないこれは文章だ。
勝手にこれを読んではいけない。
それは分かっていた。だけど、好奇心の方がその時の僕は強すぎたようだ。
文章? いいや、これは小説の様だ。
目に入る文字を読み始めていた。面白い!
使う言葉もまるで、どこかの作家が使う様な言葉を、ふんだんに使いこなしている。

画面に出ている部分だけをさくっと読んだが、どうしても初めの方から読みたくなった。いつしか僕の指は画面をスクロールし始めていた。
その時だ! 僕の頭に思いっきりげんこつが飛んできた。
振り向くと、顔を真っ赤にして、今にでも泣き出しそうな目で僕をにらんでいた。
「ご、ごめん。悪気はないんだ! 本当なんだ。今日富喜摩の様子がいつもと違っていたから、気になって……ご、ごめん」

力いっぱいこぶしを握り締め、震わせながら「う、ううあが……あがううう」
言葉にならない富喜摩の声が僕に向けられる。