優子のマンションにたどり着いたときには、もうあたりは薄暗くなっていた。
雨は次第に強さを増していた。
ドアフォンのボタンを押す。
深緑色をした重厚なドアのオートロックが「カチャ」と解除される音がする。
そっとドアを開けた。ドアチェーンはかけていなかった。
ソファに体を沈み込ませるように優子はある本に目を向けていた。
「優子」彼女の名を口にしたが、優子は何も反応しない。
「優子」
それでも彼女は反応しなかった。
優子が読んでいた本。それは俺と沙織がともに描いた小説だった。
どうして今その物語を読んでいる。
何度も何度も読み返したんじゃないのか。
俺はその本を優子の手から取り上げた。ゆっくりと顔を上げ俺を見つめる優子のその眼には、今までの様な奥に秘めた力強さは感じられたれなかった 。
「何しに来たの?」
その弱弱しい声に、俺の胸は締め付けられるように痛くなった。
「すまん。俺がふがいないばかりに、お前までこんな思いをさせてしまった」
すっと立ち上がった優子は、俺に
「そうよ、あなたが今までずっと抱えていたもの、私も一緒に抱えていたことあなたはわかっているの?」
「すまん……」そのあとの言葉は何も出てこなかった。
「結局あなたは過去の恋にずっとしがみついている未練がましい、ただの道化師よ。沙織さんのことがずっと忘れられないでいる。当の彼女はあなたのことはきれいさっぱり自分から消し去ってしまっているのよ」
確かにそうだ。
沙織は俺だけの記憶を沙織のすべてから消し去ってしまった。だか、それはこの俺が望んだことだ。彼女から消えた記憶、それは彼女が本当に心の底から想い、大切にしていたものだ。それがこの俺であったという事を、彼女は自らの記憶を消すことによってこの俺に教えてくれた。
唯一残ったのはこの絶版となった、初版のこの物語だけだ。
この物語はいわば俺ら二人の記憶を残した、メモリアルだったのかもしれない。
沙織は自分の記憶が消えてしまう事を知っていた。
初めに彼女に出会ったとき、俺はその彼女の奥に秘めた悲しみ、いや恐怖といった方がいいのかもしれない。
その隠されたどこかミステリアスな感情に、俺の心が反応した。もしかしたらそうかもしれないな。
確かに沙織はある目的をもってこの俺に近づいてきた。
この俺をはじめ、彼女は利用しようとした。
偽りの恋を演じ、その恋に溺れることを目的として沙織はこの俺を『愛』したんだ。それはたとえ偽りであろうとも、本当の『恋』でなければいけなかったんだ。
その偽りの恋をこの俺は全て受け入れた。それが俺が選んだ道であり、沙織に対する本当の想いだったから。
本当の『恋』とは何だろう。
沙織を愛さなければ俺は彼女を助け出すことはできなかった。一人抱え込んでいたあの恐怖を一つでも取り払ってあげたかった。
この物語はこの俺の想いを、沙織に捧げた愛という想いを描いたものだ。
二人で一つ。
共に同じ目的に向かい、ともにその結末を望み。終わりを告げた。
この本が絶版となった時。この俺自身の想いも断ち切らねばならなかったのかもしれない。
目に涙を浮かべ、じっと俺を見つめる優子の体を抱き寄せた。
強く、優しく、俺は優子のその華奢な躰を抱きしめた。
「偽りの恋はもろ刃の矢だ。決して心の奥深くにまで刺さることはない。だが、その矢が本当の『恋』という矢に変わった時、その矢の刃は心の奥深くまで突き刺さる。今のこの俺では本当の強い矢を、優子に刺し込めることはできないだろう。それでも……、例え折れて粉々になってしまう矢でも、俺はお前に刺していいのか。そのあとに残された無界と言う世界が、待ち受けていたとしても」
そっと優子の手が俺の背を包み込んだ。
「例えそれが偽りの『愛』であっても、あなたは本当の『愛』にその矢を変えることが出来た人。私はそのあなたの『愛』を信じたい。例えこの先どんな結末が待ち受けていようとも、今度は私との物語を一緒に描いてほしい」
降りしきる雨、窓に打ち付ける雨音。突如閃光がはしり、すべての光が消えうせた。
優子の鼓動が俺の胸に響くのを感じる。暗がりの中、二人の唇は重ね合う。
流れ出す二人の唾液をすくうように、優子の首筋に舌が這う。背に回し抱きしめる彼女の腕に力が入る。
溶け出す心の歪みの中に、優子の温かさが入り込んでいく。
人の心の温かさは、儚くそして物悲しい。
それを受け止めた時から共に、いつか来る別れの日に向かい歩み始めるのだ。
いつかは必ず、別れなければいけないときがやってくる。
その彼方の未来にある僕らのその姿を、今は見ることはできない。
『なかなかに黙あらまし何すとか
相見そめけむ遂げざらまくに』
最後までし遂げることが出来ない恋ならば、いっそうの事恋をしなかった方がよかったかもしれない。
僕はそうとは思わない。
『恋』は……、盲目なれど、その迷いが我を、自分の道を導く一つの道しるべであると……。
僕は思う。
僕はこの本の続編を今まで書き続けてきた。だが、もうそろそろ終焉の時期に来たのだろう。
そのためにあの時、「偶然の悪戯」は沙織に合わせたのかもしれない。
青い時代の恋は終わりを告げたんだ。
そして、新たに生まれた『愛』を受け入れる事が、これから僕が進むべく道しるべとなりうるものだろう。
キャンバスは人生そのものだ。新たに布を張り付けることはできる。だが、それはやめておこう。
今まで書かれた絵は白い油絵具で塗りつぶされ、また新たな絵をそのキャンバスに描く。
なぜなら『恋』は重ねることによって今が……あるのだから。
雨は次第に強さを増していた。
ドアフォンのボタンを押す。
深緑色をした重厚なドアのオートロックが「カチャ」と解除される音がする。
そっとドアを開けた。ドアチェーンはかけていなかった。
ソファに体を沈み込ませるように優子はある本に目を向けていた。
「優子」彼女の名を口にしたが、優子は何も反応しない。
「優子」
それでも彼女は反応しなかった。
優子が読んでいた本。それは俺と沙織がともに描いた小説だった。
どうして今その物語を読んでいる。
何度も何度も読み返したんじゃないのか。
俺はその本を優子の手から取り上げた。ゆっくりと顔を上げ俺を見つめる優子のその眼には、今までの様な奥に秘めた力強さは感じられたれなかった 。
「何しに来たの?」
その弱弱しい声に、俺の胸は締め付けられるように痛くなった。
「すまん。俺がふがいないばかりに、お前までこんな思いをさせてしまった」
すっと立ち上がった優子は、俺に
「そうよ、あなたが今までずっと抱えていたもの、私も一緒に抱えていたことあなたはわかっているの?」
「すまん……」そのあとの言葉は何も出てこなかった。
「結局あなたは過去の恋にずっとしがみついている未練がましい、ただの道化師よ。沙織さんのことがずっと忘れられないでいる。当の彼女はあなたのことはきれいさっぱり自分から消し去ってしまっているのよ」
確かにそうだ。
沙織は俺だけの記憶を沙織のすべてから消し去ってしまった。だか、それはこの俺が望んだことだ。彼女から消えた記憶、それは彼女が本当に心の底から想い、大切にしていたものだ。それがこの俺であったという事を、彼女は自らの記憶を消すことによってこの俺に教えてくれた。
唯一残ったのはこの絶版となった、初版のこの物語だけだ。
この物語はいわば俺ら二人の記憶を残した、メモリアルだったのかもしれない。
沙織は自分の記憶が消えてしまう事を知っていた。
初めに彼女に出会ったとき、俺はその彼女の奥に秘めた悲しみ、いや恐怖といった方がいいのかもしれない。
その隠されたどこかミステリアスな感情に、俺の心が反応した。もしかしたらそうかもしれないな。
確かに沙織はある目的をもってこの俺に近づいてきた。
この俺をはじめ、彼女は利用しようとした。
偽りの恋を演じ、その恋に溺れることを目的として沙織はこの俺を『愛』したんだ。それはたとえ偽りであろうとも、本当の『恋』でなければいけなかったんだ。
その偽りの恋をこの俺は全て受け入れた。それが俺が選んだ道であり、沙織に対する本当の想いだったから。
本当の『恋』とは何だろう。
沙織を愛さなければ俺は彼女を助け出すことはできなかった。一人抱え込んでいたあの恐怖を一つでも取り払ってあげたかった。
この物語はこの俺の想いを、沙織に捧げた愛という想いを描いたものだ。
二人で一つ。
共に同じ目的に向かい、ともにその結末を望み。終わりを告げた。
この本が絶版となった時。この俺自身の想いも断ち切らねばならなかったのかもしれない。
目に涙を浮かべ、じっと俺を見つめる優子の体を抱き寄せた。
強く、優しく、俺は優子のその華奢な躰を抱きしめた。
「偽りの恋はもろ刃の矢だ。決して心の奥深くにまで刺さることはない。だが、その矢が本当の『恋』という矢に変わった時、その矢の刃は心の奥深くまで突き刺さる。今のこの俺では本当の強い矢を、優子に刺し込めることはできないだろう。それでも……、例え折れて粉々になってしまう矢でも、俺はお前に刺していいのか。そのあとに残された無界と言う世界が、待ち受けていたとしても」
そっと優子の手が俺の背を包み込んだ。
「例えそれが偽りの『愛』であっても、あなたは本当の『愛』にその矢を変えることが出来た人。私はそのあなたの『愛』を信じたい。例えこの先どんな結末が待ち受けていようとも、今度は私との物語を一緒に描いてほしい」
降りしきる雨、窓に打ち付ける雨音。突如閃光がはしり、すべての光が消えうせた。
優子の鼓動が俺の胸に響くのを感じる。暗がりの中、二人の唇は重ね合う。
流れ出す二人の唾液をすくうように、優子の首筋に舌が這う。背に回し抱きしめる彼女の腕に力が入る。
溶け出す心の歪みの中に、優子の温かさが入り込んでいく。
人の心の温かさは、儚くそして物悲しい。
それを受け止めた時から共に、いつか来る別れの日に向かい歩み始めるのだ。
いつかは必ず、別れなければいけないときがやってくる。
その彼方の未来にある僕らのその姿を、今は見ることはできない。
『なかなかに黙あらまし何すとか
相見そめけむ遂げざらまくに』
最後までし遂げることが出来ない恋ならば、いっそうの事恋をしなかった方がよかったかもしれない。
僕はそうとは思わない。
『恋』は……、盲目なれど、その迷いが我を、自分の道を導く一つの道しるべであると……。
僕は思う。
僕はこの本の続編を今まで書き続けてきた。だが、もうそろそろ終焉の時期に来たのだろう。
そのためにあの時、「偶然の悪戯」は沙織に合わせたのかもしれない。
青い時代の恋は終わりを告げたんだ。
そして、新たに生まれた『愛』を受け入れる事が、これから僕が進むべく道しるべとなりうるものだろう。
キャンバスは人生そのものだ。新たに布を張り付けることはできる。だが、それはやめておこう。
今まで書かれた絵は白い油絵具で塗りつぶされ、また新たな絵をそのキャンバスに描く。
なぜなら『恋』は重ねることによって今が……あるのだから。