「先生、先生……」
「う、うん」
「先生ってば、風邪ひいちゃいますよ。またこんなところで寝ちゃって、窓も開けっぱなしだし。ここ海風が真っすぐ入ってくるからこの季節でも夜は冷えるのに」
田中はディスクの上にある原稿の走り書きを数枚手に取り、ゆっくりといつくしむように見つめていた。
「苦しいなぁ……。こんなに私も愛されてみたい」
編集担当の田中真由美の温かい手が僕の頬に触れた。
何か抜け落ちた僕の心の中に、その温かさが染み込んでいくような感覚がする。
「沙織……」
一瞬、あの時偶然出会った沙織の姿が浮かび上がった。
「沙織、沙織。どうしたんだ、僕だよ達哉だよ」
「達哉さん、あなたは誰なの? どうして私の名前を知っているんですか?」
「何言っているんだよ。僕らは……」
「……さようなら」
沙織のその言葉を描いたとき、僕は目覚めた。
その視界には、田中真由美の姿が映しだされていた。
「大丈夫ですか先生。大分うなされていたようですけど」
心配そうに僕を見つめる彼女の顔。
その顔を見てはっと我にかえった。
「た、田中。来ていたのか」
「はい、来ておりましたわよ」
何食わぬ顔で寝起きの僕の顔を覗き込んだ。
「かわいいい!」
「かわいいって……」
「有田先生、亜崎先生ようやく起きましたよ」
「よ! おはよ亜崎君」
優子まで来ていたなんて! どうしたんだ。
パンツタイプジーンズに無地の黒ポロシャツ。今日のチーフの色は? オレンジだ。という事はまぁご機嫌であるという事だろう。優子は髪を束ねるチーフの色でその日の気分がわかる。今日はオレンジだがこれがブルー系の時はそっと当たらず触らず、「触らぬ神にたたりなし」これは俺が優子と一緒に暮らしていたころ身につけた一種の防衛情報だ。
「ねぇ、亜崎君。珈琲飲むでしょ」
「ああ、それじゃ、俺が煎れるよ」
台所に向かう優子が少し得意げに言う。
「私のところで煎れてきているから大丈夫よ。それにあなたの所にはインスタントしかないでしょ」
「あ、すまん。今度買っておくよ」
「まったく不精になってしまったんだから。前はインスタントなんか絶対に飲まなかったのにね」
台所から、甘く香ばしいにおいが立ち込めてくる。
珈琲の香りじゃない。
フレンチトースト?
「なぁ優子、もしかしてフレンチトースト焼いている?」
少し躊躇したような声で。
「……え、ええっと、そうね。フレンチトースト焼いているけど」
優子がフレンチトーストを焼くときは、必ず何かある時だ。しかも田中まで同行している。
絶対この後、なにかある。
ちらっと時計を見る。9時を少し過ぎたところだ。優子の所からここまでは車でも1時間はかかるだろう。それなのに珈琲は煎れてきているし、たぶん彼女のことだ、フレンチトーストも下準備だけはしてきていたに違いない。
台所から鼻歌らしきものまで聞こえてくる。
彼奴から鼻歌が聞こえてくるときはかなりの無理難題が、今この自分の前に立ちふさがろうとしている瞬間だ。
「田中。なにかあるんだろ?」
「え、え――っと。その……。有田先生助けてください」
「はい、フレンチトーストと珈琲。どうぞ召し上がってください。亜崎先生」
台所のテーブルに3人分の朝食が準備されていた。
「冷めないうちにどうぞ」
にこやかに手を差し伸べる優子のその笑みを見て少し身震いがする。
「お前ら何企んでいるんだ、いったい」
「あら、わかっちゃった! 亜崎君こういう時の直感て鋭いもんね」
鋭いも何も見え見えなんだよ。何度同じ手をくらわされたことか。
いきなりそのほほ笑んだ優子の顔が真顔になり、手を拝む様に合わせて。
「お願い、亜崎君仕事手伝って!」
「はぁ?」
「私からもお願いします亜崎先生」
その横で深々と田中が頭を下げた。
「仕事を手伝えっていったい何をすればいいんだよ。そもそも、俺と優子の作風は全く正反対じゃないか。そんなのにどうするんだ」
「その正反対がいいの。あなたの書く世界観が今私は欲しいの」
「世界観? そんなこと言っちゃ、優子の作品じゃなくなってしまうんじゃないのか? 俺が代わりに代筆しろって言うのか。それはお互いに不利益になるに決まっている」
「そう、お互いに不利益。でも、私はそれを承知の上であなたにお願いをしているの」
「何を言っているんだ優子。まったく意味がわからない」
「亜崎先生、私たち昨日からずっと話し合っていたんです。有田先生の新作のこと」
「新作。優子お前だったらいくらでも書けるじゃないか。お前が書けば、いや、優子の書いたものはいつもトレンド入りしているんだからな」
「亜崎君、それって私に対する嫌味? それとも……」
優子の言葉をさえぎるように田中は椅子から立ち上がり。
「ごめんなさい。これはうちの編集長からの依頼なんです。有田先生に、編集長から『純愛』をテーマに書いてもらいたいって。だから今まで何度も企画書上げて来たんです。でも編集長はどれも受け入れてくれなくて。それで昨日先生と一緒に編集長の所に行ったんです。そこで一言言われたんです」
『有田優子の本当の愛が知りたい』って。
有田優子の本当の『愛』
その言葉を聞いたとき、一気に力が抜けた様に椅子に座り込んでしまった。
俺ら二人にはそもそも『愛』というものは、あったんだろうか。
あの時、何もかも失ったこの俺を優子は、ただ、ただ何も言わず優しく、そしてあたたかくその胸の中で受け止めてくれた。
俺にはわかっていた。優子の気持ちが、その真っすぐな想いを俺はずっと知っていながら、それを受け入れようとはしなかった。
受け入れるのを拒みながら、俺は優子にすがった。
今、こうして作家としての俺があるのも、全ては優子のおかげと言っても過言ではないだろう。それなのに、いまだに俺は、捨てきれない想いにすがっている。もう、元に戻すことはできないかもしれない。
今村沙織という、俺が『愛』した人のことを……。
消し去ることはできないでいた。
「う、うん」
「先生ってば、風邪ひいちゃいますよ。またこんなところで寝ちゃって、窓も開けっぱなしだし。ここ海風が真っすぐ入ってくるからこの季節でも夜は冷えるのに」
田中はディスクの上にある原稿の走り書きを数枚手に取り、ゆっくりといつくしむように見つめていた。
「苦しいなぁ……。こんなに私も愛されてみたい」
編集担当の田中真由美の温かい手が僕の頬に触れた。
何か抜け落ちた僕の心の中に、その温かさが染み込んでいくような感覚がする。
「沙織……」
一瞬、あの時偶然出会った沙織の姿が浮かび上がった。
「沙織、沙織。どうしたんだ、僕だよ達哉だよ」
「達哉さん、あなたは誰なの? どうして私の名前を知っているんですか?」
「何言っているんだよ。僕らは……」
「……さようなら」
沙織のその言葉を描いたとき、僕は目覚めた。
その視界には、田中真由美の姿が映しだされていた。
「大丈夫ですか先生。大分うなされていたようですけど」
心配そうに僕を見つめる彼女の顔。
その顔を見てはっと我にかえった。
「た、田中。来ていたのか」
「はい、来ておりましたわよ」
何食わぬ顔で寝起きの僕の顔を覗き込んだ。
「かわいいい!」
「かわいいって……」
「有田先生、亜崎先生ようやく起きましたよ」
「よ! おはよ亜崎君」
優子まで来ていたなんて! どうしたんだ。
パンツタイプジーンズに無地の黒ポロシャツ。今日のチーフの色は? オレンジだ。という事はまぁご機嫌であるという事だろう。優子は髪を束ねるチーフの色でその日の気分がわかる。今日はオレンジだがこれがブルー系の時はそっと当たらず触らず、「触らぬ神にたたりなし」これは俺が優子と一緒に暮らしていたころ身につけた一種の防衛情報だ。
「ねぇ、亜崎君。珈琲飲むでしょ」
「ああ、それじゃ、俺が煎れるよ」
台所に向かう優子が少し得意げに言う。
「私のところで煎れてきているから大丈夫よ。それにあなたの所にはインスタントしかないでしょ」
「あ、すまん。今度買っておくよ」
「まったく不精になってしまったんだから。前はインスタントなんか絶対に飲まなかったのにね」
台所から、甘く香ばしいにおいが立ち込めてくる。
珈琲の香りじゃない。
フレンチトースト?
「なぁ優子、もしかしてフレンチトースト焼いている?」
少し躊躇したような声で。
「……え、ええっと、そうね。フレンチトースト焼いているけど」
優子がフレンチトーストを焼くときは、必ず何かある時だ。しかも田中まで同行している。
絶対この後、なにかある。
ちらっと時計を見る。9時を少し過ぎたところだ。優子の所からここまでは車でも1時間はかかるだろう。それなのに珈琲は煎れてきているし、たぶん彼女のことだ、フレンチトーストも下準備だけはしてきていたに違いない。
台所から鼻歌らしきものまで聞こえてくる。
彼奴から鼻歌が聞こえてくるときはかなりの無理難題が、今この自分の前に立ちふさがろうとしている瞬間だ。
「田中。なにかあるんだろ?」
「え、え――っと。その……。有田先生助けてください」
「はい、フレンチトーストと珈琲。どうぞ召し上がってください。亜崎先生」
台所のテーブルに3人分の朝食が準備されていた。
「冷めないうちにどうぞ」
にこやかに手を差し伸べる優子のその笑みを見て少し身震いがする。
「お前ら何企んでいるんだ、いったい」
「あら、わかっちゃった! 亜崎君こういう時の直感て鋭いもんね」
鋭いも何も見え見えなんだよ。何度同じ手をくらわされたことか。
いきなりそのほほ笑んだ優子の顔が真顔になり、手を拝む様に合わせて。
「お願い、亜崎君仕事手伝って!」
「はぁ?」
「私からもお願いします亜崎先生」
その横で深々と田中が頭を下げた。
「仕事を手伝えっていったい何をすればいいんだよ。そもそも、俺と優子の作風は全く正反対じゃないか。そんなのにどうするんだ」
「その正反対がいいの。あなたの書く世界観が今私は欲しいの」
「世界観? そんなこと言っちゃ、優子の作品じゃなくなってしまうんじゃないのか? 俺が代わりに代筆しろって言うのか。それはお互いに不利益になるに決まっている」
「そう、お互いに不利益。でも、私はそれを承知の上であなたにお願いをしているの」
「何を言っているんだ優子。まったく意味がわからない」
「亜崎先生、私たち昨日からずっと話し合っていたんです。有田先生の新作のこと」
「新作。優子お前だったらいくらでも書けるじゃないか。お前が書けば、いや、優子の書いたものはいつもトレンド入りしているんだからな」
「亜崎君、それって私に対する嫌味? それとも……」
優子の言葉をさえぎるように田中は椅子から立ち上がり。
「ごめんなさい。これはうちの編集長からの依頼なんです。有田先生に、編集長から『純愛』をテーマに書いてもらいたいって。だから今まで何度も企画書上げて来たんです。でも編集長はどれも受け入れてくれなくて。それで昨日先生と一緒に編集長の所に行ったんです。そこで一言言われたんです」
『有田優子の本当の愛が知りたい』って。
有田優子の本当の『愛』
その言葉を聞いたとき、一気に力が抜けた様に椅子に座り込んでしまった。
俺ら二人にはそもそも『愛』というものは、あったんだろうか。
あの時、何もかも失ったこの俺を優子は、ただ、ただ何も言わず優しく、そしてあたたかくその胸の中で受け止めてくれた。
俺にはわかっていた。優子の気持ちが、その真っすぐな想いを俺はずっと知っていながら、それを受け入れようとはしなかった。
受け入れるのを拒みながら、俺は優子にすがった。
今、こうして作家としての俺があるのも、全ては優子のおかげと言っても過言ではないだろう。それなのに、いまだに俺は、捨てきれない想いにすがっている。もう、元に戻すことはできないかもしれない。
今村沙織という、俺が『愛』した人のことを……。
消し去ることはできないでいた。